第2話 黒をまとう美しいものたち

 そこでロディーヌは初めて気がついた。……人がいる! 驚いて見上げれば、この美しい生き物は一人の若者を背に乗せていた。


 彼は黒光りする肢体と一体化するように全身黒づくめだった。黒いシャツとズボン、胸にはぴったりとした黒い薄手の鎧をつけている。ブーツも手袋も黒で、頭には黒い布を巻き、わずかに見える髪も漆黒だ。斜めがけにした荷物ももちろん黒の大きなもので、丈夫な植物の繊維で編まれているようだ。

 長旅の途中なのだろうか、あちこちにほつれや汚れが見えたけれど、その身からはまるで磨き上げられた剣のような、研ぎすまされた力が感じられた。

 ロディーヌは巨大な黒猫を見た時と同じように息をのんだ。その人もまた、美しかったからだ。


 鍛えられた体は並外れて大きく、日に焼けた顔は精悍だ。けれど粗野ではない。高い鼻筋やきりりと結ばれた口元は名工の作った彫像のようで、類い稀な高貴さをもたらしていた。

 ロディーヌには彼が、小さいころから繰り返し読んだ本の中にある「騎士さま」そのもののように見えた。こんな人気のない場所で、それもあのような恐ろしい出来事の後、突然見知らぬ人に出くわしたというのに、不信感も困惑も感じなかった。それどころか、兄たちと引き離されて以来、年の近い異性と口も聞いたこともなかったというのに、気がつけばなんの抵抗もなく言葉を紡いでいたのだ。


「騎士さま?」


 目を細め、面白そうにロディーヌを見下ろしていた彼は、まるで親しい友人と語らうかのように砕けた口調で答えた。 


「そうとも言うな。乗っているのは豹だが」


 自分で言って楽しげに笑う若者。その朗らかさにロディーヌもつい笑顔になる。ああ、やはりこれは豹だったのだと感動しつつも、同時に我に返ればあまりにも子どもじみた自分の言動に恥ずかしさがこみ上げてきた。たまらず俯いてしまったロディーヌに優しい声が続く。


「あなたはこの黒豹が怖くないのか?」


 その問いかけにロディーヌはそっと頷いた。まだ恥ずかしくて顔を上げることができなかったけれど、それでも失礼にならないようにと説明を始める。

 話し始めれば、心がどんどんほぐれてきて楽しくなり、ロディーヌは実に饒舌に語った。そんな自分に驚きながらも止めることはできない。猫がとても好きだということ、家にはたくさんいること、だから自分にはこの黒豹が美しい大きな猫にしか見えなかったこと。最後には顔を上げ、ロディーヌは笑顔見せた。


 話しながら時折、また失礼なことを言っているのではないかという心配が彼女の胸をよぎったけれど、そんな心配を吹き飛ばすかのように、聞いている若者は相槌を打ち、ますます大きな声で笑う。

 彼もまた、このような場所で出会った見ず知らずの少女への不信感をまったくと言っていいほど感じていなかった。それよりも、この少女ともっと話したいと思わずにはいられなかったのだ。


「確かに。ああ、大きな猫だな」


 ロディーヌは自分の言葉が受け入れられたことが素直に嬉しかった。こんな風に誰かと心置きなく話すことがしばらくなかっただけに、そんな時間はロディーヌの心の奥に優しく沁み渡った。

 失われていた時間が、次々と目覚めていくようような喜びがロディーヌの中に芽生え、それが笑顔へとつながる。その顔は泥に汚れていたけれど、まるで花開くような華やかさだ。

 若者はその笑顔に釘付けになった。女性の顔をまじまじと覗き込むなど失礼だと思いながらも、どうしても目をそらすことができない。心の奥から何かがわき上がってくる。今まで経験したことのない衝動に彼は戸惑った。


「豹というものを絵本でしか読んだことがないものですから。ものを知らずにすいません。このように大きなものだということも初めて知りました」

「いや、豹は世界にも少ないから知らずとも当たり前だ。何も恥ずかしがる必要はない。それにこれはただの豹ではないのだ。聖獣という特別な生き物だから、あなたが驚くのも無理はない。途方もなく大きい黒豹なのだよ。普通の豹はもっと小さくて、あなたの好きな猫も変わらないかもしれない」


 胸の内は今までになく乱れ、それを隠しきれるだろうかと密かに心配していた若者だったけれど、彼の舌もロディーヌと同じように滑らかに回った。言い終わった若者がまた笑いながらロディーヌを見やれば、彼女は幾分顔色を悪くして口元に手を当て、きょろきょろと目を泳がせていた。

 何か困っているのだろうけれど、その様子があまりに可愛らしくて、若者は思わず吐息を洩らす。ロディーヌはそれに気づくことなく、胸の前で手を組んで震える声を絞り出した。


「聖獣……。特別な生き物なのですね。気安く猫呼ばわりなどして、ましてや撫でまわすなど……ああ、なんという失礼を……。どうぞお許しください」

「いや、問題ない。見てごらん、この満足そうな顔を。猫だろうが豹だろうが聖獣だろうが、ちっとも気にしていないと思うぞ。こいつもあなたのことを相当気に入ったようだ。もっと撫でてやってくれ。ちなみに名前がある。ジュールだ」


 黒豹が目を細め、ぐるぐると喉を鳴らして応える。ロディーヌは小さく頷き、もう一度手を伸ばしてそのなめらかな鼻筋を撫でた。先ほどよりも一層温かい何かが流れ込み、ロディーヌは身も心も癒されるのを感じた。


 万華鏡のように変わる表情。それはロディーヌのまっすぐで裏表のない気持ちの現れだ。若者にはそれがとても好ましく思えた。彼は自分が、目の前の美しい存在に強く惹かれ始めているのを感じずにはいられなかった。彼女と黒豹の信じがたい結びつきにも、言いようのない喜びが沸き起こっていた。若者は黒豹から降りると、ロディーヌのそばの大きな石に腰掛けた。

 近くで見る彼は、ロディーヌが思った以上に手足が長く背が高かった。泉の王国の人々よりも、ひとまわり大きくてがっしりしているのではないだろうか。ますます物語の騎士さまのようだと思う反面、泥にまみれた自分の姿が恥ずかしくなり、ロディーヌはどうしたものかと恥じらう。

 若者はそんなロディーヌに微笑みかけ、自分の隣りの石を指差した。その笑顔と仕草に、ロディーヌの胸が高鳴る。もしかしたら顔も赤くなっているのではないだろうか。ロディーヌは必死で自分を抑えつつ、そっと近寄ったけれど、さすがに隣りには座れない。少し離れた場所に腰掛けて若者を見やった。

 

 黒豹は彼の足元に寝そべり、大きな前足に頭を乗せ、気持ちよさそうにしている。初夏の日射しはきらめき、風は甘く香るかのようにロディーヌには感じられた。暗く寂しい場所だった岩山が、彼らの出現によってこれほどまでに安心できる温かいものになったことに驚きが隠せない。

 岩山に、これまで以上に清らかで心地よい時間が流れ出した。これはこの方々のなせる技に違いないとロディーヌは思った。聖獣を見たのは初めてだったけれど、途方もない力を秘めていることは一目瞭然だったし、そんな生き物に心を許されている若者も常人ただびとではないだろう。

 

 ふと若者が上着を脱ぎ汗を拭った。それ見たロディーヌが問いかける。


「もしや喉が渇いているのではありませんか?」

「ん? ああ、しばらく飲んでいないな。泉を探さねばと思っているうちに何やら陰気な森に入ってしまったから」


 ロディーヌは自分の髪を一房手に取ると、そっと差し出した。


「どうぞ、この髪を握ってください」


 黄金の中に流れる青い一房。若者は咄嗟には理解できなかった。一瞬の間が空いたその時、黒豹が動いた。ジュールがその頬をロディーヌの青い髪に擦りつけたのだ。目を細め、喉を鳴らし、満足げだ。そして振り向いて若者を促した。

 若者も頷いてロディーヌに近づき、そっとその髪を手に取った。


「っつ!」


 全身が清涼感に満たされていく。今まで飲んだこともないような甘くて清らかな水が喉を滑り落ちていくようだ。渇きが癒されていく不思議さに若者は驚いた。


「私にはこれくらいの力しかありませんが、お役に立ててよかった」


 人に分け与えることはできるけれど、自分ではそれを感じられないのだとロディーヌが恥ずかしそうに笑う。可憐な花が揺れるような微笑み。若者は心の奥から揺さぶられるのを、もうどうすることもできなかった。


「……いや、素晴らしい力だ。ありがとう。猫好きで、水に愛されているあなたは泉の王国の方なのか? 名前を教えてはくれないだろうか。私はオワイン、森の王国の者。国へ帰る旅の途中だ」

「はい。私は泉の王国民です。ロディーヌと申します。王国の古い言葉で、泉の乙女という意味を持ちます」


 その言葉にオワインは破顔した。


「ロディーヌ! 泉の乙女……なんとよい名前だろう。あなたにふさわしい。しかし、そんなあなたはここで一体何をしているのだ?」


 これまでのやり取りでロディーヌはすっかり彼に心を許していた。この方ならば……ロディーヌはそっと語り始めた。


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