いのち

出井啓

いのち

 昔々あるところに安楽山という小さな山がありました。

 そこにはお爺さんとお婆さんが仲良く二人で住んでいました。山の中腹にある古い古い小さな家でしたが、二人で暮らすには十分です。ところどころ雨漏りがしたり塀がくずれたりしていましたが、お爺さんが生まれる前から建っているしっかりした家です。

 お爺さんは家から少し離れた所にある畑で野菜を育てたり柴をかったりしています。お婆さんは家事をしたり、提灯を作って生活していました。それはそれは慎ましくも幸せな暮らしです。

 育てているきゅうりの調子を見に行こうかとお爺さんが縁側から立ち上がったとき、数年ぶりに孫が「こんにちは」と訪ねてきました。麓の村の隣村のそのまた隣村で生活している息子家族とは、ここ数年都合がつかず正月も盆も会えないでいました。

「こりゃあたまげた。立派になったなぁ!」

 以前孫にあったときは「もう抜かされてしまいよるな」と言っていたものでしたが、今となってはお爺さんよりはるかに大きく、身長六尺体重二十五貫はあろう程の巨漢でした。

「先日元服して、やってまいりました。宜しくお願いします」

「まぁまぁかしこまってんとあがれや。おーい、ばあさんやーい。清之介が来たぞー」

 お爺さんは小躍りしそうなほど喜んでお婆さんを呼びました。

 清之介がお爺さんとお婆さんを訪ねてきたのは、安楽山周辺の村のしきたりです。元服を迎えると親元を離れて三年間の奉公をしなければならないというものでした。

 最近はそんな風習も廃れてきているので諦めていましたが、息子から三年の奉公を一年にしてほしいと手紙が届いていました。許嫁が来年十二歳となり結婚することになっているからだということです。お爺さんとお婆さんは一年でも構わないと返事をして、今か今かと首を長くして孫を待っていたのでした。

 居間にきちんと正座した清之介は「私事で一年に短縮してしまい申し訳ございません。短い期間ですがご指導ご鞭撻のほど、宜しくお願い致します」と言って頭を下げました。

 お婆さんはその挨拶だけで感激して、「本当に立派になったねぇ」と何度も繰り返し、お爺さんはその度に「そうだなぁ」と頷きました。


 お爺さんとお婆さんの家で暮らし始めた清之介は、はきはきとそれはもうとても良く働きました。お爺さんの畑はみるみるうちに開拓されて三倍程の広さになり、お婆さんの提灯作りも三倍の早さで終わるようになりました。

 その分体の大きな清之介はお爺さんとお婆さんの三倍のご飯を食べました。けれど、清之介は山へ山菜や薪を取りに行っていたり、提灯や薪などを持って村へ下りてたくさん食べ物を持って帰って来てくれるので、今までよりずっと裕福な暮らしになりました。

 清之介は山菜が採れない時期になると家を直し始めました。

 ある日お爺さんが畑から帰って来たとき塀が直っていました。ある日お婆さんが雨に気づいて慌てて洗濯物を取り込んだとき雨漏りしないことに気付きました。お爺さんとお婆さんが寝るとき、隙間風が入らない事に気がつきました。

 なんと働き者で真面目な青年でしょうか!

 お爺さんとお婆さんは感激して「ありがとう」と何度もお礼を言いました。清之介は「喜んで頂けて嬉しいです」と微笑みました。

 なんと謙虚で心優しい青年でしょうか!

 お爺さんとお婆さんは清之介との生活が幸せでなりませんでした。

 そうして冬を越え、春を迎えました。冬眠していた動物が目覚め新しい芽が息吹く命溢れるときです。

 清之介がたくさんの土筆を籠に入れて帰ったとき、お婆さんが居間で倒れていました。

「お婆さん! 大丈夫ですか!」

 清之介はお婆さんを抱えて何度も必死に呼びかけましたが返事がありません。転がった籠から溢れた土筆のようにぐったりとしていました。

「ばあさん! どうしたんじゃ!」

 畑仕事から帰って来たお爺さんが叫びました。それを聞いた清之介はそっとお婆さんを横たえると「お医者様を呼んできます」と言って家を飛び出しました。

 清之介は風になったかのような速度でぐんぐん走ります。木々の合間を縫うように山を駆け下り、田畑の横の畦道を駆け抜けました。木の上でリスが何事かと目を見張り、雀は驚いて飛び去りました。そして、麓の村にあるお医者様の家をどんどんどんと叩きます。

「柄棚山の清之介です! お婆さんが倒れて意識がありません! どうか家まで来て下さい!」

 どんどんどん! どんどんどん!

 扉が壊れそうなくらい叩いていると若いお医者様が出て来ました。

「少し落ち着きなさい」

 お医者様は道具箱を持ち、準備万端で出てきました。清之介はその姿に感激して深々と頭を下げてお礼を言い、お医者様を連れて走り出しました。

 清之介は少し加減して走りましたが、お医者様はついて行くのに精一杯です。若いお医者様でしたが清之介に比べると年をとっていましたし体格も大人と子供のようです。

 山の直前でもうお医者様は疲れ果ててしまいました。すると清之介はしゃがんで言いました。

「お医者様。私に乗って下さい」

 お医者様を乗せた清之介は坂を厭わずぐんぐん山道を走ります。昔大きな町で乗った人力車のような感覚にお医者様は驚きました。

 いくら清之介でも、大人をおんぶして山道を走るのは容易ではありません。心臓は早鐘のようにドクドクと、はち切れんばかりに拍動し、肺は限界を訴えて痛くなっていました。けれども、清之介はお婆さんのために走り続けました。きしむ足を前へ、前へ。木々の間をすり抜けて、小さな湧き水飛び越えて、苔むす岩を踏みしめて。重い足を前へ前へ。

 とうとう家が見えました。がくりと膝を折った清之介は息も絶え絶えに「先に」と言いました。お医者様は一つ頷いて家へ走りました。

 それを見送った清之介はごろりと寝転び空を見上げました。晴れた空は薄い雲に覆われようとしていました。疲れた四肢が地球に抑えつけられているかのように動きません。ぼんやりと雲を観察していました。

 しばらくするとざっざっと歩く音が聞こえ、清之介は目を覚ました。極度の疲労から眠っていたようです。

 歩いて来たのはお医者様でした。お医者様は静かにぺこりと会釈し沈痛な面もちで通り過ぎました。

 それを見た清之介はまさか! と思い、飛び起きて走りました。

「お婆さん!」

 お婆さんは布団に横たわり、清之介に笑顔を向けました。

 その少し歪に泰然と笑うお婆さんへ、清之介は震える声で問いかけました。

「大丈夫、だったのですよね?」

 お婆さんは目を優しく細めるだけで答えません。代わりにお爺さんが口を開きました。

「ばあさんはな、体の半分がな、動かんようになってしもうた」

 そう言うお爺さんの方がお婆さんよりよっぽど辛そうでした。清之介は呆然とそれを聞いていました。お爺さんは話し続けます。

「頭のなんとかいう所がな、駄目になったからじゃて。それでな、年も取っとるしな、回復は難しいんじゃと。けどな、ちゃんと運動しとれば、ましにはなるかもしれん」

 お爺さんは目を閉じて、何かを堪えるように口元を震わせていました。

 それからというもの、清之介は仕事をしながら時間を作り、甲斐甲斐しくお婆さんのお世話をしました。

 畑の雑草を抜いては家に帰り、水まきをしては家に帰り、薪を拾っては家に帰り、山菜を採っては家に帰り、ことあるごとにお婆さんの様子を見に行きました。

 お婆さんの腰が痛ければ按摩をして、お風呂や雪隠にも連れて行き、手足の運動の手伝いもしました。

 その甲斐あってめきめきとお婆さんは回復し、杖を使えば一人で歩けるようになりました。元通りとはいきませんが、一度は治らないだろうと諦めていただけに、お爺さんも清之介もたくさん喜びました。

 また内職の提灯作りも始めました。清之介の十分の一程の速さですが、清之介はまたお婆さんと一緒に作れることが嬉しくてなりません。料理や掃除もお婆さんと一緒にしました。

 また楽しい日々が続くような気がしていましたが、そんな日々も突然終わりを告げます。ある日お婆さんは足が痛いと言い始めました。一日様子を見ましたが一向に治る気配がありません。再び呼んだお医者様は三日間も診察しましたが、結局匙を投げてしまいました。

 清之介はまた介護を始めました。すると、お婆さんがだんだん弱っていくことが手に取るようにわかり、枯れ木の様な手足や生まれたての子山羊の様な立ち方に、迫る死が直に感じられて、どうしようもなく近付く闇が、ただただ恐ろしく思いました。

 そして、時が経つ毎に手も痛い腰も痛いと、たくさんの痛いで埋め尽くされていきます。

 清之介は甲斐甲斐しくお世話をしていましたが、奉公が一年経とうとしていました。でも清之介がお世話をしないとお爺さん一人ではできません。村に連れて帰ろうかとも考えていました。

 夏の暑さが日に日に増してきたある日、お婆さんが嗄れた声で言いました。

「じいさんや、魔法の湖へ連れて行ってくれんか」

 おじいさんはぴたりと動きを止め、お婆さんをまん丸な目で見つめます。お婆さんは微笑みました。やがてお爺さんは諦めたように頷き、清之介に言いました。

「ばあさんのために台車をつくろう」

 清之介は魔法の湖が何かわかりませんでしたが、お婆さんのために台車を改造して人が寝転べる細長い箱のような台車を作りました。

 ゴトゴトゴトゴト。

 お爺さんが先導し、清之介はなるべく平坦な道を選びながら台車を牽きました。お爺さんの右足は少し歪んでいるのですが、それを感じさせないほどすいすい進んでいきます。安楽山の反対側へぐるりと回るように。

 この先にある裏山は神様のいる山なので入ってはいけません。けれど、お爺さんは挨拶をしてお供え物をし、登り始めました。清之介も挨拶をしてそれに続きます。山に入るとお婆さんが話し始めました。

「あれはお爺さんと一緒に暮らし始めた頃だったかねぇ。お爺さんが暗くなっても帰って来ない日があってね。何かあったんか、もしや家を出て行ったんかと心配してたんよ」

 ガタゴトガタゴト。

 先導していたお爺さんがカチッカチッと火打石を叩いて松明を灯しました。曇り空のせいで暗くなるのも早く、もうしばらくすると月明かりもない真っ暗闇になってしまうでしょう。それも気にせずお婆さんは話を続けました。

「随分と遅く、月が高い所まで登っていたときだったかね、家の前で待っとったらお爺さんが走って帰って来てな」

 もったいぶるように間を開けて言った。

「お爺さんにただいまって抱きしめられたんよ」

 また進み始めようとしたおじいさんが振り向いて、驚いたような渋いような複雑な表情を作りました。何か言いたそうでしたが、何も言わずに前を向きました。清之介は少し気恥ずかしい気持ちです。

「どうして遅くなったのかを聞くとね、お爺さんは山の途中で足を滑らせて怪我してしまったらしいの。足を引きずりながら、よいしょよいしょと歩いていると、不思議な湖を見つけてね。これは丁度いい、足を冷やそう、って水に足を付けたの。そうすると驚いたことに、みるみるうちに痛みが消えてすっかり治ってしまったのよ」

 ガタゴロガタゴロ。

 もう辺りは松明の明かりしか光がありませんでした。案の定月も星も見えないので、清之介にはもうどこを歩いているのかわかりません。ですが、それでもお爺さんは何かに導かれるように、惑うことなく山道を進みました。

「だから、魔法の湖って名前をつけたのよ。みだりに神様の山に入るのは良くないことなのよね。でも最近体のあちこちが痛くてねぇ。一人で歩けないものだから連れて行ってもらって申し訳ないねぇ」

「お安いご用です。しっかり治しましょう。一度で治らなくてもまた連れて行けるよう道を覚えますから」

「優しいねぇ。ありがとう」

「清之介。ここじゃ」

 お爺さんが立ち止まって言いました。とうとう魔法の湖に着いたのです。松明で照らされた先を見るとたぷたぷとたゆたう水面が見えました。松明の明かりでも澄んでいるのがわかる透明な湖で、今は暗くて良く見えませんが、昼間に来たらさぞかし綺麗だったでしょう。でも、輝いている訳でもなく、変わった色をしている訳でもない、不思議な所が見当たらない湖でした。清之介は拍子抜けして言いました。

「これが魔法の湖ですか?」

 お爺さんはゆっくりと頷きました。お婆さんも清之介に支えられて起きて湖を見ました。

「あぁとうとう着いたのね」

 お爺さんはゆっくりと頷きました。清之介はお婆さんを抱えて台車から湖のそばに下ろしました。

 山の斜面で不安定なので、台車は地面に少し穴を掘って車輪を嵌め、石を噛ませて固定しました。

 お婆さんはそっと湖へ手を入れました。すると、優しげな微笑みが無邪気な笑顔に華やぎました。とぷんっと足もつけ、全身を沈めていきます。

「こんなに心地いいのはいつ以来でしょう。痛みが全くないなんて。お爺さん、清之介、本当にありがとう」

「ばあさん、わしも本当に感謝しとる。ありがとう」

 清之介はお爺さんの今生の別れのような挨拶に戸惑い、胸がざわめきました。

 お爺さんが立ち上がろうとしたとき、よろけて隣にあった台車を掴みました。すると、ガタンと車輪が止め石からズレて転がりました。お爺さんもゴロンと転がり、手を放してしまいました。

 ゴロゴロゴロゴロ。

 台車がなければお婆さんを連れて帰るのが大変です。清之介は慌てて台車を追って捕まえ、木に掴まり台車を止めました。清之介は斜面を登り、台車を引き上げ元の場所に戻しました。

「悪かったな、清之介」

「いえ、それよりおばあさんはどこに行ったんですか?」

 お爺さんの松明の先にお婆さんはいませんでした。お爺さんは答えませんでした。

「おばあさんはどこに?」

 そのとき、さぁっと雲の影が流れ、冴え冴えとした月明かりが降り注ぎました。真白な湖底に横たわるお婆さんが浮かび上がります。お婆さんの周りには大腿骨、肋骨、髑髏。骨で埋め尽くされた湖底は月明かりを鮮やかに反射しています。清之介は「おばあさん!」と叫び湖に飛び込もうとしました。

「清之介!」

 お爺さんは山中に轟くような鋭い声を上げ、清之介の腕を掴みます。清之介はびくりと止まりお爺さんを見ました。お爺さんは、はらはらと涙をこぼしていました。

「お前はこの湖に入っちゃいかん。ばあさんはもう眠りについたんじゃ。帰ろう、清之介」

 清之介は聡い子です。薄々と感じ取っていることがありました。それでも清之介は動けませんでした。

 十六夜の月が魚も植物もいない湖中を照らしています。骨とお婆さんだけが湖底に沈み、生き物のいない湖の美しさを際立たせていました。

 お婆さんの安らかな顔をしばらく眺めると、清之介は台車を牽いてお爺さんについていきました。

「ばあさんの話は途中から違うんじゃ」

 お爺さんが山を下りながら話し始めました。

「足をつけて痛みが消えた後にな、さっきのように月が出て骨を映し出したんじゃ。わしは驚いて怖くなって叫びながら逃げたんじゃ。骨にひびが入ったまま走ったからじゃろう。逃げて逃げて、もうすぐ家に着くという所で足が折れてな。骨が肉を突き破って出てきてるのに全く痛くないんじゃ。それが恐ろしくて恐ろしくて。声を聴きつけたばあさんが来るまで動けんかった」

 お爺さんと清之介と空の台車は山を下り、神様の山に長い長い一礼をしました。

「体が半分動かんようになったときにな、ばあさんが言ってたんじゃ。このまま動かんようになったら、あの魔法の湖に連れて行ってくれって。そうしないと清之介が帰れんじゃろうって。その後どんどん良くなって忘れとった。もう一回連れてってくれって言ったとき、本当は連れて行きとうなかった。けどな、痛々しい姿を見るとな。早く楽にしてやりとうなった」

 清之介は複雑な気持ちになりました。お爺さんの気持ちもわかりましたが、お婆さんにはできるだけ生きて天寿をまっとうして欲しかったのです。でも、お婆さんの最後の安らかな表情を見るとこれでよかったようにも思います。

「清之介、わしが動けんようになったりしたときも、魔法の湖へ連れて行ってくれんか」

 清之介はもごもごと口をまごつかせて、結局答えられませんでした。

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いのち 出井啓 @riverbookG

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