第3話

 あの一件から斉藤くんには会っていない。そのせいとは言いたくないけど、私は不貞腐れていた。

 自分がこんな思いをするなんて――変わり映えのない彩りの毎日に、変化が生まれていたことを素直に認めざるを得なかった。


 一人で座るベンチがやけに広く感じる。つい隣を見てしまうのは、きっと斉藤くんがいないせいだ。彼が来るのを、少し、ほんの少しだけ期待して待っていた。

 出来れば、あの日に言い過ぎてしまったことを直接謝罪したかったけれど、いつまで経っても顔を見せない彼にまたしても勝手に怒っては、次の日も同じように桜の樹の下で彼を待つ。

 モノクロの桜が五分咲きくらいになった頃、独りが怖くなり始めた。

 あの笑顔を見れないと、無性に不安な気持ちに襲われる。

 誰も教えてくれなかった、形容しがたい感情が私の心を苦しめた。


         ※


 何日振りか、その日もベンチに腰掛けて彼を待っていると、病院の正面玄関から姿を現した斉藤くんの姿を見かけた。隣には母親と思われる女性が付き添っていた。

 咄嗟に声を張って呼びかけると、元気のなさそうな顔を上げて私の存在に気が付くと、隣に立つ女性に背中を押され小走りに私の元へやってきた。


「ずいぶんと顔を見せなかったじゃん。私のことなんて忘れた?」

 自然と口から出たのは嫌味だった。 

「うん……ちょっと用事があってね。どうしても来れなかったんだ」と弁解していたけど、その歯切れの悪い答えに根拠はないけど、何か隠してるように感じたのは気のせいだろうか。

 肌と肌が触れそうな距離に腰掛けると、思わず胸が高鳴ってしまう。心臓に負担をかけてはならないと厳しく注意されていたにも関わらず、自分では制御が効かない拍動が、今この瞬間の煌めきを私に教えてくれる。


「あのさ、凜は自分の名前好き?」

「な、なによ突然。自分の名前なんて、好きか嫌いかなんて考えたこともないけど、斉藤くんこそどうなの?」


 突然下の名前で呼び捨てにされたことに、さらに心臓は落ち着きをなくしていく。だけど、それは自然と笑みが溢れてしまう類のものだった。

 足元の小石を、爪先で弄りながら語る。


「僕はね、男らしくない自分が好きじゃないんだ。とくに『千春』なんて名前は女子みたいじゃん。同級生から馬鹿にされるし、もし僕がいなくなったら、一体誰がこんな名前を覚えていてくれるんだろうって思ったりするんだ」


 悩みの一つもなさそうな、人を魅了する笑顔を持っている彼にも悩みの一つはあるんだなと思うと、より存在を身近に感じる一方で沈んだ顔を見ていると私まで胸が締め付けられる。

 だから、正直に思っていることを伝えることにした。


「私は好きだけどな、千春」

「好きって、僕の名前が?」

「うん。素敵だと思うよ」


 それは偽らざる気持ちだった。千の春と書いて千春なんて、まだ十四回しか春を経験していない私にとっては羨ましいと素直に思う。そんな名前をつけた両親の想いも窺い知れる。

 ふと、春の木漏れ日の下で斉藤くんと手を繋いで歩く光景が頭に浮かび、首を振って妄想を掻き消した。今は彼と話をしてるだけで十分だった。それ以上を望むのは、罰が当たりそうで怖かった。


「そうかな。凜がそう言ってくれると、なんだか自分の名前に自信が持てるよ」


 そう言うと、見たかった笑顔を見せてくれた。

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