言わ猿

熊雑草

言わ猿

「この人、痴漢です!」

 そう言って、私が掴んだ右手の人物は老人だった。

「ち、違う! 私は何もしていない!」

 老人はしきりに言い訳をしていた。

 時間がないんだとか、妻が危篤なんだとか、言い訳をしていたが、次の駅で駅員室に連れていかれた。


 その後、私は事情聴取などで学校に遅れたが、電話連絡を受けた先生は遅刻した理由を理解してくれて遅刻扱いにならなかった。

 また、この出来事を同級生に話したところ、最近、通学に利用している電車では痴漢が増えて困っているという話だった。

 これで安心して通学ができると、同級生は言っていた。


 朝からトラブルに巻き込まれて憂鬱だったが、痴漢の犠牲になる学生が救われたと思うと、私の苦労も報われた気がした。

 そして、一か月後、私の周りに異変が起き始めた。


 …


 最初に変だと気付いたのは、学校へ行くために家を出て直ぐ、どこからか視線を感じることだった。

 しかし、振り返ってもコンクリートの道路が続くだけで誰もいなかった。

「誰が見てるんだろう?」

 視線を向けられている感覚は、学校に着いて、三階にある自分の教室へ着いても続いていた。

「ねぇ、何か見られている感じがしない?」

 同級生に尋ねたところ、同級生も気味悪そうに頷いた。

「あなたも? 私もなの」

 視線に気づいているのは、私だけではなかった。

 尋ねた同級生以外にも、何人かが同じように視線を感じていた。

「一体、何が起きているの?」

 原因は分からない。

 しかし、確実に誰かに見られていると感じた。


 …


 視線を感じ始めて数日した、ある日。

 今日も家を出た瞬間に感じた視線に振り向くも、そこには誰もいない。

 しかし、ふと、何気なく上に反れた先にそれは居た。


 私を見ていた。


 背後だと感じていた視線が、実はその者の視線の視界の一部に引っかかり、私が背後に視線を感じていたと錯覚していたことにようやく気づいた。

 全身毛で覆われていて、見開いたような真ん丸の目。

 何より……その顔に見覚えがあった。

「あ……あ……」

 私は息を飲む。

 私を見ていたのは、あの日、私が捕まえた老人の顔をした人面猿だった。

 その人面猿は静かで、風景に溶け込み、一切鳴き声を発しなかった。

 ただ電柱の上から一心に私を見つめ、私の声を一心に聞いているようだった。

「どうして、こんな住宅街に猿が……。それよりも、あの顔――」

 その人面猿の顔が怒りや憎しみを称えていたなら、どれだけよかっただろうか。

 人面猿は生命が通っていないように無表情で、私を凝視しているだけなのだ。

 その不気味な顔と視線で吐き気が込み上げてきた私は、思わず口に手を当てていた。


 そして、もう一度、電柱を見上げて人面猿を見ると、私は逃げるように駅まで走った。


 …


 後ろを振り返りながら電柱を確認して駅までたどり着くと、もう、人面猿の姿はなかった。

 あれは何だったのか?

 何故、あの老人の顔をしていたのか?

 人面猿と老人が無関係には思えなかった。


 恐怖と混乱で足がおぼつかないまま、私は学校に時間を掛けてたどり着いた。

 学校に着いて安心したが、そこでハッと思い出す。

 ――私以外の同級生や他の生徒も気味の悪い視線を感じていたことを。


 三階に上がった廊下のところで、私は家を出た時と同じ視線を感じた。

 でも、ここは三階だ。

 電柱なんてない。

「……どうしたの? 顔が真っ青だよ?」

 そう、声を掛けたのは同級生だった。

「また……見られてる気がするの」

 私のか細い声に同級生が頷く。

「そうね、この前から……。でも、見られているだけで、今のところ、何も起きてないよ?」

 何も起きてない。

 それがおかしいのだ。

 見られているのに何も起きない。

 何も起きないから事件にもならない。

「ひっ……!」

 私は声をあげていた。

 廊下の窓の外に毛に覆われた影があった。

 あの真ん丸の目が、こちらを覗き込んでいた。

「きゃあぁぁぁ!」

 同級生も声をあげていた。

 人面猿が、私達を見ていた。

 何の感情もなく、微動だにせず。

「……何で、こんなところに猿がいるの?」

 同級生が震える声で言った。

 やがて、私達の悲鳴を聞いた生徒達が廊下に集まってきた。

「何だ? どうしたんだ?」

「ちょっと、外に猿がいる!」

 各々が騒ぎ出し、中には警察に電話するべきか、先生を呼びに行くべきかと揉めている者もいる。

 騒がしく飛び交う言葉の中で、私は違和感を覚えた。

「ちょっと……いい?」

 同級生に話し掛けると、彼女は頷いた。

「何で、皆……猿の顔のことを何も言わないの?」

「顔?」

 同級生は不思議そうな顔をしていた。

 そして、窓の外の人面猿を見て、こう言った。

「ただのニホンザルに見えるけど」

 その時、初めて分かった。

 猿に老人の顔が付いているように見えるのは、私だけだと。


 …


 それから私は学校を休んだ。

 部屋に籠り、カーテンを閉め切って、寝間着のままベッドの上で過ごした。

 三日休み続けると、私の休みを心配した同級生から電話が来た。

 私の体調を気遣う話の他に猿を追い払ってから視線を感じなくったとも言っていた。

 しかし、猿が追い払われて学校から姿を消したのではないことを私は知っている。


 何故なら、その人面猿は、今、私を見ているからだ。


 学校で人面猿が私を見ていると分かってから、私は窓に気を付けるようになった。

 そして、その日に自分の部屋から外のベランダに繋がる窓を見て、人面猿が二匹に増えて私を見ていることに気が付いた。

 それが学校に居た一匹に違いなかった。


 時間が経過して同級生に電話を貰ってから夕方になり、夜になると、私を見続けている人面猿は五匹になっていた。

「どうして? どうして、こんなことになるの……」

 ただ見られるだけの気持ち悪さ。

 私にしか見えない老人の顔の張り付いた猿。

 気が狂いそうだった。

「このままじゃ、外に出ることもできない……」

 私はスマホを手に取り、探偵を雇えないかと考える。

 あの老人は何者なのか?

 そこから原因を調べないと、この異常な現象は解決しないと思った。


 つけっぱなしのテレビではニュースが流れ、二人の男性が亡くなったことが申し訳ない程度の尺で伝えられていた。

 私はそれを聞き流しながら、スマホで調べた探偵の一人に電話を掛けた。


 …


 探偵への依頼は相手が学生ということで受けては貰えなかった。

 しかし、その探偵の人はある事を教えてくれた。

 私がニュースで痴漢事件になっていることを知らなかったのであるなら、私の親と加害者との間で示談交渉が行われているはずだ、ということだった。

 つまり、家のどこかにその時に取り交わした書類に加害者の名前があるということだ。


 それから三日掛けて両親の居ない時間に家中を探し、私は件の取り交わし書類を見つけた。

 その老人は隣りの県の山奥に住んで居ると書類には記載されていた。

 私は、明日になったら老人を訪ねることにした。


 そして、早めに寝ようと思った、その夜に同級生からまた電話があった。

「ニュースは見てる?」

「ニュース? 何か気になることでもあったの?」

「さっき、ニュースが流れたんだけど、うちの町で自殺があったんだって」

「自殺?」

「うん、二人。で、その二人が駅員と警官って聞いて……何か、この前に聞いた痴漢の話に出てきた人達だから気になって……」

「…………」

 私は暫く言葉を失っていた。

 短くお礼を言って電話を切ったあと、直ぐにテレビをつけた。

 いくつかチャンネルを変えると、それらしきニュースを報道しており、被害者の映像が映った時、また言葉を失った。

 自殺した二人は老人を拘束した駅員と老人を痴漢の現行犯で逮捕した警官で間違いなかった。

 ニュースキャスターの話ではどちらも酷く怯え、周りに老人の顔をした猿がいると叫んで半狂乱になっていたということだ。

 常に二、三匹の猿に付け回され、正気を保っていられなくなったらしい。

「猿が常に……」

 そっとベランダ側の窓へ目を移すと、カーテンには五匹の猿の影が映っていた。

「……最初、私を見ていたのは一匹だと思っていた。でも、学校でも視線を感じるようになった。それって――」

 駅員、警官、私……五匹の人面猿が三人を見ていたから、視線を感じるのにまとまりがなかった?

 じゃあ、今、五匹の人面猿が常に私に張り付いているのは駅員と警官が死んだから?


 私は両手で頭を抱えた。

「何で……何で……私を見るの……」

 いずれ私も耐えられなくなる。

 そうなれば、駅員や警官のように自殺するしかないのか。

「……そんなのは、嫌……」

 死にたくないと思った私は、明日、必ず老人のところへ向かうことを決意した。


 …


 翌日……。

 始発の時間を調べ、朝早く家を飛び出した私は人面猿に追い付かれないように駅まで走りだす。

 そして、駅に入ってきた電車にそのまま飛び乗った。

 この時、人面猿は電車に乗らなかったから、隣りの県まで直ぐには追って来れないはずだ。

「ハア……ハア……。これで老人の正体を調べ終わるまでは時間を稼げるはず」

 早朝、ほぼ乗客のいない電車に揺られて目的地を目指す。

 乗り換える度に風景が田舎くさくなっていき、目的地に着いたのは二時間半後だった。

「ここに、あの老人が……」

 書類にあった住所の通りに歩いて、老人の家を訪ねる。

 しかし、辿り着いた家は空き家になっていた。

 まだ生活感の残る家は手入れされ、庭には園芸をしていたのであろう、花壇があった。


 その家を見て、私は思った。

 本当に、こんな家の人が痴漢なんてするのだろうか?

 まして、私の通っていた町の電車に乗るには二時間半も掛かるのに……。

 冤罪だったのではないか? そう考えて私の心に罪悪感が募った。


 近くを通り掛かった近所の主婦らしき人に、私は声を掛ける。

「あの……ここに住んでいる男の人がいると思うのですが、どこかへお出かけなのでしょうか?」

 そう尋ねると、主婦は顔を曇らせて答えた。

「亡くなったわよ」

「……え?」

 私の胸がドキンと跳ねた。

 亡くなった?

「奥さんが危篤だって言って、隣りの県の病院に行ったらしいんだけど、そこで痴漢の冤罪を掛けられたらしいの。駅員に冤罪だと言っても信用して貰えなくて、警官は犯人だって認めればその日は直ぐに釈放するって言ったそうよ。でも、そこのお爺さんが釈放されたのは次の日で、奥さんの最期には間に合わなかったんですって」

「そんな……」

 私は取り返しのつかないことをしでかしてしまったのだと気づいた。

 しかし、話はそこで終わらない。

「そこのお爺さんね、神主をしていたの。それで、自分を冤罪に追い込んだ人を呪って死んだって噂よ」

「……呪い?」

 私の顔は顔面蒼白になっていただろう。

 呪われる原因も分かるし、呪いと思われる出来事にも心当たりがある。

 老人は呪ったのだ。

 駅員を、警官を、私を……。

 震える体を抑え、絞り出すように声を出して尋ねる。

「そ、その方……なのですが……神主をされていた……とのことですが――」

 人を死に追いやってしまったショックと呪いを掛けられたショックで、私は最後まで尋ねられなかった。

 それでも、私が何を尋ねたかったかを悟ったらしい主婦は答えてくれた。

「お爺さんは猿神信仰をしていたみたいよ」

「猿……神?」

「家の裏山に猿神を祀る石像があって、お爺さんはそれを管理していたわ」

 人面猿と老人の信仰に繋がりがあった。

 そこに何かあるのかもしれない。

「……ありがとうございます」

 私はお礼を言うと、直ぐに裏山へと向かった。


 …


 その山は斜面の緩い小さな山だった。

 毎日老人が歩いてできたと思われる草のない剥き出しの土の道が、猿神を祀る石像へと私を導く。

 二十分もしないで辿り着いたそこには三体の石像が鎮座していた。

 見猿、聞か猿、言わ猿 の猿だ。

 その言わ猿の石像の前に呪いの原因があった。

 それを見た瞬間、私は胃の内容物を吐き出してしまった。

「どうして人面猿が五匹なのか……分かった」

 理由は簡単だった。

 言わ猿の石像に備えられていたのは、老人の右手の指だった。

 五本の指に対して、五匹の人面猿が恨みを晴らすために私達の前に現れたのだ。


 また、人面猿が鳴かずに凝視し続けたのは、言わ猿の石像に供物が捧げられていたからだろう。

 この言わ猿が老人の願いを聞き届けたのだ。

「でも、これで……」

 私はハンカチを取り出すと、供物にされている指を包み、それを老人の墓に返すことにした。

 山を下山し、山を登る前に会った主婦に老人の眠る墓地を教えて貰い、私は老人の墓の前で手をついて謝った。

 そして、ハンカチに包んだ老人の右手の指を老人の墓に埋めた。


 …


 私が自分の町に戻った頃、日は完全に暮れ、帰宅ラッシュで駅は酷く込み入っていた。

 自分の町に着いて気づいたのは、あれほど存在感を放っていた視線を感じなくなっていることだった。

「猿達がいなくなった……?」

 ホッとした半面、老人に対する罪悪感が胸に突き刺さった。

「ごめんなさい……」

 そう口から言葉を発すると同時に目から涙が零れた。

 駅から自宅に力なく歩きながら、痴漢の冤罪被害者にしてしまった老人にこれからどのように贖罪しないといけないかを考えた。

 考えながら歩いたせいか、家に着く頃には周りに誰もいなくなっていることに気づかなかった。


 その時だった。

 ブヅン! と鈍い音がしたのと同時に右手に激痛が走ったのは。


 私はくちゃくちゃとする音に気づき、振り返る。

「っ!」

 声を出そうとしても、声は出なかった。

 振り返った先に居たのは、人と同じぐらいの大きさの人面猿だった。

 私と目が合うと、人面猿の老人の顔が段々とただの猿の顔に戻っていく。

「お……お、お、お前……供え物……盗んだ……だ、だから、代わりにこれ……をもらった……」

 その猿が、そう言って口を開けた舌の上に乗っていたのは、私の右手の指だった。

「あ……あ……ああ……」

 右手をあげたそこに、私の指は一本もなかった。

 乱暴に食い千切られた歯形が流れる血と一緒に残っているだけだった。

「――――っっっ!」

「こ、これで……契約は……終…了だ」

 私が叫ぶのと同時に、猿は霧のように姿を消した。

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言わ猿 熊雑草 @bear_weeds

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