25.「鞘から抜けぬ剣の意味」

 血泥に溶けた荒野を進む。

 戦地に赴いたのは何時ぶりだろうかと男は考えた、自分が騎士として……兵器として使い物にならなくなってから何年経ったのか。

 直視せずにいた事実であるせいで、パッとは答えが頭に浮かんでこない。


 今の自分には重すぎる愛剣を背負って歩く、娘と同じ型であるこの細剣は今では訓練くらいでしか抜かなくなってしまった。


 今の自分はきっと実力的にも神には及ぶまい、文字通りの壊れた兵器、ガラクタだ。


「これを良くふたりで止めたものだな」


 ライオス王国に程近い、人類圏が目と鼻の先であるギリギリの位置で神が死んでいた。


 辺りは血と肉塊に沈んでいる。

 瞳を突き潰された神の死体は、既に腐り始めており、灰の荒野に新たな死が刻まれていく。


 本来であれば一般的な神の種別に当て嵌められないネームド級として、王石柱レムナントから固有の識別名を与えられていただろう巨神は、名を得る前に殺された。


 恐らく……いや十中八九、相打ちだろうと男は考える。

 神の死体からずり落ちて来た、青年の体を見てそう判断した。

 普段ならばきっと傷一つなく帰還できた、そんな戦いだっただろうに。


「生きているな、雄大」


 男の声に、血袋となって体の大半が機能していない青年が、ぴくりと反応した。

 生きているなら幾らでも騎士は治る、あくまでも体はの話だが。


「良くやった、お前は自慢の生徒だよ」


 幼い頃から物覚えが良く、出来ないことなんて何一つなかった青年の腰には、純白の聖剣があった。

 死に体の彼にもくっついている癖に、助けてはやらなかったらしい。


 無意識の内に顔を歪めていた、吹き付けた風が髪を揺らす。

 聖王候補という重荷を生まれながらに背負ったこの子の行く末を心配してやれる権利は、男にはもう無かった。


 兵器として生きられないから、兵器として死んでもいけないのが己だ。

 何を語る資格も選ぶ自由も無い、壊れた騎士はただ過去の記憶を抱いて、死ねと言われた時に死ぬことしか出来ない。


「お、とうさん……」


 聞き間違えるはずのない、愛しい子の声に男は顔を上げた。


 簡単に死ぬ訳はない、娘の神技は何があってもあの子を生かそうとする。

 そう知っていても、生きているのを目の当たりにすると安堵のあまり膝から力が抜けそうになった。


 声のする方へと歩み寄れば、地面に倒れている娘がいる。

 重症ではあるが生きている、絶望せずに良く耐えた。


「良い子だ、無事でよかった。

 お前は本当に頑丈だな」

「……しにたく、ないから、ね」


 娘は笑みすら浮かべてみせた。

 血溜まりに膝をつき抱き起こしてやると、安心したように体を父へと預けてくる。

 血で張り付く前髪を撫でてやれば、眠たそうな眼を向けて娘は言った。


「なんで、たすけてくれなかったの」


 その問いに答える自由を、男は持たなかった。

 言葉を発しようと口を開いても声にならない、頭の奥で響き続けるが体を支配して離さない。

 実の娘にさえ満足な答えを言ってやれない己を、男は心底から呪った。


「なんでお姉さまをとおくへ、やったの」


 体を芯から凍らせるような問いを、娘は重ね続ける。


「私、ちゃんと聞くよ。

 ……お父さんに理由があるならちゃんと、聞いたのに、なんで?」

「紗世」


 名を呼べば、賢い娘は口を噤んだ。 

 黙って、大きな目を見開いて、静かに涙を流した。


「……俺は、お前のことすら選べないんだ」


 溢れる涙を拭ってもやれず、男は娘の体を掻き抱いて歯を食い縛る。

 可哀想でならないとか、申し訳なくて仕方がないとか、本当は死んでも助けてやりたいのだとか。


 僅かに残る家族を想うこの心すら、きっともうすぐ奪われる。

 最後の瞬間まではせめて、この子を抱きしめていたかった。




 ◇ ◇ ◇



 凱さんの声が聞こえる、と半分黒く染まった視界で空を見ながら雄大は考えた。

 

 さっきから耳がおかしくてちゃんと聞き取れないけれど、たぶん凱の声だと思う。

 彼が来たのなら紗世は大丈夫だろうと、雄大は安堵した。


 ……巨神の瞼が開かれた直後、降り注ぐ血に呑まれながら全力で振り下ろした剣は、ちゃんと届いたらしい。

 結果的には相打ちの形になったが、ちゃんと神は殺せたようだ。


 あー、と声を出してみたが、呻き声すら出なかった。

 自己再生の進みは遅いが始まっている、なんとか生き残れたと言って良いだろう。

 むしろ頭から神技に飲み込まれておいてこの程度の侵蝕で済んだのが奇跡だ。


 ……今の状態で病院に運び込まれたら、たぶん詩音に泣かれるし、皆にも怒られるだろうなぁと雄大は考える。


 自分の体の部位がちゃんと揃っているかも定かではない、痛みは遥か彼方にあって、全身がとにかく熱い。


 唯一感覚があるのは右手だけで……あ、と雄大は気付いた。

 愛剣が何処にも無いのだ。


 どれだけ死にかけても手離したことはなかったのに、初めての経験に雄大は戸惑った。

 

 師匠に怒られる、と思うとなんだか、今すぐ探しに行かなくてはいけないような気がしてくる。

 師匠は怒ると拗ねるひとだから面倒臭いんだ、だからなんとかしないと。


 巨神の瞳を突き刺した後、濁流に持っていかれてしまったのだろうか。

 歯を食いしばって体を動かし、仰向けから俯せになる。

 真横で腐っている死骸から離れるように這いずった、肺の奥から変な音がする。


「……し、しょう……師匠」


 虫みたいにもがいている間に声帯まわりが再生したらしい。

 違うんですよ、とかわざとじゃないんですとか、夢見心地に言い訳を呟きながら雄大は愛剣を探した。


 あれが無いと駄目なのだ、だって俺は聖剣を抜けないから。

 あれが無いと戦えない、あれと生きて来たんだから。


 師匠がくれた、唯一の──。



「探しているのはこれか、聖王候補」


 何時の間にか再生していた耳が、正確に聞き取った呼び声に雄大は目を見開いた。

 冷や水を掛けられたみたいに脳が冷える、見上げた先には己を見下ろす瞳があった。


 白光を宿して輝く杖を持った、正義の王。

 カインズ・ローグがそこにいた、雄大の愛剣をもう一方の手で握りながら。


「良く戦ったな、私の騎士。

 お前はいつも私の役に立つ、だから気に入っている」


 何故、圏外区域にこの人がいるのか、その答えを得るには情報が足りない。

 カインズの背後には数十名の騎士達が並んでいる、皆が揃いの目隠しを付け、直立不動で。


 その中には、雄大が逃した部下たちの姿もあった。


 この人に聞きたいことが沢山あるはずなのに、頭が真っ白になってしまって口が上手く動かない。

 雄大の目は白光を放つ杖に釘付けであり、その視線にカインズは気付いた。


「見たら分かるものか?

 聖王候補、私は原初の聖王が持つ権能を一部、借り受けたのだ」


 原初の聖王が持つ権能を、借り受けた。

 ……異能を扱えない人間が、どうやって。


 雄大は自分の頭に浮かんだ問いに、自身で答えを用意することが出来た。


 彼に特別な知識が備わっていたわけでも、この瞬間に何かの天啓を受けたわけでも無く、未来がいつも騎士寮で幼子たちに読み聞かせている絵本にすら描いてあること。


 ──常識として知ってはいても、実在すら疑われるような存在である為に、脳裏に過ぎりもしなかった物。


 自分たちを支配したのは王石柱レムナントからの命令などではない。 

 その正体を、雄大は確信した。


 今になるまで気付けなかった自分は愚かだ、昔から知っていたことだったのに。


 ──昔々、宇宙より降りた原初の騎士王たちは言いました。

 「私たちは何一つ、人類の皆様に危害を加えたりは致しません」

 「その証として、人類の皆様には、私たちを縛ることの出来る器を差し上げましょう」

 そう言って騎士王たちは、人類に王権レガリアを授けたのです。

 おかげで人類は、騎士の万能に怯えることなく暮らしました──


 人が騎士を支配する、唯一の方法。

 伝承にて語られる王権レガリア、その一つが目の前にあった。


「実物を見るのは初めてだろう。

 伝承で語られるような代物だから、使用を想定出来ずとも無理はない……」


「貴方が命じたのか」


 目を細めるカインズに、彼は問い掛けた。

 足はまだ再生していない、だけど右腕はもう動かせる、不敬だと承知で雄大は無理やり聖剣に手を掛ける。


「貴方が『戦闘行為を停止せよ』と、それを使って俺たちに命じたのか」


 あの命令がなければ、戦況はこんなにも激化しなかった。

 部下は危険に晒されず、雄大は五体満足で、今頃は王都に帰れていたはずだ。


 どんな理由と目的があって自分たちを死地に突き落としたのか、雄大は問わねばならなかった。


「お答えください、我が王。

 俺たちは神ではなく、貴方に殺されかけたんです」


 カインズは表情を変えず、雄大のことを見下ろしていた。

 答える気はないと態度が語っている。

 雄大は体を起こす、地面に血溜まりを作りながら。


「貴方には問わねばならないことだらけなんだ、何故そんなにもアルメリアと戦争をしたがるのか。

 民達を拉致してまで居住棟シェルターに入れる理由も、今、俺の前に現れたことだって……」


「貴方が人の王として箱庭で生きていくつもりがあるようには、俺にはもう思えない」


「お前たち兵器の思考など、私が聴いて何の意味がある?」


 カインズは眉根を寄せて奇怪なものを見る目で雄大を見る。

 本来なら喋らぬ人形が喋り出した時のように、不気味がって、気持ち悪そうに。


「──五代目の騎士王が選抜されてから、生まれてくる騎士たちは自我を強め、明確な人格を持つようになった。

 ……お前たちのことを第五世代と呼ぶのだったな」


 唐突に話の向きが変わったことに、今度は雄大の方が顔を顰める。


 第五世代とは、雄大を含めた1840年前後に生まれた騎士のことを指す。

 新たな騎士王が選ばれ世代が進む度に、騎士は進化するように出来ている。

 それは王石柱レムナントが新たな騎士王を通して学習し、時代に適した次世代を製造するように働く為だ。


 そうやって騎士は時代と箱庭に適応して来た、生き物として破綻しない為に。

 どんな状況でも義務を果たせるよう。


 自我があっても情動の薄かった騎士たちは、第五世代を境に大きく人に近付いた。

 それが今の若手として将来を担う多くの騎士達であり、雄大たち騎士寮生。


 ……今する必要のある話とは到底思えない、何か誘導されているような気がして雄大は警戒を強めた。


「私はお前たちのことが恐ろしくて仕方がない、兵器に人格などあるべきでは無い」

「だから、支配すると?」


 雄大はカインズの背後で直立する聖王騎士達に視線を向ける。

 見知った顔ばかりがあった、両目を目隠しで覆われた彼らは一言も喋らず、一切の意思が感じられない。

 市街地で交戦した騎士たちと同じだ。


「俺にも彼らのようになれと言いたいんですね、貴方の命だけを聞く傀儡に」

「ああ、話が早いな」


 物分かりは昔から良すぎるくらいだった、雄大はカインズの要求を大体察して、首を横に振る。


「許される訳がないでしょう。

 それの正しい使われ方はもっと別にある」

「ほう、原初の聖王と次期聖王では意見が割れるようだ」


 可笑しなことだな、とカインズが肩を竦める、まるで他人事のような振る舞い。

 雄大は自分が騎士に生まれてきたことを初めて後悔した、この人に言葉はもう通用しないと思ったからだ。

 自分が人に生まれていたならば、きっとカインズを止める手段がもっと多かった。

 ……今の状況に対してだけは、己が騎士であるという要素が邪魔すぎる。


 一縷の望みを懸けて聖剣を握り締めたが、普段と何ら変わらず柄は動かなかった。

 どれだけ神技を行使しても、指先からも掌からも何も伝わって来ない。

 愛剣は未だ王の手の中で、老齢の男からあれを取り返すという容易い行動ですら、騎士の本能が拒否して実行出来ない。


 手詰まりの中で思考を巡らせることしか、雄大には出来なかった。


 ──語り継がれる伝承が事実ならば王権レガリアは五つ存在し、対応する王石柱レムナントの許可がなければ解放されない。


 カインズによる王権レガリアの使用を、どんな理由であれ原初の聖王が良しとしたということ。

 少しも賛同できることではないが──聖王の考えなんて分かった試しがないなと思う。


「拒否権はないと理解したか、我が騎士。

 正義の前に膝を折るが良い」


「……膝を折る、ですか。

 さっき受けた感覚だと、気合いで抗えるような代物のようですが」


 雄大は敢えて馬鹿にするように笑った。

 変わらず聖剣の柄は抜ける気配もない、愛剣も取り戻せない。

 仮に振るえる武器があったとして、騎士である限り人を斬ることは出来ない。


 ……打てる手が無いことは、何度も自覚している。

 それでも雄大はカインズの思惑通りに動く訳にはいかないのだ。


 ──ライオス王国には、何も知らない民たちが生きている。

 人類の安寧を守ることこそが、騎士の生存理由であり果たすべき義務。

 己がやるべきことは、生まれた瞬間から決まっている。


 この人を理解することは、騎士の自分には無理なのだと雄大は正しく認識した。

 真意には辿り着けず一端すら掴めなかった、自分が人間ではないから。


 それよりも今、優先すべきなのは民の安全、そして傀儡とされた騎士達の解放だ。

 

 どうにかしてライアンと合流し未来を呼び戻して、アルメリアとの戦争を阻止する為に動かなければ──。


 最優の中の最優は正しく、与えられた称号に見合った優秀さで状況を判断し終える。

 雄大の目的が「説得」から現状の「打破」に変わったことに、ライオス王が気付かない訳がない。


 この戦いの決着は既に


「そういえば、言い忘れていたな」


 雄大の思考をカインズの声が遮る、長年の癖というのは恐ろしく、自分の仕える王の声を彼の耳は正しく拾ってしまう。


 だから、駄目なのだ。


 自分の主人を悪だと糾弾するには雄大は幼すぎて、あまりにも純粋だった。

 何処かでまだ仕える主に対する期待があって、剣を捧げてきた忠誠が、人を嫌うことの出来ない騎士の種族特性が雄大を鈍らせる。


「今のライオス王国に、生きている人間など一人もいない」


 告げられた言葉を理解した雄大は、暫く呆けたあと、信じられないものを見る目でカインズを見つめた。


「彼らは皆、

 聖王騎士団が守るべき人類など、もうこの惑星には存在しない。

 居住棟シェルターに生きたまま民を移送しているという話は嘘だ、お前に祈りを捧げた人々はもう何処にもいない」


 何を言っているのかと問い返す必要もないほど正確に、雄大は己が王の発言を理解してしまった。


 自分が何の為に戦って、誰の為に聖王になろうとしていたのか、分かっている。

 分かっているから、現状に対する正確な理解が致命傷になった。


 震える右手が柄を握る、血が滲むほどに握り込む。

 それでも聖剣は抜けない、悪を裁く剣は雄大の代わりに目の前に立つ王を見定めてはくれない。

 真っ白な空白と化した思考の中に、かつて聞かされた言葉だけが響いた。


 ──騎士が死ぬのは絶望したときだ。

 深層が壊れてしまえばもう二度と立ち上がれない、良い?


「抗わなくなるまで、何度でも王命を重ねてやろう、我が騎士よ。

 これから先、私の起こす変革にはお前が必要だ」


 ──雄大はきっと神にではなく。

 人に殺されてしまいやすい、そんな騎士だよ。



 ◇ ◇ ◇



「はぁ……はぁ、はぁ……ッ!!」


 聖王領域、ライオス王国。

 王都に立ち並ぶ居住棟シェルター、その一棟の中で、ライアン・ローグは膝をついた。


 父親の目的を知る為、そのを止める為に奔走していた青年が辿り着いたのは、残酷なほど明確な答えだ。


 鼓動が全身を揺らす、呼吸が落ちつかない、吹き出した嫌な汗が背をつたう。

 ……父がいつも籠っていた書斎の中、何冊もの本に隠された奥側から見つけた鉄の塊。

 古く乾ききった血に塗れた拳銃を握り、ライアンは目の前で揺蕩う光を見つめていた。


 青白い光だ。

 ライアンの視線の先には巨大な箱があり、表面に走る青い光が発光して、棟の中を照らしていた。


 居住棟シェルターの中に格納されていたのは、人間ではなくコレだった。

 一人でに動く機械が一つ、ぽつりとあって、その事実がライアンを打ちのめしていた。


【王子さま、どうしたの?】


 箱の中から、誰かが話しかけてくる。

 この声は知っている、聞き覚えがあるとライアンは思った。

 気付きたくないことばかり次々に気付いてしまう己の頭を彼は抱える。


【王子さま、何処か痛いの?】


 今度は違う声がした、だけどこの声も知っている。

 聖王結界が破られる直前まで、ライアンが訪問していた王都の学校で良く聞いた、声。


【王子さま、泣かないで】【王子さま、大丈夫?】【王子さま、私たちどうなったの?】【王子さま、ここはどこなの?】【王子さま、ライオスはきっと平気だよね】【王子さま、ここにいれば安全なんでしょう?】


 数々の子どもの問い掛けに答えることが出来ず、ライアンは這いつくばって嗚咽を繰り返した。


 ライオス王国は正義の国。

 人の安寧が叶う場所。


 学問に精を出す子どもたち、働く大人たち、活気のある王都、科学の進んだ最先端の白い街並み。


 聖王結界が修復されれば戻ると思っていたライオス王国の日常。

 王子でありながら人類軍に身を置き、様々な物を犠牲にしながらライアンが愛し守ろうとしてきた民たち。


 が、箱の中に押し込められて彼に語りかけていた。

 

 居住棟シェルターは全部で八棟。

 八基の機構に回収された罪なき命。


「父上……」


 ライアンは震える手で拳銃を持ち上げる。

 あの人の考えている事がずっと理解できなかった、だけど今コレを目にして初めて、その思考の一端に触れた気がする。


「これが貴方の人類の救い方だというなら、僕にはもう、許す術がありません」


 弾倉を取り外す。

 中には銃弾ではなく、小さく畳まれ丸められた紙が入っていた。

 それを開けば見覚えのない筆跡による走り書き、記されていたのは。


 ──最愛なる私のあなたへ。

 夢のような技術が遂に完成しました、これで誰もが死者を忘れずに済むでしょう。

 死者の生前を記録し写す機構です、これならきっと生きている人と同じように、お喋りが出来るはず。

 誰も寂しがらずに済むように。──リーゼ



 ライアンは独り震えながら、記された名を指でなぞった。


 リーゼ……リーゼ・ステイシー。

 それは15年前に死亡したライアンの母親、カインズの妻にしてリーテ王の娘の名だ。


 ……母の記憶はライアンの中には殆ど無いけれど、きっと優しい彼女は願った。

 無慈悲に殺されていく死者たちが、時代の流れに消え去らずに済む方法を。

 生き残った者たちの悲しみをほんの少しでも軽くする理論を、母は構築した。


 ……彼女は自分で実現するべきだったのだ、彼女が死んでしまったから、父は託される他なくなった。


 ──父上はたぶん、母さんの望みを正しく理解できなかったんだよ。

 と、ライアンは頭の中で呟く。

 父上はきっと、本気で妻の望みを叶えようとしているつもりなのだ。

 誰もが寂しがらずに済む世界を作る、そんな夢物語にあの人なりに寄り添って。


 ライアンは父の事が理解できない、理解できないからこそ想像がつく。


 全人類を殺して、人は二度と死ななくなると。

 カインズ・ローグは考えたのだ。


 回避できない終末を迎えた箱庭で、放っておいてもそのうち滅びる人類に、ささやかな祝福を与える為に。

 その第一歩として、ライオスの民を惨殺した。


「ごめん、未来。

 僕は何処かでまだ、父上の事を信じてしまっていた」


 ライアンは呟いた、声の届かぬところにいる己の騎士へ。


 誰もが泣かず絶望しない世界を作る。

 ……そんな夢物語を、瞳を煌めかせて聞いてくれた唯一の親友に。


「だから、間に合わなかったんだ」


 背後の扉は父に支配された聖王騎士たちによって塞がれている。

 ライアンは、此処から出ることは出来ない。


 彼に出来ることは、もうない。

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