第二章 蝶の闇

第15話 夜長

 十月の末、間もなく日も変わろうという頃合いに、浩一は銀座通りから銀座橋へと抜けようとしていた。

 この日、先の「祈祷の由人」事件にて唯一責めにかけた丈二のいる店を訪ねた浩一は、久方振りに痛飲し、上気した頬を秋の夜風に任せながら歩き帰ることとしていた。

 途中、下通アーケードも通ったのであるが、そこに漂う空気は以前とは変わってしまっており、思わず舌打ちをしてしまったほどである。


「夜の街の面構えが、すっかり変わってしまった」


 そう嘆いた食堂の店主の言葉が反芻され、居た堪れなくなった浩一はその思いを持ち帰らぬよう大きく息を吐いてゆったりと進んでいた。


 銀座通りは下通りアーケードを腹から真二つに断ち切るように走り、多くの飲み屋が軒を連ねる。

 その夜の賑わいは九州でも随一のもので、コロナ禍の前には電飾と客を待つタクシーの行燈の連なりにより、ちょいと夢現の気分を味わえる大通りであった。

 また、初冬のこの通りの艶やかさは眩しいばかりであり、深酒の吹き飛ぶほどの衝撃を齎す。


 夜ともなるとやや冷え込むようになり、浩一もチェックのワイシャツにジャケットを脇に抱えている。

 往来の姿も長引いた残暑から秋の出立ちに変わり、中には冬を思わせる者もある。

 駕町通りを過ぎると、往来もまばらとなり随分と歩きやすくなる。

 連なる暖色の街灯に照らされつつ歩いていると、ふと目を遣ったビルの谷間に横たわる人影が一つ。


「おい、どうした」


 声をかけてみるものの、反応はない。

 見れば男のようで、紺の上着にジーンズというともすればみすぼらしい装いで、左腕を枕としている。


「おう、このご時世に文字通りの夢見心地ってところか。いいご身分じゃねぇか」


 音も立てずに動く上半身を見ればいかにも心地よさげであり、

「マスクの下じゃあ、涎でも垂らしてんだろうな」

と浩一がうち笑うほどにはお気楽そのままの有様である。

 以前は駐車場の近くなどでよく見られたものであるが、それもまた遠い景色となってしまった。

 浩一は近くで茶を一本買い求めると、それを男の目の前に置き、無造作に置いてあった眼鏡を戯れに並べてやった。


「まあ、せいぜいいい夢でも見てくれや」


 そう告げてから男に向かって手を合わせ、首を垂れる。

 片膝を立てながらの行いに思わず、これじゃあ仏さんじゃねぇかと大いに笑ってから、浩一はその場を後にした。


 故に、次に銀行前の排水溝にうずくまっている男を見かけても、浩一にはまたかという思いの方が強かった。


 深酒をしたらしい若者は、時に咳こみながら嗚咽を上げている。

 金髪が頻りに揺れ、チェックのシャツが時にヘッドライトに照らされて何やら機械仕掛けの道化のように映る。

 徐に口腔へと指二本を差し入れると一際大きく跳ね上がり、僅かに嘔吐してまた唸りを上げる機械に戻る。

 若い奴は無理をすると溜息を吐いた浩一は、しかし、素通りしようとしたところでその男に残った技令の気配を敏感に感じ取った。

 夜の闇に溶けてしまいそうなほど淡いその気配は、確かにその若者の中から発せられ、ここ数時間で何らかの技令が用いられた形跡がある。


「おい、兄さん、大丈夫か」

「うるせぇ、何でも――」


 若者は寄り添おうとした浩一を左腕で払いのけようとしたが、それを押さえた腕の力と浩一の体躯を見て急に身体を小さくする。

 その様子を見た浩一は苦笑すると、優しく背中を摩ってやりながら、若者に穏やかそのもの、それこそ日向で猫でも撫でるような様子で語りかけた。


「まあ、街に出てから飲んで騒いでやろうっていう気持ちは酌まんでもないが、もう少し自分の肝の大きさを知った方がいいさなぁ」

「そんなんじゃねぇよ」


 言葉を発しようとして、若者は再び排水溝に首を垂れる。

 その様子を豪快に笑ってやった浩一は、暫し離れて水を買ってやってから、それを脇に置いてやった。

 解毒の技令をかけてはいるが、酔いには効果が薄い。

 ただ、浩一の目にはただの酒の飲み過ぎではなく、不釣り合いな二日酔いとしてそれは映っていた。


「飲んで回ったんだけど、今日は、酔いが来ねぇと思って、飲んでたら帰りになって、急にきやがったんだよ。薄いの作りやがってと思ってたけど、薄いんじゃなくて薬でも飲んじまったのか」

「いやあ、薬ならもっと様子が違うさ。肝の調子がおかしかったんだな。たまにあることさなぁ」

「へぇ、おっさん、医者か何かか」


 似たようなもんだと曖昧に答えておきながら、浩一は回った店やその様子を巧みに聞き出していく。

 澱のように溜まった二日酔いの元は、浩一の技令を拒むようにしてそこに在り、それにはもう苦笑するより他にない。


「そうか、じゃあ俺はそろそろ行くからな。水でも飲んで落ち着いたら、素直に帰るんだぞ」

「おっさん、ありがとよ」


 浩一の背後で再び嗚咽の声が上がり、その後を鳥たちの喧騒が追いかけるようにして響き渡る。

 高架下へと消える浩一は、この奇妙な酔っぱらいの件をどうするか思案しながら、静かに一つ息を吐いた。

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