第5話

 手術日まで外に出ることが出来なくなった。

 私の入院部屋から見える光景は狭く、そして退屈なものだった。

 今までは――

 眼下には住宅街が広がる。生への希望を感じた瞬間、今までモノクロにしか見えなかった世界に数え切れない色が宿り、自然と涙が溢れてきた。

 この気持ちを、今すぐ千春と共有したかった。抱き締めて「私も生きられる」と叫びたかった。

 千春に、早く会いたかった。


 手術日の翌日、麻酔から目を覚ました私は心臓の移植に十二時間もかかったと知らされ、胸に刻まれた成功の証を指で触るとまたしても涙が溢れた。

 術後の拒否反応もなく、十日には一般病棟に移ることが許可された。

 体調も落ち着き始めた頃、病室で一人横になっていると扉を叩く音が聞こえ、どうぞ、と入室を促すと、いつか見た女性が訪れた。


「えっと……もしかして千春のお母さんですか?」


 あの時は遠目でしか見ていなかったけど、明らかに憔悴しきった顔で恭しくお辞儀をされ戸惑った。


「こうしてお会いするのは初めてですね。仰るとおり、私は斉藤千春の母親です」

至近距離でみると、千春の顔と瓜二つであることがわかる。特に、儚げなところなんてそっくりだった。

「あ、始めまして! あの、私、千春と仲良くさせてもらってる広瀬凛と言います」

「貴女の話は千春から聞いていました。病院に可愛い子がいるんだって、いつも嬉しそうに話してたんですよ」

「か、可愛いだなんて、そんな」


 ただでさえ、千春のお母さんが目の前にいるという状況を飲み込めないというのに、千春が私のことを影で可愛いと言っていた事実にパニック状態に陥る。


「え、え、えっと、その、最近千春の姿が見えないんですけど、今どうしてるんですか?」


 手術後にも姿を見せない彼に、様々な感情をぶつけたかった。もしかしたら私のことなんて忘れてるのでは、と不安に思う夜もあった。いい機会だと千春の現状を尋ねると、おばさんはバッグから一通の封筒を取り出して、そっと手渡してきた。


「これを読めば、千春が顔を見せなくなった理由がわかるわ。申し訳ないけど、私はこれで帰らせてもらうわね」


 春を思わせる薄紅色の封筒を私に渡すと、役目を終えたとでもいうように、おばさんは病室を後にした。

 一人残された病室で封筒の中身を確認する。千春からの手紙なんて初めてで、浮かれながら目を通すと――



        凛へ


 これを読んでいるということは、凛の手術は成功したんだね、良かったよ。

 そして、残念だけど僕はもうこの世にはいないようだね。

 きっと、突然姿を見せなくなってしまった僕のことを心良く思ってないかもしれないから、どうか釈明させてほしい。


 実は、凜には言い出せなかったんだけど、僕の頭の中には、どんな天才脳外科医にも手の施しようがない腫瘍があります。

 運悪く破裂したら、まず助からない箇所にあって、震える手で手紙を書いている今この瞬間にも破裂してもおかしくない状況なのです。

 いつの頃からか、もし僕の命が尽きる時が訪れたら僕の臓器は移植に使ってもらおうと決めていました。十八歳以下だから親の同意が必要だったけど、それはなんとか説得して認めてもらうことが出来ました。


 ずっと黙っていてごめんなさい。

 君に出会うまでは、実は生きることに絶望していました。

 何故自分がこんな目に遭わなくてはいけないのかと、世の中を恨みもしました。

 だけど、僕が精密検査を受けに行った日の帰り道、まだ咲いてもいない桜の蕾を寂しそうに眺めていた凛の姿を見かけたとき、とても胸が締め付けられ、涙が溢れてしまったのです。


 ああ――この人も生きることを諦めた人なのか、と。

 僕より辛い日々を過ごしてきたんだろうと、直感的に思いました。

 今思えば、あの瞬間に、どうしようもなく心を奪われていたんだと思います。

 それから二人の時間を重ねていくうちに、凛は、生きることを諦めてるわけではなく、誰かに手を差し伸べてもらいたかったんだという事がわかりました。


 だから、僕は貴女の側で、自分の命が尽きるまで、手を差し伸べてあげたいと心に決めました。

 この手紙は届かなければ良いに越したことはないけど、もし万が一、僕がいなくなっても希望を持って生きてください。

 どうか生きることを楽しんでください。

 一緒に桜を見ることも、一緒に出掛けることも出来なくなってしまったけど、心はいつも傍にあります。

 春が来る度、思い出してくれたら嬉しいです。


 ありがとう。大好きでした。


       斉藤千春



 読み終えたときは、手紙のインクが涙で淡く滲んでいた。

 これほどの痛みは、病気を患ってから一度も経験したことがない。

 千春に二度と会うことができないという現実が、私の心をめちゃくちゃに掻き乱す。

 止めどなく零れ落ちる涙の先に、封筒からひらり、一枚の桜の花弁が落ちた。

 病室から見下ろせる桜の樹には、狂ったように花が咲き乱れている。


         ※


 あれから無事に退院でき、久しぶりに外の空気を吸うことが出来た。季節は進み、桜の枝にはすっかり葉っぱが生い茂っている。

 私と千春が出会った時間を置いていくように、周りの時間は無常にも流れていく。前に歩き出す為にも、千春に会いに行くことにした。


 玄関の扉を開いたおばさんは、突然訪れた私に嫌な顔一つせず快く受けいてくれた。彼の屈託のない笑顔が納められた写真の前で、手を合わせ線香をあげる。

 おばさんの話だと、千春は亡くなる数日前から体調が悪かったらしい。なのに、無理して私に会いに行こうとする道半ばで倒れ、救急で私が入院する病院に運ばれたが昏睡状態が続き、とうとう脳死と判断されてしまったと、おばさんは涙ながらに語ってくれた。

 間を置かずに臓器の適合者が見つかったことを考えると、これは単なる偶然だとはとても思えなかった。

 千春は、どこまで私を助けてくれるのだろう――


 おばさんにお礼を伝え、家を出る。

 千春が体を張って私に生きる道を与えてくれたのなら、私は頑張って生きてみるよ。

 季節が変わっても、あの笑顔はいつも私の記憶の中にあるから。

 私の中に心臓ちはるがいる限り、なんだって出来る気がした。

 ポケットの中の花びらを取り出して眺めていると、季節外れの南風が天高くさらっていった。

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春に私は恋をした きょんきょん @kyosuke11920212

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