26嫁 メイド長 ヒンメル=ユニヴェール(2) 一見さんお断り

 ヒンメルはジャンと共に、チキュウのニホンという異世界に降り立つ。




 さらに具体的にいえば、キョウトの町中だ。




 ジャンが幼い頃から彼に仕えるヒンメルは、何度もチキュウに来たことはあったがキョウトに来るのは初めてだった。




 他の猥雑なニホンの街と違い、キョウトはどこか歴史と文化の下に統一されているような香りがする。




 日が落ちて間もなくといった風情で、薄紫にぼんやりと明かりが灯る光景はどこか叙情的だった。




「じゃあ、早速、お茶を売ってる店を探すか、師匠・・




 ジャンが懐かしい呼称で、ヒンメルを呼ぶ。




 ヒンメルが、その敬称にふさわしい実力を持っていたのはもう十年以上も前のことだ。




 チキュウには『青は藍より出でて藍より青し』とのことわざがあるが、ジャンがヒンメルを超えてから久しい。




 天才の中の天才である彼の主人は、ヒンメルが人生の中で極めた秘術などわずか一年も経たない内に会得して、そのはるか上をいってしまった。




「かしこまりました。陛下」




「おいおい。せめて二人きりの時くらいは陛下はやめてくれよ。師匠は俺を負かした唯一の女なんだから。もっと威張ってくれ」




 ジャンは寂しそうに言う。




 確かに、ヒンメルはジャンに勝ったことがあったが、それは彼がまだ10歳にも満たない頃の話だ。しかも、ジャンは魔法を使わないというハンデ戦をもらったあげく、圧勝ではなく、ギリギリの辛勝だった。




 全盛期の自分が、力を制限した子ども相手に全力で得た勝利など、誇れるはずもない。




 それでも、母性本能をくすぐるような憂いを帯びた表情を前にすると、ヒンメルはそれ以上なにも言えない。




「……わかりました。坊ちゃま」




 彼がまだ少年だった頃を思い出して、どこか懐かしい気分でヒンメルはジャンに語りかけた。




「それはそれでいまだに子ども扱いされているみたいで悲しいんだけどなあ。まあいいか」




 ジャンはそう言ってはにかむ。まるで大人の男に憧れるような少年の表情で。




 世界の厳しさと汚さを知ってもなお、子どもの頃の無邪気さを保ったまま、彼は大人になった。




 少年の純粋さと、大人の男の色気と、圧倒的包容力。




 ジャンが女性の理想を体現したような男に育ったことが、ヒンメルは嬉しい。




 教育係としてジャンがそうなるように仕向けたのは、ヒンメル自身だからだ。




 自分が育てた男が、世界の頂点に君臨している。




 女としてこれ以上の愉悦があろうか。




 しかし、それにしても――




(少々、育ち過ぎましたかね……)




 ジャンがここまでの天然ジゴロに育ったのは予想外だった。




 後宮の主として男性的魅力にあふれていることは大いに結構だが、彼に本気で恋する者が多すぎるのは、少々問題である。




 王族にとって結婚は理性だが、恋は感情であり、感情は往々にしてイレギュラーを招く。




 ジャンが愛される夫であることは結構だが、恋される男であることは望ましくない。




「――それで坊ちゃま。目的の緑茶はどこでしょうか」




 ヒンメルは事務的な口調でジャンに告げた。




 ヒンメルはジャンに対してできる限り厳しくあろうと思う。




 他の者がジャンをちやほやするなら、バランスをとって彼を締め付けるのが、自分の役目であり愛情だとと思うからだ。




「そうだったな。おっ――ちょうどあそこに『茶屋』って書かれた看板があるぞ」




 周りを見回したジャンは、目ざとくそれを見つけた。




 商売っ気のない控え目な店構えで、『竹梅』という店名に近くに申し訳程度の小文字で『茶屋』と書かれている。




「こんにちはー。お店、やってますか」




 ジャンが横開きのドアを開けて、店内に声をかける。




「へえ。どなたかのご紹介どすか?」




 店の奥から、オルジェ大陸風の衣装――ニホンにおいてはキモノというらしい――を着た中年女性が出てきてジャンへ問いかける。




「紹介? いえ、初めてです」




「そうどすか。申し訳おへんどすけど、うちでは一見さんはお断りしとります。観光用のお茶屋でしたら他をあたっておくれやす」




「え? あの、お茶を買うのに許可がいるんですか? ニホンは身分制国家ではありませんよね?」




 ジャンが首を傾げた。




 ヒンメルはその疑問はもっともだと思った。




 確か、ニホンは建前上全ての人間が平等な民主主義という政治システムを標榜していたはずだ。身分によって買えないものがあるという差別が許される国ではないはずなのだが。




「そういうことやおへんのやけれど……。あんさんなんやどえらい勘違いされとるようどすな……」




「女将。どないしたん?」




 そんな噛み合わないやりとりをしていると、背後から声がかかる。




「あっ。堂島はん。この外人さんにうちらの店のことどない説明したらええんか困ってしもうて……」




 店に入ってきた小太りの中年の男に対して、女将と呼ばれた女は手を頬に当てて首を傾げた。




「さよか。外人さん。ここは誰でも入れる飲み屋とちゃうで――ってあんちゃん! あの時の男前やん!」




 ジャンの肩を掴んで振り向かせた男が驚きに目を見開く。




「あっ! あなたはトウキョウの! お久しぶりです!」




「坊ちゃま。お知り合いですか?」




「ああ。昔、トウキョウの方でちょっとね」




 ヒンメルの問いに、ジャンが頷く。




「ちょっとどころの話とちゃいますわ。新宿の道端でぶっ倒れたあの時、にいちゃんがおらんかったらワイは今頃三途の川の向こう側でっせ」




 どうやら、ジャンはヒンメルたちの世界だけでは飽き足らず、異世界の人間まで助けていたらしい。




「なんや。堂島はんのお知り合いでおますか?」




「せやねん。女将。このにいちゃんはワイの命の恩人ですねん。ワイが責任持つんで、今回の御座敷にこの人たちを呼んでも構いまへんか? あの時はろくに礼もできひんかったから、せっかくの機会やし恩を返しておきたいねん」




「もちろんどす。堂島はんのお客人どしたら、うちらにとってもお客人ですよってに」




 女将は態度を急変させ、笑顔でジャンたちを迎え入れる。




 こうして、ヒンメルはジャンと一緒にお座敷とやらに参加することになったのだった。


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