第21話 色香②

 浩一が来店して小一時間が過ぎるが、店に他の客の姿はない。

 それでも、隣の店から聞こえる笑い声が程よい合唱となっており、寂しさなど微塵も感じさせぬ。


「いやぁ、中々に威勢がいいなぁ」

「ええ。それでも、喋る時にはマスク着用を求めたり、ビニールカーテンを着けたりしてできることはされているんですよ」

「そうか。まあ、こんなご時世だから仕方はないが、よくそれで客も入ろうと思うもんだ」

「お兄さんも」

「む?」

細目こまめにされていることですよね」

「ふふっ、こいつは一本取られたな」


 笑いながら浩一は二杯目も半ばとなったグラスに口をつけ、再びマスクを戻す。

 慣れた所作に微笑むかおりを見て、浩一もまた再び豪快に笑った。


 その時である。

 中肉中背というにはやや体格のよい男性が、店に入ろうとしていた。

 それを認めたマスターが急いで近付く。


「お客様、マスクはお持ちでいらっしゃいますか」

「そがんと持っとらんよ」

「ではお店のマスクを差し上げますので、そちらを着けていただいてからご入店いただけますでしょうか」

「いらん、そがんと」


 困り顔のマスターを前に、男は自説を並べて押し問答が始まる。

 苦笑した浩一は、しかし、隣に着くかおりの表情が僅かに歪んだのを見逃しはしなかった。


「ああいう手合いが多いのか、最近は」

「ええ。お兄さんのように聞いて下さる方もいらっしゃるんですけど、なかなか受け入れて下さらない方もいらっしゃるんです」

「なるほどなぁ、こりゃあ大変だ」


 頭を何度も下げるマスターに、男の物言いはだんだんときついものとなっていく。

 やがて、それが怒声に近いものへと変わったところで、男はマスターを軽くつき飛ばした。


「まあまあ、そんなにかっかするもんじゃあ、ないさ」


 それを見た浩一がゆっくりと立ち上がり、二人の間に割って入る。


「なんだよ、お前には関係ねーだろ」

「そう怒鳴られてたら酒が不味くなる、なぁ」


 あくまでも笑みを絶やさぬ浩一に対し、男は舌打ちでそれを返す。

 二言、三言やり取りしたところでさらに激昂した男は、浩一の顔を目掛けて拳を突き入れようとした。

 それを、浩一は真正面から右手で受け止めると、その手に強く力を込めた。


「まあ、悪いことは言わんさ。郷に入れば郷に従えという言葉ぐらい、知っているだろう」


 男に苦悶の表情が浮かび、喉からは窮した声が響く。

 笑ってその手を放してやった浩一は、


「合わせるなら、俺が一杯おごってやるが、飲んでいくか」


と笑いながら言ってやったものの、男は逃げるようにしてエレベーターに乗り込み、その場を後にした。


「悪かったなぁ、マスター。客を一人逃しちまった上に、少し騒いじまった」

「いえ、こちらこそ申し訳ございませんでした。楽しく飲まれているところで気分を害してしまいまして」

「いやいや、店は悪くねぇさ。それよりも、面倒事起こした俺が長居するわけにもいかんだろうよ」

「いえいえ、よろしければゆっくりとされていってください。お詫びに僅かではございますが、サービスをさせていただきますので」

「そうか、それならもう少し居させてもらおうかな」


 浩一はそう言うと、再び手を消毒してから席に着く。

 マスターは鳴った電話を取ってから店の奥へと引いた。


「お兄さん、お強いんですね」

「ん? 向こうが勝手に出してきた手をたまたま掴んだら悶えただけさ、骨でも脆かったんだろう」


 そう言って飲み干した浩一のグラスを手に取り、かおりは再び水割りを作り始める。

 その所作は寸分の狂いもなく、流れるようにグラスのかいた汗をも拭い取っていた。


(なるほど、よく慣れている……)


 浩一は女の姿からそれを感じていたものの、先の騒ぎの際に俄かに沸き立った彼女の殺気を見逃すことはなかった。

 マスターに手を出したところで何らかの技令の気を練ろうとしていたのだが、それを明らかに隠そうとした。

 それを彼女は今、必死で隠そうとし、何気ないふりをしながら浩一に対そうとしている。

 伸介などであれば見逃すだろうなと苦笑しつつ、グラスを受け取った浩一は僅かに口をつけてそれを置いた。


「それにしても、ああいう輩が多いのか」

「いえ、うちに普段から来てくださるお客様はそうではないんですけど、酔って来店される一見さんで時々いらっしゃいますね。どうしても息苦しくなりがちですから、気持ちが分かるところもあるんですけど」


 寂しそうに入り口を見据えるかおりに、浩一は頷く。


「だがなぁ、あれはいけねぇな。気に入らんのなら入らなかったらいい。文句も言わずに頭を下げて出て行くのが互いのためなんだが。まあ、あれだけ酔ってりゃあ、そんなことは分からんか」

「お兄さんも、酔われるとそうなるんですか」

「それで息子に拳骨を落としたことはあるな。でも、他所じゃやらねぇさ。格好つけてぇからな」


 浩一が豪快に笑うと、かおりも合わせるように口元を押えながら笑う。

 奥から戻ってきたマスターも、僅かに目を丸くしていたが、やがて店中に三つの笑いが木霊した。

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