手を伸ばせば君がいる

三山 響子

手を伸ばせば君がいる

 電車内は帰路に着く人々ですし詰め状態だった。人混みに揉まれながら空いている吊革をなんとか掴み、ほっと一息ついて窓の外を眺める。

 外はもう真っ暗で夜が深まりつつあるけど、窓の外に見えるオフィスビルにはまだ所々明かりが灯っていて、流れ星のように次々と車窓を横切っていく。

 

 流れ星の中の人たちは一体いつまで働くんだろうか。そんな事をぼんやり考えながら、コートのポケットから携帯電話を取り出してインターネットにアクセスする。


 ネットニュースに目を通していると、急に車内の空気が薄まったような気がした。酸素が足りない?いや、辺りを見渡しても他の乗客に特に変わった様子はない。気のせいかな。

 視線を画面に戻して続きを読もうとしたら、どんどん息が苦しくなってきた。どうしちゃったんだろう、私。酸素が、酸素が足りない。とにかく次の駅で一旦降りよう。しかし乗った電車はあいにく急行で、次の駅に到着するのはあと10分も先だった。

 

 恐怖で頭の中が真っ白になり、顔中からどっと汗が噴き出した。


 どうしよう、苦しい、空気が足りない。早く外の空気を吸い込みたい。せめてドア付近まで行きたいけど、人混みで身動きが全く取れない。

 どうしよう、このままだと死んでしまう。でもこの場からは逃れられない。どうしよう、どうしよう。もう息ができない。誰か助けて――――――――!









「……という訳で、今日は記念すべき今年初の有休なのです!」

「お前、どういう意味だよ」

「今言ったじゃん。ざっくりとだけど」

「複雑に説明してください」


 いつになく真剣な眼差しを向けられ、私はベッドから起き上がると、勉強机の椅子に腰掛けているとおるに向かって医者から受けた説明を淡々と繰り返した。


 パニック発作。不安症のひとつ。ある日突然激しい動悸や呼吸困難が起こり、「このまま死んでしまうのではないか」という強い不安に襲われる。過度なストレスやプレッシャーが要因のひとつと言われている。


「エミがそんな事になるなんて驚きだな。風邪すら滅多に引かないのに」


 透の言葉にうんうんと頷く。幼い頃から健康にだけは自信があった。急病人が出て電車が止まる経験は何度かした事があるけど、まさか自分が電車を止め、駅員さんに介抱され、心療内科を受診し、抗不安薬を処方される日が来るなんて。


 平日14時。母は私と透を家に残して買い物に出かけた。成人した男女が2人きりで部屋に篭っていても親が全く心配しないのは、私と透が幼馴染という揺るぎない絆で結ばれている証だ。


「で、何がストレスだったの」

「それが心当たりがないんだよねー。食欲あるし、仕事はまあ忙しいけど慣れてきたし、彼氏いないのは寂しいけど友達も沢山いるし」

「嘘つけ」


 目が泳いでる、と指摘され、思わず口をつぐんだ。嘘をついた時の私の癖を、透は鋭く見抜く。全く、普段はボーッとしているくせに妙な所で勘が良い。


「……いじめられてるんだよね、私」

「誰から?」

「職場の先輩」


 勇気を出して口元の栓を抜いたら、次から次へと勝手に言葉が零れ落ちた。


 50代のお局様。とにかく私の事が気に入らないようで、新入社員の頃から嫌がらせを受けている。

 少しでもヘマをすれば皆の前で怒られ、男性社員と話しているだけで「男好き」と噂を流され、敢えて定時前に膨大な量の仕事を押し付けてくる。お陰でまだ入社2年目なのに毎日残業三昧だ。

 この状況に慣れてしまって最近は感覚が麻痺していたけど、「マジで?」と「やばいな」を連発する透の反応に、やっぱりまともな環境じゃないんだと再確認させられた。


「若いから僻まれてるのかな。お前、顔だけはレベル高いしな」

「ちょっと。それどういう意味よ」

「上司には相談したの?」

「してない。上司、忙しすぎてあんまり席にもいないし。さすがに体調崩したら心配して会社休めって言ってくれたけど」

「早く相談した方がいいよ。他に相談できる人はいないの?」

「うーん。気にかけてくれる人もいるけど、皆お局に怯えてるから。止められる人はいないんだよ。相談してる事がお局の耳に入ったらますます厄介だし」


 不満げな表情を浮かべる透に少しイラッとした。相談しろって簡単に言うけど実際そんな簡単な事じゃないのに。

 24歳にもなって週4勤務のバイト生活をだらだらと続けている透なんかに、この気持ちが分かるはずない。


「ずっと休んでもいられないし。明日は出社するよ」

「よせ、まだ電車乗れないんだろ」

「各停なら乗れるもん」

「各停って、2時間以上かかるじゃないか」

「仕方ないでしょ、明日は大きな役員会議があるの。朝からお茶出ししないといけないの」


 透はやれやれと首を振ると、おもむろに椅子から立ち上がり、壁に貼ってある習字の半紙をじっと見つめた。


「エミのお母さんは、仕事をバリバリさせるためにエミを産んだんじゃないと思うけどな」


 透の人差し指が、半紙の左下に書かれた私の名前を上から下にそっとなぞる。

 ――――――倉田 笑子えみこ

 “笑顔溢れる子に育ちますように”という願いが込められた、両親からもらった大切な名前。


 透は私が書いた習字をじっと見つめた。


「エミはやっぱり字が綺麗だな」


 


 透はずるい。やっぱりちゃんと私の事を分かっている。

 書道の道に進みたかったけど挫折し、結局一般企業に就職してさして興味もない秘書課に配属された。

 役員のスケジュール管理、アポ取り、お茶出し、電話対応、来客対応、出張手配。気が休まる間もなく、張りつめた緊張感の中で、お局にいびられながら必死に業務をこなす日々。

 学生時代のように心から笑えていない私の事を、透はちゃんと見抜いている。


 「――――諦めなくても良かったのに」


 透は馬鹿だ。ぶっ飛んでいる。

 同世代の大半がきちんと就職しているのに、小説家になるために働く時間を減らしてまで日々読書と執筆活動に明け暮れている。

 でも、そういう生き方もアリなのかもしれない。

 夢を諦め、体を犠牲にしてまで好きでもない仕事に人生を捧げている私なんかよりも、世間体を気にせず夢に向かってひたすら努力している透の方が、ずっと輝いているのかもしれない。

 少なくとも、今の枯れ果てた私には、透の内面から滲み出ているような揺るぎない自信やキラキラしたオーラは微塵もない。




「体がSOS出してるんだよ。気づかないうちにどんどん溜まってるんだよ。ここら辺で1回立ち止まらないと本当に壊れちゃうぞ」


 壁から目を離すと、透は腕を組んで私の方に向き直り、先生のような口調で言った。


「とにかく、安心して電車に乗れるようになるまで休め。明日も行くな。明日の朝、ちゃんとここで寝てるか確認しに来るから」

「やだ、変態!」

「心配するな。女として見てないから」


 なんて失礼な!透に向かって枕を投げたけど、機敏な動きでひょいとかわされた。透はニヤッと笑うとドアへと足を向けた。


「もう帰るの?」

「うん。仕事に戻らないと」

「仕事って、あんたの場合どうせ物書きでしょ」

「公募の締め切りが近いから。とにかくゆっくり休めよ。また明日来るから」


「ありがとう」という私のお礼も最後まで聞かずに、透はドアの向こうへと消えて行った。


 話し相手がいなくなり、再びベッドに横になった。

 こんな真っ昼間に家にいる事がないせいか、自分の部屋なのにどうも落ち着かない。


 携帯電話を手に取り、会社のメールアカウントにアクセスして受信フォルダを確認してみたら、たった半日のうちに何十通もの未読メールが溜まっていて胃がズシンと落ち込んだ。やっぱり明日は行かなきゃ。メールの返信だけで午前中いっぱいかかりそうだ。

 

 受信フォルダにはお局からのメールも入っていた。


『先日作成された常務の予定表に誤記があります。至急修正ください』


 私のミスを周知するためか、ご丁寧にCCに秘書課全員を入れている。どこまで腐っているんだろうか。

 溜め息をついてアカウントを閉じようとした時、受信フォルダに未読メールがポンと1通追加された。上司からだ。本文を読んで目を丸くした。


『倉田さんは今週いっぱいお休みです。休み中にメールを送る事は私から固く禁じます』


 お局宛ての警告メールだった。こんな事は初めてでとても驚いたけど、嬉しさの方が何倍も大きかった。

 上司への感謝の気持ちと周りに迷惑をかけてしまう事への罪悪感がミックスジュースのように混ざり合って、胸がひどく苦しい。


 透の言う通りだった。壊れてから助けを求めても回復が長引くだけなんだ。もっと早く甘えて良かったんだ。

 忙しいから、迷惑をかけるから、と決め付けて、私には人を信じる事が足りていなかったのかもしれない。

 

 

 時間がたっぷりあるので、久しぶりに押し入れから習字道具を引っ張り出してみた。

 墨の香り、使い込まれたすずり、ひんやり冷たい文鎮、半紙の手触り。旧友との再会に静かに胸がときめく。


 思いがけなく訪れた連休。たまにはゆっくり自分を労ってあげようかな。好きな物に囲まれながら、人生を見つめ直すのもいいかもしれない。

 数年ぶりに持った筆は温かく私を迎え入れてくれ、ゆっくりと半紙の上を滑った。


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