20.「僕は、その言葉の意味を、正常に処理することができない」


 ――ハァッ、ハァッ、ハァッ、ハァッ……


 自分の意思とは裏腹に、肩の上下運動が止まらない。中腰の姿勢で、膝に手をついて、ただひたすらに酸素を取り込んでいる僕たち二人のコトを、道行く人々が邪魔そうに避ける。


 僕……、あ、葵クジラだけど。半ば強引に柳さんを連れて、ライブハウスを飛び出した僕たちは、のろのろと歩道を歩く人々を掻き分けて、とにかく夢中で走った。


 走って、走って――、でも普段運動をてんでしない僕はすぐに体力が尽きて、しなだれるように足を止めた。僕に釣られて、柳さんも身体にブレーキをかけて――


 薄汚れた都会の街は、有象無象に人が入り乱れていた。呼吸を整えることすら許されない雑踏、僕たちは逃げ込むように道路脇のガードレールへと移動した。

 ヨロリと、腰を預けて、ふぅっと、天を仰ぎ見て――


「――柳さん、ゴメンね」


 僕がそう言うと、荒い呼吸を繰り返していた柳さんが「えっ」と声をこぼした。


「……せっかくコトラのライブ観に来たのに、あんなことしちゃって……、柳さんだけなら、こっそり後ろから観れば騒ぎにならないと思うから、一人で戻りなよ、まだ、間に合うと思うし」


 息も絶え絶え、そう漏らしながら、同時に心の中でポツンとこぼす。



 ――あーあ、やっちゃった……。



 ――『葵クジラ』という人間の補足説明。


 僕は人のことを舐めている奴が『著しく嫌い』だ。

 SNSで誹謗中傷を垂れ流す人は幼稚園からやり直せばいいと思うし、順番待ちの列を横入りする奴の頭を後ろから殴りたくなる。……いや、もちろん、殴ったりしないけどさ。


 僕は、『他人の人生を邪魔しない』という能力に関しては、人一倍群を抜いている自信がある。『死ぬまで平穏に生きる』という目標を立てたからには、自分が他人の人生を邪魔をするのは筋が通ってないと思ったからだ。僕は道を歩く時は正面から来る人の歩行を邪魔しないように自分から避けるし、吐き出した二酸化炭素が少しでも浄化されるようにと自宅のベランダで植物を育てている。


 ――だからこそ、たまに耐えられなくなることがある。


 我が物顔で大通りを闊歩している奴、自分が世界の中心だと信じて疑わない奴――

 見ただけで、カッとなって、自分が抑えられなくなる時がある。



 ――目には目を。完全懲悪。正義は勝つ。



 魔法の俳句を唱えると、恐怖が僕の身体から消し飛んでいく。自制の鍵がガチャリと外れる。『悪人に人権はない』という考えが僕の脳内を支配して、周囲が驚くような行動を平気で取ってしまう。『死ぬまで平穏に生きること』という目標に目を瞑り、『もう一人の僕』が金属バットを肩に預ける。


 ……僕に、友達が居ない理由の一つ。ただ暗いってだけじゃないんだ。

 コレ、かなり引くと思うけど、中学の時にね、どうしようもなく我慢できなくなったことがあって、とあるクラスメートに向かって、机をぶん投げたことがあるんだ。

 きっかけは……、なんだったっけかな、忘れちゃったけど。


 ソイツ、普段から偉そうな態度をとっている奴でさ。クラスの中心って感じではあるんだけど、雷なんかと違って、人の気持ちを全然考えない奴で、いつも威張っていて……。


 ガーンって、凄い音がして、尻もちをついたソイツの青ざめた顔見た時は、かなり爽快だった。けど、その代償に、その日からクラスのみんなは、僕のことを腫物扱いするようになった。仲が良かった友達も、担任の先生も、僕と話す時の顔が妙にぎこちなくて――



 まぁ、高校になってからは『そういう事』は辞めようって、心のブレーキに固いロープをぐるぐる巻きつけた。一年生の時は一人で静かに過ごしていていたから、平気だったんだけどさ。……でも、人ってやっぱり、簡単に変われないもんだね……。まさか、『好きな子の前』で、やっちゃうとは、……ホント、要領が悪いや。


 ……柳さん、引いたよな――



「――あ、あの、葵くん……ッ!」


 ふいに、強張っている表情の柳さんが、声をあげる。

 異形を見る目つきで、犯罪者を蔑む顔で、僕を見る。

 どんな罵詈雑言が浴びせられるんだろうかと、せめて心に受ける傷を最小限にとどめようと、マイナスのシミュレーションを可能な限り想像している僕の耳に――


「……良かったら、今から、うちに来ませんか?」



 ――『イレギュラー発生』。

 僕は、その言葉の意味を、正常に処理することができない。

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