思草(オモイグサ)

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思草(オモイグサ)

 からん、と涼やかなドアベルの音と共に入店して来た人は、バイトを始めてからの一年間では初めて見る顔だった。


「……あの、まだ大丈夫ですか?」


 おずおずといった仕草で、はにかんだような笑顔の女性はそう聞いて来た。


「あ、えっと、正直なところ、もう閉めようと思ってたんですけど……」


 日曜日の夜だ。マスターは先程「後はヨロシク!」と常連の女性と連れ立って帰ってしまっていた。


「もう、閉店時間でしたか?」


 ちらりと見た時計の時刻は午後11時をわずかに過ぎていた。


「あー、特に決まってはいないんですけど……ま、いいか、どうぞ、改めていらっしゃいませ」


 と、カウンターに招く。


 マスターが不在だと、いくつかの食事は作れないが、一人で店を回す事は初めてじゃない。


 女性は淡いピンク色のワンピースにカーディガン。歳の頃は二十代中盤か? オレより若干歳上に見える。

 左耳の上にある花の髪飾りが、やけに目立つ。


 スツールに座った女性の前に、温めたおしぼりを、店のロゴが刻印された木製のトレーに載せて置く。


「何にします?」

「おすすめって出来ますか?」


 女性はにこやかにそう返してきた。


「カクテルでいいんですよね? んー、そろそろ涼しいですからね、ロングよりもショートですかね」

「はい」

「で、ベースだけでも選んで貰えますか?」

「果実のリキュールがいいかな。そんなに強くないの、お酒」

「じゃあカシスは大丈夫ですか?」

「はい。好きです」

「ではカシス・オレンジ・マティーニにしますね」


 言いながらバックバーからカシスリキュールを下ろす。


「お客さんは、この店は初めてですか?」


 材料をシェイカーにセットしながら聞いてみる。


「……はい。初めてなんです」


 と、ニコニコしている。

 じっと、シェイカーを振るオレを見つめながら。

 何気ない違和感。

 この人はオレの知り合いか、オレの事を知っている人なんじゃないか? と感じた。


 カクテルグラスにロックアイスを入れシェイカーの中身を注ぎ、コースターと共に女性に提供する。


「どうぞ」

「ありがとうございます。手際がいいんですね?」


 彼女はそう言ってグラスを傾ける。


 もっと味わうのかと思っていたが、三口で飲み干してしまった。


「美味しいです。ごちそうさま」


 穏やかな笑顔を浮かべている。

 思えば入店した時から笑顔のままだ。まるでそれ以外の表情を忘れてしまっているんじゃないかと思った。


「あの……ひょっとしてオレの知り合いですか?」

「いつもそうやって一見さんを口説くんですか?」

「いやそんなんじゃなくて……何だかどこかで会った事がある気がして、すみません」

「初対面ですよ? 私たち」


 彼女はクスクスと可笑しそうに笑う。


「あー、次は何にします?」


 居心地の悪さを抱えながら次のオーダーを聞く。


「もういいです、お会計をお願いします」

「あ、はい」


 オレが代金を告げると彼女はバッグから財布を取り出し、紙幣を一枚抜いた。


「ごめんなさい、細かいのがないの」

「あ、いえ、お釣り出しますから大丈夫ですよ」


 そんなオレの言葉に反応せず、紙幣をカウンターテーブルに置き、スツールを降りる。


「ねえ、表の駐車場にある白い車、あなたの?」

「……はい、そうですけど……」

「古い車みたいだけど、どこで手に入れたの?」


 なんだ、この違和感。

 にこやかに聞かれているだけなのに、何でこんなに緊張しているんだ? オレは。


「……叔父の形見分けで貰ったんです。もう30年以上前の車だけど、すごい大事に乗っていたみたいで、調子もいいんですよ」


 早く開放されたい一心で正直に答える。


「ふうん。そうね、とても程度が良いみたい。これからも大事に乗ってあげてね」


 彼女はそれきり、まるで別人に切り替わったかの様にクルリと背中を向け静かに店を出て行った。

 知らないうちに速くなっていた鼓動が落ち着く頃、額に多くの汗をかいている事に気付いた。

 恐怖でも不安でもなく、得体の知れない気持ち悪さを抱えたまま、今度こそ閉店作業に移る。


 カウンターを片付ける際、彼女の残した紙幣は、まるで一度丸めてから広げたようなくしゃくしゃな皺がついていた。

 手に持つと、濃い茶色の汚れが付いているのに気付き、オレは平静を装いながらそれをゴミ箱に捨てた。


 施錠して店を出て、先日から愛車になったばかりの車に向かう。

 何かいたずらでもされたんじゃないかと、スマホのライトで照らしながらぐるりと一周する。特に異常はないみたいだ。

 開錠し乗り込むと、一瞬だけ強いカシスの香りがした。

 ハンドルを回し窓を全開にして、エンジンを掛ける。

 一速、二速で少し乱暴な加速をしながら、車の中に外気を取り込み換気をする。

 そのまま何かに追い立てられるように帰宅した。



「おーい、どうした? ぼーっとしてさ」


 翌、月曜日。大学の食堂前広場のベンチに座っていると、友人の沢田栄子に声を掛けられた。


「……よう、ちょっと、寝不足でな」

「カクテルパブのバイト? こないだあんなとこもうやめてやる! って言ってなかったっけ」

「ま、そうなんだけどさ。車に結構金が掛かるんだわ」

「そうなの? タダで手に入ったって言ってなかったっけ?」

「今頃あの車に乗るってことは、そりゃいろいろイジらないとな。古いパーツの交換だってまだ必要なところが結構あるんだよ」

「よく分からないケド大変なんだね。で、いつ乗せてくれんのさ」


 有名なマンガに出てくる車を手に入れたって言ってから、こいつは同乗を求め続けてる。オレとしては、誰かを乗せるにはもう少し乗りこなしてからと思っていたんだが……。


「……そうだな、他の誰かに乗ってもらってみてもいいのかもな……」


 語尾は独り言の様になってしまった。

 今朝も通学のために車に乗り込んだ際、わずかにカシスの香りがした。

 それと、座っているシートに、後部座席からなにか押し付けられるような感じがあったが、単純にオレがビビりのせいで、そんな風に思い込んでいるんだと思っている。


「じゃあどうする? 私ちょっとサークルに顔出さなきゃなんで、4時過ぎなら大丈夫だよ?」

「分かった。オレも今日はバイトも無いし、ついでにメシでも食うか?」

「おごり?」

「割り勘」

「ケチだなぁ。そんなんだから彼女も出来ないんじゃないの?」

「授業でやったろ? 無駄な投資はしない主義なの」

「恋人にリターンを求める時点で終わってるよね。車にはお金掛けてるのに?」

「お前は恋人じゃねーだろ? それに車はちゃんと対価をくれるからな」

「男のロマンは分からんわ。じゃ駐車場行けばいいの?」

「場所の説明がしづらいからここでいいや」

「分かった。また後でね」


 手を振りながら去ってゆく沢田の背中を見ながら、昨日の出来事や、今オレが感じている不安感を説明するべきか悩んだが、予備知識が無い方がいいだろうと思った。

 不安を煽って二人で恐慌状態にでもなったらたまらない。

 思い込みってやつは、時に見えないモノや、聞こえないモノを知覚したと勘違いするからな。


 午後の授業を済ませ、スマホで時間をつぶしていると4時10分前に沢田がやってくる。手には紙コップを持っていた。


「なんで紙コップ?」


 自動販売機はほとんどが缶かペットボトルのはずだ。


「ほら、マンガでやってたじゃない。コップの水をこぼさないように走るってさ」

「そのためにわざわざ……いや、あんなの無理だから。もうビッショビショになるから」


 オレはうんざりした顔を見せながら、沢田を伴い歩き出す。


「試した訳だ」

「……コーヒーこぼしちまった。いや、だって半分くらいしか入ってなかったからさ、このくらいならできるだろうって思ったらさ、ちょっとした段差で、バシャーっと」


 車内を大いに汚してしまい、拭き取るのに苦労したんだ。


「現実はなかなか厳しいね「事実は小説より奇なり」の奇なんて味わったこともないのにさ、夢がないよね」


 沢田は歩きながら飲み干してカップをゴミ箱に入れていた。


「……なくていいだろ、変なことなんてさ」


 車に近づくにつれて鼓動が速くなる。

 昨日の女性が乗っている。そんな奇想だけが頭を支配し始めていた。


「おー、これがかの有名な車かー、意外ときれいだね」


 車に辿り着いた沢田は、そんな意見と共に、車の周りをぐるりと一周した。

 オレは外から車内を確認し、当たり前だが誰もいないことにホッとして、開錠し乗り込んだ。沢田も助手席に「おじゃましまーす」と乗り込んだ。


「やっぱ、古い感じがするねー。ナビとかないんだね」

「……ああ、スマホスタンドがあれば十分だからな」


 オーディオはCDプレーヤーとラジオだが、CDの方は壊れている。


「で、何食べようか?」

「まだ4時だぞ? ドライブしたいんだろ? 少し走って、それから決めようぜ」

「そうだね。じゃあさ、キミん家の方行ってみようよ。山越え」

「スピードなんか出さないからな?」

「えードリフトとかやってみせてよ」


 オレはエンジンを掛け、ゆっくり発進させる。


「あのな、オレは安全運転派なの。大体、車なんてもんはアクセル踏めば誰だって速く走れるんだ。でも、止まったり、曲がったりってのがはるかに難しいんだよ。どいつもこいつも飛ばしてさ、レーサーかっての」


 この車に乗り始めてから、やけに煽られるようになった。

 車のイメージから速いと思われているのかも知れないが、別にそんなことはなく、ただ乗っていて楽しいって思えてオレはそれだけで満足なのに、周りがそれを許してくれない。


「実感こもってるねぇ、なんか嫌なことでも……」


 急に黙り込み、ルームミラーを見たり、後ろを振り返ったりする沢田に「……どした?」と声を掛ける。


「え? あ、何でもない何でもない、なんか視界に……」


 そう言いながらルームミラーを凝視する沢田の横顔をちらりと見ると、驚きと否定が入り混じった表情だった。

 そして俺の後ろの後部座席を見て、もう一度ルームミラーを見た後


「ごめん、停めて」と震える声で言った。


「どうしたん……」「いいから、どこでもいいから停めて!」


 オレの声に被せて大きな声を出す。

 そんな初めて見る沢田の姿に驚き、訳が分からない状況も含め慌てて最寄りのコンビニの駐車場へ入る。

 車が完全に止まらないうちに、シートベルトを外し、外に出ようとする沢田に


「おい! どうしたんだよ!」と声を掛ける。


「キミもいいから降りて!」


 沢田はそう言いながら降りると、できるだけ車から離れるように速足で歩く。

 オレも慌てて車を降り追いかける。


「どうしたんだよ?」


 コンビニの駐車場の端で歩みを止め、両肩を抱くようにして震えている沢田に声を掛ける。


「……いた」

「え?」

「誰かがいるの! 後部座席に!」


 オレに向いた顔は恐怖に染まっていた。


「いや、そんな、俺だって見たけど誰も、隠れるほどのスペースも無いし」

「直接見ても誰もいない……でも、ルームミラー越しに見えるの……女の人だった。いや! もういや! ごめん、私もう乗れない! 歩いて帰るから、ホントごめん!」


 オレを振り切るように沢田は駅方向に走って行ってしまった。


「まじかよ……」


 いつまでもそうしている訳にもいかず、少し落ち着いた後に車に戻る。

 少し離れた位置から車内を眺めるが、後部座席の足元にも荷物はおろか人なんて存在していない。

 運転席のドアを開け、シートを前に倒し直接後部座席を確認しても、座席を触ってみても、特に何も見つけられなかった。


 ルームミラー……。


 オレは運転席に座り、恐る恐るルームミラーを覗く。

 ミラーを手でゆっくりと動かしながら、見える範囲をじっくりと確認するが、何も見つけられない。

 さっきだって、沢田が見てたルームミラーをオレも見ていたけど、そこには何も映っていなかったんだ。


 現実的な話をすると、沢田がオレをからかったという結論しか出ない。


 ただ、昨日店に来た女性とのやりとりから、どれもこれも考えたくもない事実を暗示しているように思える。

 沢田の言っていることが嘘でないなら、オレはどうすりゃいいんだ。


 どんな対応をするにも、まずは自宅に帰ろう。

 車をどうするかは、親父と相談してから考えようと結論を出す。


 学校やバイト先のある街から、一つ山を越えた先にある自宅まで30分もかからない。

 その30分だけとにかく我慢して乗り切ろうと、車を発進させる。


 前方とルームミラーに交互に視線を移し、いくつかのカーブで構成された山道に差し掛かる。

 夕暮れも深まり「逢う魔が時」という言葉が頭に浮かぶ。


 それにしても、先ほどから対向車がいないのは何故だろう。


 いくつかのカーブを過ぎたころ、後方からヘッドライトを浴びた。

 かなり接近しているようで、カーブ時の減速でも、直線の加速でも、ヘッドライトの位置が変わらない。


「こんな時に! 煽り屋かよ!」


 恐怖や息苦しさみたいな感情が、現実の悪意に晒されて爆発する。

 後方の車から少しでも離れようとアクセルを踏み込む。

 いくつかのカーブを越し、追走車のヘッドライトの位置を確認するためにルームミラーを覗く。


 そこには花が見えた。

 どこかで見た花。

 どこで見たんだっけ?


 顔面にサーチライトの様な光を浴び、それが対向車のトラックだと気付くより先にハンドルを切る。

 間一髪交わした先には、この山道で一番のカーブが迫っていた。

 急ブレーキと共にハンドルを回し、タイヤがアスファルトに削られる猛烈な音と共に、車体が半回転し、止まる。


 後続車! と身構えてもそこには、オレの車が照らす、今まで走ってきた道だけが見える。


 そうだ。花が見えた時にヘッドライトは見えなかったんだ。

 迂回路も、脇道もない一本道。オレを追っていたのは一体なんだったのか、教えてくれる人は誰もいない。

 


 その後、オレの話を全部聞いた親父は、「分かった」とだけ言ってオレから鍵を受け取った。

 翌日トラックで運ばれていく元愛車を、見送る気にはなれなかった。

 

 何気なく、ネットで花の写真を眺めていると、あの時ルームミラーに映った、そして女性が着けていた髪飾りを想起する「思草(おもいぐさ)」という花を見つけた。

 別名を見てハッとする。

 ナンバンギセル。葉を持たず、自分で光合成が出来ない、寄生植物だという事だった。


 彼女はあの車に寄り添った存在だったのだろうか。

 彼女はひょっとしてオレを助けてくれたのだろうか。

 今になっては知る由もないが、オレがあれ以来後部座席のある車には乗れなくなったことだけは間違いない事実だ。


 沢田もしばらくは疎遠だったが、いつしか憑き物が落ちたように明るくなり、付き合うようになったが、この時の話だけは話題に上らなかった。


 結婚の報告で叔父の家に訪れた際、叔父の昔の写真を見る機会があった。

 その中に、あの車を囲んだ数人の男女の写真があり、その中にオレも栄子も見知った女性がいた。


「……叔母さん、この人って知ってる?」


 オレの問いに叔母は


「……変ねぇ、これはこの車を買った時に家族と撮った写真だけど、誰かしら?」


 オレも栄子もそれ以上何も言わず、アルバムをそっと閉じた。

 その後、叔父の死因は運転中の心臓発作で、幸い事故も起こさなかったと聞き、そりゃあ宿主を殺すクルマをこわす訳はないよなと苦笑する。


 どこかで走っているかもしれない、あの車と女性寄生者を思い浮かべながら。

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