第11話 涓滴は刃の如く

 靄は振り子が仕舞われている扉から溢れて来た。私はそれを無視して、上段の文字盤を押さえる。鞄の中から、持って来ていたプラスドライバーを取り出す。


「ああああ、ああ。家族ではない、家族ではない」


 靄が体を包む。まだ排出量が足りていないのか、垂れて落ちた物は足元に纏わりつく程度だ。時間が経てば経つ程、靄の量は増え、昨日の様に意識を、いや、今度は命を奪われるかも知れない。


「やめろ、やめろ、壊れてしまう……壊れて……」


 緊張故か、あの視線のせいか、何か大きく重たい物を背負っている様だった。視界も狭まっている様な気もしてくる。


 迅速に的確に。三つの螺子を取り外し、針に手を掛けた。震える手で長針、短針を外し、秒針も外す。


 その間にも、靄は床へとどんどんと溢れ出して、先程よりも勢いづいている様に見えた。和室一帯を埋め尽くし、腰まで達しようとしている。靄の一部が私の腕を拘束しようと纏わり付き始めた。私は文字盤を取り外したいのだが、それに邪魔されて盤に手を掛けられない。


 掴まれた腕を捻られ、靄の重さで私は体重を崩した。倒れ込んだ衝撃で、周りの靄が飛び散る。足元で何かを蹴飛ばした。床に倒れ込んだ私を、夥しい靄が包み込もうとしている。


 起き上がろうにも、足に絡まる靄が重くてなかなか体勢を戻せない。このまま顔の方まで覆われてしまったら、私も新しい家族になってしまうかも分からない。


 ふと目の前に転がって来たのは手鍋だった。


「浪々!鍋をどうしろって!」


 その時、奇妙な物を見た。空っぽの鍋の底から、澄んだ水が湧き出し、その水は段々と人の形へと変化していく。肩幅は狭く、縦にはそれなりに長く。足には鱗と鰭と。


「浪々」


 透明な水に色がつくと、完全に浪々本人だった。青いシャツワンピースを着ていて、ズボンは履いておらず、裸足だった。曇った刃の様な目は一瞬時計を見たが、直ぐにこちらを見た。


 浪々は靄に塗れる私を見て、困った様な顔をした。


「どうしたらいい?」

「この靄を追い払えるか?」

「出来るよ、えい!」


 浪々が鍋の中の水を掬って、そのまま靄へと打ちつける様に投げ掛けた。手の内にあった水が飛び散る。それを避ける様に靄も引いて行った。


 何故かカラカラと音を立てて、近くに落ちたそれを見ると、飛び散った水と思った物は、折れた刃の鋒の様になっていた。一つ掴んでみるが、ちゃんと硬さも重さもある。刃紋も入っている。決して水ではない。浪々の目を見た。鈍色だ。


 その一度の振りで多くの靄は飛び散り、私はもう一度立ち上がる事が出来た。


「おなべ、便利?」

「とってもね!浪々、頼みがある。私があの時計を解体するまで、あの靄を抑えておいてくれないか」

「いいよ、おともだち。任せといて」


 不意に耳に滑り込んだ言葉に、私は場にそぐわない満面の笑みを浮かべたろう。


 浪々は今度は手で掬わず、軽く手を挙げた。すると、鍋の中の尽きない水が、重力を無視して空中へと浮かび上がる。それらは小さな球体になると、周囲の靄に向かって放たれた。


「やめろ!壊れてしまう、止まってしまう!また、捨てられてしまう!」


 私は時計の前に立つ。文字盤を掴み、慎重に引き抜く。引き抜いたそれは傍に立て掛けておく。


 浪々の飛沫は刃となって、靄を引き裂いている。


 文字盤の奥の空間には、針を回す為の歯車で組まれた機械があるだけの筈だった。しかし、今そこには、先程からこの家を覆う物と同じ質感の肉塊が巣食っていた。きっと、此処にあるのが、核なのだろう。


「死にたくない、あの子達を守りたい」

「つかまえて外に出さないことは愛ではないと、冷たく昏き御子もいってたよ」


 その一際精巧な悍ましい肉には札が貼られていた。五芒星ともダビデの星とも違う。子供の落書きの様な歪な星が、その札に筆で書かれていた。


 私は先程拾った浪々の刃で、札ごと深々と突き刺した。


「あぁあああああああ、ああ、止まる、止まる、私の夢、私の願い……」


 絶叫の様な悲鳴の様な、安堵している様な、穏やかな声だった。


「もう一度動けたのに。家族を助けられる様に。ああ、家族を増やそうか。家族を呪おうか。否々、否々、。そうだ、そう、そうだ……。そうだった……。私は唯、あの子達を見守り、慈しみ、そして、いつかは自立して去って行く事も、新しい家族の元に私が迎えられる事も、道端に捨て置かれる事さえも、その。そんな機能はなかった筈なのに……」


 時計は、いや、時計に宿る形容し難い者は沈黙した。家の中に張り巡らせられた肉と血管が、ポロポロと崩れ、元の壁の色が見える場所が現れ始めた。直に元の家の状態に戻るだろう。


 時計の中にあった肉塊も消滅する。折れた刃と札だけが残る。私はその札を掴んで、びりびりに破いて捨てた。


 浪々は自分の出番が終わったと思ったのか、下半身を液体にして鍋に浸かっていた。そのせいか、周囲に落ちている刃が、水に戻り、畳を濡らしていた。時計に刺した物も、形を失い、重量に従うままになっている。


「私はとんでもない事をした。家族を殺してしまう所だった。いや、もう散々苦しめた。私は、私は」


 形容し難い者は、埋め込まれた部品である札を破いたからか、混乱はしているが理性を取り戻している様に見えた。自分がした事も、全て覚えているのだろう。


 私は引っ張られて痛めた左手を少し庇いながら、時計の下で丸まる靄の側に座った。靄は少しずつ霧散しており、時間が経てばきっと全てが消えてしまうだろう。今は刺す様な視線も、謎の足音もない。


「貴方に名前はありますか?」


 突然口をついて出た。


「ないのなら、差し上げましょうか」


 靄がモゴモゴと動く。


「名はない、だが、これ程に罪を重ねた私だから、このまま消滅するのが良いだろう」

「いいえ、貴方が想うべき家族がいます」

「それは……違う。私が向けるべきものではない。それに今の私は残り滓で、何も出来ないだろう」

「時計と貴方は一体化した。だけど、違う。本来は別々の物であった筈。貴方は時計に宿った形容し難い者であって、時計そのものでも、付喪神でもないのです」

「……嗚呼、なるほど。私に部品になれと言うんだね」

「そうです」

「そうか、そう言う手があったのだな。気付かなかった」


 形容し難い者は自嘲気味に笑って言った。百年生きて全くそんな簡単な事が思い付かないなんてと。


 私は笑う気になれなかった。その笑い声は悲しみを覆い隠す為のものだと分かっていたからだ。


「そうだね。名前をつけて欲しい。いつまでも、彼等を見守れる様な、いいや、贅沢は言わないとも。何でもいいさ」

「そうですね……では」


 自分で言い出しておきながら、私は丸っ切り思い付いていなかった。時、刻む、見守る、家族。出すワードとしてはここら辺りだろうか。


 あまり人に近い名前を付けても障りがあるかも知れないし、かと言って奇抜な名前も嫌だろう。一生使って行く名前だ。責任重大な仕事である。


刻陶こくとう!」


 私の悩みを吹き飛ばす様な声量で、部屋の隅っこにいた浪々が叫ぶ。恐らく叫んだ音は、時計の形容し難い者の名前なのだろう。


「ときを刻んで、こころもひとも自分に刻み込むんだよ」

「それは良い名です。頂いてよろしいので?」

「いいよ」

「ありがとう。嗚呼これが、名を得るという事か」


 靄だった彼の姿が変わっていく。靄が集まり、人型になる。そこから現れたのは、初老の紳士だった。背筋は真っ直ぐと伸び、その眼差しは慈愛に満ちている。


 着ている服は、古いスーツだった。頭にはハット、手には杖があった。目元には丸い眼鏡が掛けられていて、まるで大正時代から抜け出して来た様な姿をしていた。


 しかし、その体には歪なつぎはぎが至る所に入っていた。恐らく、鵺が解体した為だろう。


 刻陶さんは暫し、自分の手を見ていた。指を開いたり閉じたりを繰り返し、それが終わると、足の関節の可動域を調べていた。しかし、一連の動きを我々が見ている事に気付くと、居住まいを正した。


「失礼。人型になれたのは初めてでしたので、つい、はしゃいでしまい」

「いえ。私もきっと同じ事をしたでしょう」

「直ぐに部品の形になるから、動かし方を覚えても無駄なのに」

「そんな事はありません。きっと、今動かしてみせた事は、貴方にとって良い経験になると思います」

「ありがとう。貴方は優しいのだね」


 刻陶さんは笑顔を浮かべたが、ぎこちなく、お世辞にも上手とは言えなかった。だが、賀田さんや絵里さんの面影を私は見た。勿論、錯覚なのだろう。


 その眼差しには、何代もの人々を慈しんできた深く優しい色が湛えられていた。私は彼がこれから誰かに邪魔される事なく、時計として生きていけたらいいと思えた。


 だが、そうなる前に私は彼に問わなければならない。


「刻陶さん、賀田さんが亡くなった理由をご存知ですか?」


 刻陶さんは、一瞬驚いた後、表情を暗くした。この人の中には、誰かを呪い、誰かを部品にした記憶がちゃんと残っているのだ。しかし、賀田さんの死については初めて知った様子だった。


「彼は……とても苦しんでいた。苦しめていたのは私だ。彼は私の呪いに抗い続けていた。妹が呪いを受け入れても、彼だけは抗い続けていたんだ。私に分かるのはここまでだ。すまない、家より外で起きた事は分からないんだ」

「いえ、教えてくれてありがとうございます」

「いいや、彼を殺したのはお前だ。無食透」


 物悲しい声のする方へ目を向ける。その人は丁度リビングに入って来た所だった。


 美しい人だった。


 宵闇の様な薄藍色の髪に、鮮やかな金星の様な金色の瞳、着ている服は真っ白なワンピースだ。人懐っこい笑みが浮かべていたが、その口からは、棘が出る事を私は知っていた。そして、白い手の爪は獣の様に長く尖っている事も。


「鵺!」

「漸く認識してくれたんだね、嬉しいよ。昔のお前は、むかつく事に僕の事なんか全然見やしなかったんだから」

「昔だと?」


 私の問いに彼は意地悪な笑みで返した。彼は以前と同じく、ずっと魅力的な笑みを貼り付けていたが、唐突に真顔に戻った。


「覚えてない。いいさ、そんなの。僕が欲しいのは、お前じゃないのだから」


 そして、次の瞬間にはまた、あの笑みを浮かべている。私はその落差に恐怖を感じた。


 彼の言葉を間に受けてはならない、人の心を傷付けるだけの、人を戸惑わせるだけの言葉だ。私は上がってきた心拍数を下げようと、自分の頭を空にした。


 そんな私を、星の様な目がずっと見ていた。


「お前が彼をどうやって殺したのか、教えてあげようか。殺した本人に説明するのは初めてだから、やってみたい」

「どうせ嘘なのだろう」

「でも、聞きたいんだろう?」


 私は即座に返答が出来なかった。ずっと知りたい答えだ。例え嘘でも、何でもいいから答えが欲しかった。これは、きっと鵺の掌の上だ。ホームで会い、そっと差し込まれた棘。その棘が、彼の言葉を欲している。


「僕は優しいから、教えてあげよう。あれはね、お前と話したから、死んだんだ。話す前のあいつは、とってもギリギリだったんだよ。時計からの呪い、いや、愛だったね。自分を擦り減らしながら、それに耐えていた。妹の様に折れてしまえばいっそ楽だったろうに、馬鹿みたいに耐えて耐えて耐え続けていた。ほんの少し力を緩めれば、直ぐに潰れちゃうくらいにね」


 彼はリビングの右と左を行ったり来たりしていた。時折、自分の髪を指で絡めて遊んだり、キッチンの引き出しを出し入れしていた。その落ち着きのなさは、私の心象のせいか、演技の様に感じられた。


「そこにお前が現れた」


 彼が私を指差す。


「私が何をしたって」

「話をしただろう?」

「話はしましたけど、そんな死ぬ話なんて」

「彼はお前と楽しくお喋りをして、力が抜けた。気が緩んだ。愛に耐え切れなくなった。でも、そこは家の中じゃなかったから大丈夫だった。だが、いつかは戻らなくてはならない」


 彼が和室へと近付く。ひたり、ひたりと音を立てる足は素足だった。


「呪いに屈したくない、妹を守りたいと思い、ずっと耐え続けて来た彼に、逃げ道はあったろうか?気の休まる時はあったろうか?いや、ない。皆無だ。続く苦しみの中、遠くにでも行きたいとずっと思っていただろうさ。そんな、絶望していた彼に訪れたのは、束の間の楽しい時間、残ったのは、ほんの僅かな余力だ」


 いや、それは。駄目だ。駄目だ。


「魔がさしたと言うのかな。お前と話して抜けた力、余力を使って、何もかもから逃げ出す為に、あの家に戻らなくて済む様にする為に、彼は死んだ。そうするにはあのタイミングしかなかった。まったく!絶望したままなら、飛び込む気力も湧かなかったのに。お前が希望なんて見せるからさ。ほら、お前のせいだったろう?」


 言葉が出ない。


 耳元に心臓が移動したのかと思う程、自分の心音が五月蝿い。どくんどくんと速度を上げている。脈の速さ故にか、耳の先から熱を帯びて行く。


 それと同時に手足の感覚が遠のき、背筋が冷え始める。ピリピリとした触感が肌を撫でる。努めて、ゆっくり呼吸をするが、治りそうになかった。


 そんな私を見て、鵺は笑っていた。ケラケラと無邪気に、魅力的に笑っていた。


「鵺よ、それは違う」


 毅然とした声。刻陶さんだ。


 横を見ると、つい先程人になったとは思えない程に貫禄のある佇まいの彼が、真っ直ぐ射抜く様に鵺を見ていた。その瞳の奥にあるのは、怒りだ。真っ赤な活火山ではない、何もかもを破壊し尽くす羅刹でもない。静かにじりじりと焦げさせる、青い炎の如き怒りだ。


「彼が死んだのは、呪いから逃れる為。彼は強いからこそ、辛い道を行き、耐え切れずに死んでいった。そうさせたのは、私だ。そして、お前だ。罪は私達にある。此処にいる彼のせい等ではない。履き違えるな」


 彼は怒っているが、その怒りの全てを鵺にぶつけている訳ではない。自分自身にも怒っているのだ。大切な人を自ら殺してしまった自責の念と後悔とが渦巻いて、この人を縛り上げている。それは、他人が解く事の出来ない、一生共にある鎖だ。


「つまらない事を」


 鵺が頬を引っ掻きながら、呟く様に言った。彼の中に、怒りはない。言葉通り、刻陶さんの発言をつまらないと思っているのだろう。彼は、私を貶めたいのだ。私を傷付けたいのだ。だから、庇う刻陶さんが邪魔でつまらないのだ。


「……いいさ。どうせこうするつもりだった。最初からこうすれば良かった。……浪々、お前は見ているだけだね?」

「ぼくはきみに敵わない」

「浪々、どう言う事?」

「ごめん、とめられない」


 ちゃぽんという音を立てて、浪々は鍋の中に収まってしまった。


 次の瞬間に、鵺の顔が崩れた。いや、顔だけでなく体も内巻きに捩れて、凝縮していった。それはピンポン玉程のサイズまで小さくなると、動きを止めた。空中で静止している、先程まで鵺だった物は、まるで夜空に輝く星の様に金色に光っていて、ある種の神々しさすら感じた。


 刻陶さんが私の盾になる様に、前に立つ。空中に浮かぶ、謎の金色の玉を警戒している。


 ふっと、風が顔に吹き付けた。


 いつの間にか、目の前に玉が迫っていて、そして、それは驚いて大きく開けた私の口の中へと、吸い込まれる様に入って行った。刻陶さんがこちらを振り返る。


「ムジキさん!」

「無食さん!」


 白いスーツを着た遊直さんと、冬野君が、私の名前を叫びながら、慌てた様子でこちらに駆け寄って来る。きっと状況が悪いと判断して、彼が特補に連絡してくれたのだ。もしかしたら、もう一時間以上経っているのかも知れない。


 ゆらりと倒れそうになる私を刻陶さんが受け止めて、ゆっくりと安全に床に横たわらせた。


 体が熱い。自分の中に、自分の預かり知らない何かがいる。それは、何をするでもなくそこにいるだけだが、私の体は強い拒否反応を起こしていた。覚えはないが、アレルギー反応とは、こう言う感じなのだろうか。


 視界も思考もぼんやりと霞がかった様にはっきりしない。熱に魘される時を思い出した。だが、それは体験に基づく記憶ではなく、知識によって導き出された、この状況に似ているだけの物だった。


「冠水の町に繋げて!ムジキさんを藪の園へ運ぶ」

「分かった、今繋げる」


 冬野君が手を前に出し、何かをしている。彼は、形容し難い者を見る事も出来ず、冠水の町にも行った事がない筈なのに、何故行き方を知っているのだろう。


「無食さん、意識を強く持って。眠ってはいけない」

「ムジキさん!目を閉じないで!」


 刻陶さんと遊直さんがそう呼び掛けてくれたのに、私はその甲斐もなく、間もなく意識を失った。





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