鬼畜

松長良樹

鬼畜


 貞治さんは私の大切な友人だったはずなのに、結果的に貞治さんが死んでしまって、あの独特の照れたような笑いが、二度と見られなくなったのは悲しいが事実だ。

 元々貞治さんは心臓が悪くて、時々発作みたいのを起こして胸ポケットからニトログリセリン錠を出して服用していたのを私は知っていた。


  ◇  ◇


 私が貞治さんと初めて会ったのは囲碁クラブだった。

 それまであまり囲碁を知らなかった私はある時エドガー・アラン・ポーの「モルグ街の殺人」をひょんな事から読んで、小説も面白かったが、その冒頭の部分に将棋やチェスは注意力こそが大切だが、碁はそれ以上の分析力まで必要とする最高位の盤ゲームであると、作中の人物に断言させているのを読んでとても興味を惹かれた。


 そう言えば亡き祖父が友人と碁をやっている風景が私の記憶にある。家には昔、碁の本が沢山あったのだが、碁にはあまり興味のない母がみんな処分してしまった。

 何でもすぐにやってみたくなる私は、その時一から碁をやってみたいと思い立って、すぐにカルチャーセンターの囲碁クラブに入会した。あれは大学を出たのはいいが、中々就職が決まらなかった頃の事だ。


 そのクラブで最初に話したのが、他ならぬ木村貞治さんだった。貞治さんは四十絡みの、額の広い聡明そうな紳士で、殆んど碁を知らない私に呆れていたが「このクラブは碁が好きで、碁の出来る人達が集まるところなのだよ」と言いながらも独特の笑いを浮かべながら、とても暖かく私を迎えてくれた。

 そして親切に碁の手ほどきまでしてくれた。だから私はすぐに囲碁の面白さを知る事となり、すっかり囲碁が好きになってしまった。

 貞治さんと私とはとても馬が合い、碁だけにとどまらず時事談義や、小説や、映画や、競馬までにも話が及び、とても楽しい時を過ごすことが出来た。

 あるとき貞治さんは私と碁をやっていて接戦の末、私が負けた時にこう言った。


「君は筋がいいな。いやまったくいい。小学生あたりから君が碁をやっていたら、もしかして一角のものになったかもしれないね」


 私はその言葉が貞治さんの本心から出たのかを少し疑ったが、囲碁クラブで敵がいない貞治さんにそう言われたのだから、まんざら悪い気がしなかった。

 あの時も貞治さんは独特の笑顔をしていて、負けて悔しい気持ちを私は少しも感じなかった。

 そのまま何事もなく時が過ぎたのなら、歳こそ違うものの私は今だって貞治さんと良き友人でいたに違いないのだ。


 それがそうならなかった原因のすべてが貞治さんの奥さんにある。






 貞治さんはある時「家に飯でも食いに来いよ」と私を家に誘ってくれた。嬉しかったけれど最初私はなんとなく遠慮していた。

 でも、ある週末に夕飯をご馳走になった事があって、そこで私は初めて奥さんのアヤさんと会った。あの時の感激を私は今でも忘れられない。


 アヤさんは凄く美しい女性だったので、私はすっかり緊張しまくって、何をしゃべったのか、呂律さえまわっていなかった。

 ぞっとするほどの白いうなじ、しっとりと濡れた唇。それに妖しい情的な視線。アヤさんは今までに私が一度も出会ったことのない女性だった。


 そんな風に感じてしまっている自分の事を、貞治さんに気取られてはいけないと思い、私は無表情をつくろっていたが、そんな私を知ってか知らずか、まったく貞治さんは朗らかだったのを憶えている。


 それからというもの私は、毎週のように貞治さんの家にお邪魔して碁を打ったが、それは碁よりも、奥さん会いたさだった事には間違いがない。

 でもアヤさんは少しおかしな女性なのだった。歳は私よりもひとつ上で、再婚であったが子がなく、何かこう情念を持て余しているような感じがした。


 例えば貞治さんがトイレに立った時など、アヤさんはすかさず傍に来て、その熱い吐息を私の頬に吐きかけたりして、私が困るのを楽しむようだった。

 それまで奥手でほとんど彼女らしいものが出来たことのない私は、抗い難あらがいがたい情念に胸が高鳴るのを止めようもなかった。

 罪の意識に苛まれながらも私は、アヤさんに魅入られ、夢中になって行く自分をどうする事もできなかった。あの時の私は情欲の奴隷になりさがっていたのだろう。


 そんな折りにアヤさんから貞治さんが出張に行ったから、二人だけで逢いたいと言うメールが来た。これはもうアヤさんの誘いかも知れない。私は高鳴る胸を抑えるようにしてそう思った。


 初めて二人で逢ったのは駅近くの居酒屋だった。アヤさんは本当に綺麗で艶めかしかった。私は強くもない酒を飲み、焼き魚を食べたのを憶えている。

 そして私とアヤさんはろくな会話もないままホテルに入った。あの時の二人はもう動物に近かったように思える。


 ところが濃厚なキスをして事が始まろうとする矢先、アヤさんはその肌を惜しげもなく露わにしながら、涙をためて驚くべき事を私に告げるのだった。


「――トシヤさん。わたしは貞治が恐ろしい。だってあの人は異常者なのよ」



 私はその言葉に時間が止まったような妙な感覚を憶えた。


「わたしの体はほら、このとおり……」


 私は最初その言葉の意味を察しかねたが、アヤさんの裸体を眺めて背中に痛々しい青痣を見た途端に、貞治さんが酷いサドであることを知った。


 よく見るとアヤさんの首筋には紫色の、まるで蛇にでもまかれたような痕が歴然と残っていた。とても信じられないような惨い出来事だった。


「ねえ、トシヤさん。わたしをどうか助けてちょうだい。あの人から自由にしてほしいの。あの人はわたしの首を毎晩締め上げて、悦に浸っているのよ。あの人が怖いの。今にきっとわたしは殺される。どうか助けてください……」


 はらはらと泣き腫らすアヤさんを見て私は衝撃を受け、アヤさんがとても哀れになった。そして夢中でアヤさんを抱き締めたが、その晩から私の中に貞治さんに対する、憎悪が沸々と湧き上がってきて、それは私自信でもどうにも抑えることが出来ない恐ろしい感情なのだった。


 それから貞治さんの重度の狭心症は悪化する一方だったし、入院することもあった。でも、これと言った良い手立ての浮かばない私は、いつの間にか貞治さんの死を密かに願わずにはいられなくなっていた。


 ――そしてあの恐ろしい場面がやってきた。


 あれは囲碁クラブにめったに顔を出さなくなった貞治さんが、珍しくやってきて私と碁を打ってから一緒にそこまで帰ろうと、クラブのあるビルの長い階段を下りた時の事だ。

 いきなり貞治さんが「痛い! 痛い! 苦しい!」と叫んで苦しみだして、その場に腹ばいに倒れてしまった。顔は蒼白で幽鬼のように見えた。傍にいた私は慌てたけれど、貞治さんは小声で「ああいけない。うっかりバッグを忘れてきた。悪いが急いで戻ってバッグをとってきてくれ、薬がバッグの中に……」と胸を掻き毟りながら訴えたのだ。


 私はその時すぐにクラブに駆け戻ったのだが、悪魔が囁いたのだろう、私はバッグも持たないまま裏口から外に飛び出して走った。考えてみるとそういう機会を私は悪魔みたいに狙っていたのかもしれない。


 私はあの時、酷い発作に襲われた貞治さんに薬を飲まさないでいたら、このまま死ぬに違いないと思った。

 けれども貞治さんを見捨てた恐怖もまた尋常ではなかった。もし逆に貞治さんが回復していたら、私をどういう人間だと思うのだろうか? 私は犬畜生にも劣る鬼畜に違いない。


 でも現実は惨いもので貞治さんは死んだ。でも私はあの時のいきさつを、おくびにも出さず、返って驚き悲しむ演技をしてのけたのだった。


 そして翌年には、私はアヤさんと一緒になった。


 私とアヤさんの幸せな生活は一年ぐらい続いたのだが、この頃になってアヤは夜毎に酒を飲んで帰宅するようになった。それもどうやらアヤは他に男をつくっているらしかった。生まれつき勘の鋭い私にはそれがすぐにわかった。とても変わってしまった美しいアヤ。


 私にはそれがとても悲しかったし、嫉妬に胸を焦がした。


 ある晩、私はどうにも我慢がならなくなって、酒に酔い潰れて帰ってきたアヤの頬に平手打ちを食らわせた。


 するとアヤは気が違ったみたいに激情してこう言うのだった。


「よくもまあ、わたしに手をあげられたものだね! 貞治の財産と保険金でこんないい暮らしができてるってのに、わたしのやることが気に喰わないなら、この家から出ていけばいいじゃないか。このぼんくら!」


 私は最初その言葉に打ちのめされたが、やがて怒りが沸々と沸き上がった。


「な、なにをー」


 私は頭の中がかっと熱くなっていた。しかし酒のせいかアヤは驚くべきことを告げるのだった。


「このうすのろ! だいたいあんたが貞治を殺すように仕向けたのに、あんたは何もできなかったじゃないか! だからわたしが薬を替えておいたんだよ。そうでもしなかったらあんたは今だって職なしの風来坊のままだったわね」


 私はあの時の冷水を浴びせられたような驚きを、憎悪を生涯忘れられない。


「く、薬を替えたとはどういう意味だ、アヤ!」


 私はアヤの両肩に手をかけて激しく揺すぶっていた。アヤは私の平手打ちで唇から血を流しながらも、うそぶくように続けるのだった。


「あのとき貞治は心臓病が悪化していて、外出さえままならないのに、あんたに逢いたいといって囲碁クラブに行ったんだ。わたしは、いいチャンスだと思ったね。それで発作でもおこってくれればいいと思って、薬をただの胃腸薬とすり替えておいたんだ。そしたら、ははははははっ、どんぴしゃりと死んでくれたわ」


「アヤ! おまえ!」


 私はもう我を忘れて震えていたに違いないのだ。


「だいたいが、わたしの体の絵の具で描いた痣を見て本気にしていた、あんたって人は大馬鹿だよ。てっきり貞治を殺してくれるかと思って期待したのが甘かったかもしれないけど。あははははっ! もともとわたしはあんたなんかこれっぽっちも好きじゃないんだ。わかったか!」


 その時の救いようのない落胆と激怒は、充分に私を私でないものに変えていた。


 胸の中に渦巻き、たぎる衝動! 私はなかば無意識にアヤの首を締め上げていた。


    ◇  ◇


 

 貞治さんは私の大切な友人だったはずなのに、今はもう貞治さんが死んでしまって、あの独特の照れたような笑いが、二度と見られないのはとても悲しい。


 そして私は今でも鉄格子の中で、貞治さんのあの優しい笑顔を時々思い出す。





                 了

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鬼畜 松長良樹 @yoshiki2020

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