プルルゥモゥサッサッチィイギギマジ

@ishimlgaki

個人的見解

 ルンフォとショタに関する感想を述べさせていただきます。

 先ずはルンフォから。小生がルンフォに興味を持ち始めたのはsw2.0の後期からですな。ちょうどグリモワが発売されると告知があった頃でございます。それまでの認識としては、現代火器ににたモノを作品に提示する理由付け程度のモノだと思っておりました。しかしながら、時の流れと共に彼らに対する理解は変わっていきました。「従者として生きることに喜びを感じる」彼らは種として共通の倫理基盤を持っていること。これが何とも甘美な響きに聞こえてきたのでございます。他種族にはないこの素晴らしい精神性を使い、彼らを缶詰にしました。そのシナリオに参加している方々は一人は決まって狼狽えてくれます。人の形をした生き物が目の前で滅び、或は心身共に人間となりルンフォ共通の倫理観に背く様は私の中のナニかを目覚めさせました。有るべきモノが有るべき所に無い、見えてはいけないものが見えてしまっている。その様が私に凄まじい興奮をもたらしたことを今でも覚えています。その頃から擬音や苦しみ、嗚咽の表現を磨こうと試行錯誤したような気がします。

 総括いたしますと、ルンフォとは私に新たな可能性を示唆してくれた存在であり、万能な神その物なのです。彼らを更なる苦難と背徳に陥れるのが信仰であり、それによって提供される興奮こそが信仰の見返りなのです。

 次にショタに関する感想ですね。何時か何処かで「精神性の幼いモノであれば何でも良い」と、言ったのを覚えています。今なら私はこの言葉を撤回するでしょう。ショタがいや、成長過程の少年全てがいとおしいのです。私事ではありますが、心理学を専攻している身として少年少女の心のあり方について学ぶ機会が多くあります。ご存じでしょうか?彼らは人の心を汲む事ができ、人の心に寄り添うことのできる存在なのです。「大人」が出来なくなったことを全て彼らは標準装備している。しかし、それだけではないのです。心ない大人たちから多くを学び、心を失っていく彼らの感受性の高さと、何者にもなれるポテンシャルの高さ、何者にもなれない精神的な危うさという矛盾を持っているのです。

 自分の事を見つめ直したときに、気付きが有ったのです。ルンフォにインモラルを求めたように、彼らにもインモラル……つまり、有るべきでない様を求めていたのではないかと。そして、何者にもなれる消費期限有りの純粋さを持っている。何をしても、何を妄想しても「成長過程だから起こりうる」という免罪符によって許され、説得力がある。

 ショタとルンフォは神様なのです。この世に背くモノに形を変えることを許してくれる唯一無二の、私の神様なのです。彼らに対して愛を叫ぶのは信仰であり、冒涜することも信仰であるのです。彼らはかみさまなんです。なにをしてもゆるしてくれるかみさまなんですだからもっとかたちがなくなるまでこわしてつくりかえてしんこうをふかめるんですかみさまだからゆるしてくれるんですあぁわたしだけのかみさまああああああ好き好き好き大好き大好き大好き大好き大好き大好きあぁあぁあぁ………。

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