2.「君、モノ好きだね……」


 ――あれ、読むのやめないんだ? 君、モノ好きだね……


 まぁいいや、続けるよ――

 今日は7月1日の月曜日、ほぼ毎日最高気温を更新していて、空調の効かない教室での授業はぶっちゃけ地獄だ。今は朝のホームルーム前で、登校しているクラスメートもまだ半分くらい。……言わずもがな、友達のいない僕は朝の談笑に耽る相手なんていなくて、始業前や休み時間はだいたい読みかけの小説の消化に勤しんでいる。

 ――で、授業が終わったらまっすぐ帰宅、コレを365日、週五で続けている。たぶん、似たような生活が一生続くんだと思う。


 ――不満はない。僕の人生の目標はただ一つ、『死ぬまで平穏に生きる』こと。……活力に満ち満ちている高校生が、若いうちから何やる気のないこと言ってんだと、各界からお叱りを受けそうだけど、別に僕の人生なんだから、口出しはしないで欲しい。他人にあれこれ言われる道理はない。


 子供のころからそうだった。何か問題が発生したり、日常からちょっと逸脱したイベントが発生した時、僕はその中にあえて入ろうとはせず、ひたすらに一歩引いてそれを眺めていた。「大変そうだな」とか、「楽しそうだな」とか、ポツンと思って――、でも、それだけ。


 「えいやっ」って一歩踏み込んだとして――、その先が、『想像できない』。

 『恐怖』って結局、『わからない』から起こるんだと思う。自分が見たことがない世界、体験したことのない世界――、人によってはそれを『ワクワク』と感じるのだと思うけど、ぶっちゃけ僕にとっては、『面倒事』以外の何物でもない。新しい経験にエネルギーを消費するくらいなら、家に帰って布団にくるまっていた方が何倍も幸せだ。


 ……ガヤガヤと、周囲が騒がしくなってきた。「オハヨー」の声が狭い教室の中を錯綜し、だけど僕にとって、それらは環境音として耳を通り抜けていくだけ。僕の目に映るのは無機質なフォント文字で構築された架空の世界だけだ。ひたすら文字を目で追って、それらを頭の中にトレースさせて。


 そうやって、時間を浪費している。

 そうやって、人生をやり過ごしている。

 たぶん、この先もずっと――



「――葵くん、何を読んでいるのですか?」


 ――イレギュラー発生。『誰かに話しかけられた』。



 声がした方に顔を向ける。線の細いロングヘアが遠慮がちになびき、僕に声をかけた『彼女』がにこっと柔らかく笑った。


「……柳さん」

 ――驚いたように彼女の名前を呼んだのは『僕』で――、彼女は僕が読んでいる小説を覗き込んできた。顔が、近い。

「……あ、コレ、最近実写映画化されたやつですよね? 原作が凄く面白いって評判の――」

「――えっ、あ、うん……。 僕、この作者好きなんだ。映画化されるまではそこまで有名じゃなかったんだけど……」

「さすが詳しいんですね。……葵くん、いつもご本を読んでますもの。読み終わったら、私にも貸してくれますか?」


 柳さんがニコリと笑う。しとやかに、清楚に。

 線の細いロングヘアが再びなびいて、柳さんが「じゃあ、また」と、和人形のような足取りで歩き去る。


 ――相変わらず、綺麗だな。

 

 『柳アゲハ』――、容姿端麗、成績優秀、おまけに優しくて……、言ってしまえば『クラスのマドンナ』ってやつ。彼女はなぜか同級生に対しても敬語だった。ちなみに隠れ巨乳だ。

 誰にでも声をかける柳さんは、気まぐれに、唐突に、僕に話しかけてくる。このゲリライベントを僕はひそかに心待ちにしていた。

 ――恋心、と言うのもおこがましい。彼女とどうこうなりたいなんて、邪な感情は僕にはない。……まぁ正確にいえばなくはないんだけど、どうせ『ありえない』からハナっから諦めている、っていうのが正しいかな。彼女とは所詮、生きている次元が違うのだ。

 ……彼女の背中をボーッと眺めながら、愚にもつかない思考が僕の頭の中を巡る。


 『死ぬまで平穏に生きる』という最大級にスケールの小さな僕の野望は……、しかし実現させるのは意外と難しい。

 僕が生きているのはまごうことなく『社会』の中であり、『社会』ってやつは、人と人との繋がりが複雑怪奇に絡み合っているからだ。コミュニケーションの触手は、末端に位置する僕の元にさえ伸びてくる。望もうが望むまいが、お構いなし。


 無遠慮に、僕のことを学内ヒエラルキーの檻の中に閉じ込めようとする。

 無遠慮に、女神のような笑顔がツルピカな僕の心をくすぐったりする。

 無遠慮に、僕のことを椅子ごと後ろから蹴り飛ばそうとしたり――


 ――ガンッ!


 派手な衝突音が狭い教室に鳴り響き、僕の身体が机ごと前方につんのめる。顔面と腹をしたたか地面にうちつけ、何事かと思わず振り返った僕の眼前――


「――ねぇ……、今どこ見てたのよ?」

 赤みがかったツインテールがたゆんで跳ねて、

 『ソイツ』が僕のことをギロリと見下ろした。

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