第10話 依頼と約束

「問うなら答え、求めるなら応じましょう。それが思し召しならば」


 吐息の様に呟くおまじない。


 先代の所長が唱えていたと言う。私がこの事務所にやって来た時、既に彼はおらず、仕事内容について書かれた書類に、仕事前に必ず唱えるとだけ書いてあった。だから、私はこの言葉の意味する所を知らない。だが、何となく力を貰える。


 自分でも驚く程に、それは口に慣れ親しんでいた。遠い昔に、誰かがそう唱えていたのを、真似していた様な、そんな気さえもしてくる。


 私は過去の記憶を持たない。何故に失われたのかすら定かではなく、失う以前に恐らくあったであろう人の繋がりも断絶し、こうして一人でいる。誰の導きで、この探偵事務所に勤め始めたのかも思い出せない。私の記憶がはっきりしてるのはここ三年程で、丁度それは探偵事務所にやって来た後の事だ。事故や何かだったのだろうか。


 形容し難い者に関する知識も、先代の書類から得たものが殆どだ。それは、まるで次の所長がまるきりの初心者である事を前提としている様な、痒い所まで具に届く書き方をされていた。


 冬野君に訊けば、もう少し当時の事が分かるかもしれない。だが、訊いた事はない。私は己の記憶に頓着がなかった。


 人格が記憶に基づくものであるとするならば、私の今の状態は土台が消えてしまった様なもので、不安定になったり、恐怖を覚えたり、それを解消する為に思い出そうと努めるだろう。しかし、そう言った衝動も、不安もない。他人に依存するつもりも、過去への探求を試みようという気もない。寧ろ、そういった状態である方が、不安定で異常であるのかも分からない。当人にとって何の問題もないとしても。


 だが、それでもこの言葉は私の一つの拠り所になっている。封じられた本を繙く鍵であり、霧中に差し込む光になり得る、不思議な呪文。その正体がプラシーボか錯覚だろうとしても、何もないよりは、そう断じてしまうよりは、まだ支えになる。


 無自覚に追い求めているのだろうか。


 私は暗幕の向こうの過去から目を逸らし、机の上に並べられた荷物を見ていた。


 スマートフォン、財布、鍵、防塵マスク、その他。必要最低限の物だけを鞄の中に入れて行く。浪々から借りた鍋は鞄には入らないので、別に紙袋に入れた。


 結局、この鍋が何の為に必要で、どう使うのかは分かっていない。しかし、浪々が渡したと言う事は、何かしらの意味があり、使うタイミングがある筈だ。それは、今までの経験則から分かる。


「無食さん、準備出来ました?」


 冬野君が机の上に置いたリュックサックの口を閉じながら、私に訊いてきた。私は「大体は。」と返した。実は、本当に必要な準備はまだ済んでいない。


 これから、時計に住み着いた形容し難い者の部品を外しに行くのだ。


「必要そうな物は集めておきましたけど、他に何かお手伝い出来る事はありますか?」

「充分だよ。失敗する気が起きないくらい」

「そうやって言う時が一番怪しいんですよね」


 冬野君が溜息を吐く。


「……僕は無食さんが心配なんですよ。怪我しないか、嫌な目に遭ってないか。僕は何も出来ません。事件が終わってから、そうなっている貴方を見るばかりです」

「そうだね。私は失敗ばかりだ。いつも後始末ばかりやって貰ってすまない。でも、本当に助かってるんだ」

「そう言う事じゃないんですよ?でも、今はそれでいいです」


 冬野君は何処となく上機嫌だった。


 私はその理由を窺い知る事は出来なかった。だが、上機嫌であるなら、特に問題もなかろう。


 此度の作戦は非常に簡潔なものである。まず、時計に近付き、その中にある鵺によって埋め込まれた部品を取り除く。それだけだ。


 実行するのは私で、冬野君はもしもの時に備えて、家の外に待機して貰う。形容し難い者が見えない以上、中に入っても、危険なだけだからだ。私が家に入って一時間経っても戻らなかったら、特補の遊直さんに連絡するよう伝えてある。


 恐らく途中で邪魔が入るだろう。防御機構は家族のみならず、自身の生命が脅かされれば、自動的に作動する。


 形容し難い者にとって、与えられた部品は、自分にクラッジを引き起こさせる物ではあるが、同時に自分を動かす為には必要不可欠な部品だ。だから、それを取り除かんとすれば、抵抗される可能性が高いのだ。


 その抵抗が形として現れるとするなら、それは靄の形をしていよう。


 私は、鵺の発言や夢で見た光景から、あの靄は形容し難い者であり、そして、彼の抵抗と悲鳴だと考えている。


 鵺からの呪詛に近い部品によって、揺さぶられ続ける理性を保ち続ける為に、あの靄は溢れるのだ。鵺の仕組んだシステムから逃れようと、散り散りになりそうな自我を集めて、抵抗としているのだ。


 そして、噛み合わない歯車を無理矢理回し続ける、悲鳴だ。自分ではもうどうにも出来ないシステム運営の負荷が掛かり過ぎて、絞りあげられた出涸らしの様な、なけなしの自我が出した悲鳴でもあるのだ。陰惨な追加システムから離れられなくとも、せめて自我を失いたくない、せめて家族を守りたいという、名もなき悲鳴である。


 だからこそ、己の生命線である部品の除去に抵抗する。それを失えば、システムは止まり、あの時計は何も害さなくなる代わりに、何も守れなくなる。唯の壊れた時計になり、一体化していた形容し難い者も死んでしまうだろう。動き続ける事、時を刻み続ける事、それは彼にとって一度は諦めた望みだ。


 残る自我は僅かだ。だから、例え、システムが十全に機能していなくても、一つの生物の本能として彼は生命保持という最優先事項を全力で機能させるだろう。いざと言う時、誰だって理性よりも本能が前に出るものだ。


 彼は自分が生きる為に、私達を攻撃するのだ。


 そちらに掛かりっきりであれば、家族を呪う事も、増やす事からも、一時的に手を引くかも知れない。それならば、絵里さんを始めとする家族達への危機も一旦止まるから、私も周りを気にする必要もなくなる。


 ただ、靄を掻い潜り、部品を切除する。それだけに集中すれば良さそうだ。


 それでも、腑に落ちない事がある。賀田さんの件だ。


 時計の過去を見、この事件の構造を考えた。だが、そこに彼の死を解く材料はない。もし、呪いが彼を殺したとしても、効力の及ぶ範囲は家の中に収まるものだから、死体は家の中に残る筈だ。緩やかに弱らせて、死に至らせた後に魂を捕らえる呪いに、自殺を促す効果はない。


 まだ、何かのパーツが足りていないのか。


 本当に必要な準備とはそこだ。不安が残っていると、覚悟を決められない私の弱さだ。


 気分を変えようと、私は昨日買ったカレーパンを齧った。程良い辛さだ。一日経ったので、サクサク感は失われているが、濃い味付けと、大きめに切られたお肉の食感が美味しい。半分程食べると、茹で卵が出て来た。食感が変わり、辛さがマイルドになった。


 機会があれば、また買おう。


「それ美味しいですか?」

「うん、美味しい」

「良かった」


 まるで自分が美味しい物を食べてるかの様に、冬野君は嬉しそうに笑った。彼は人がご飯を食べる所を見るのが好きなのだろうか。しばしば、この様なやり取りを取り交わす。


 残りを口に全部放り込み、味わいながら嚥下する。それなりに満腹になり、思考が上向きになっていく。


 問いの答えは未だ靄の中だ。刺さった棘も抜けない。


 だが、このまま時計の形容し難い者や、賀田さんが守りたかった者を苦しませ続ける事は出来ない。


 時計の呪いを解く。


 彼の依頼を果たしに行こう。約束を守りに行こう。きっと、今はそれしか出来ないから。


「よし。行こう、冬野君」

「はい!」


 元気な返事に、私は頬が緩んだ。唯、側にいてくれるだけで、こんなにも弱い自分を奮い立たせてくれる。この事件が終わったら、彼に労いの品でも用意しようと思った。







 事前に事件についての報告と、本日の作戦について連絡していたので、絵里さんは玄関先ですぐに私に鍵を渡してくれた。


「お体、大丈夫ですか?」

「本当に何ともないんですよ。恐らく、今回で片が付くと思います。終わりましたら、また、鍵をお返しに参ります」

「やっと、終わるのですね。ここからで恐縮ですが、ご無事に戻って来てくださるのをお待ちしてます」


 そう言って、絵里さんは深々と頭を下げた。


「お任せください」


 私も彼女に礼をした。頭を上げると、彼を想起させる様な、くしゃっとした印象の笑みを、絵里さんが浮かべていた。


 以前に比べて絵里さんは肌艶も良くなり、少しずつではあるが急激に減った体重も戻って来ているらしい。


 美月さんが私に依頼した内容は、母親を元に戻す事と、時計の家の謎を解く事。昨日、美月さんが言っていた、達成した半分の依頼とは、母親の事を指している。完全に戻ったとは言えないが、あの家に近付かなければ、悪化する事もないだろう。


「少し、緊張してきました」

「うん、私もだよ」


 時計の家へ向かいながら、ぽつりぽつりと語り合う。それは戻る家までの道筋を忘れない様に、目印代わりに言葉を地面に落としている様だった。意味のない言葉を交わして、思い出話をして、そうして、全てが終わったら、日常に戻る。家に戻れるのだ。


 そうしたら、まずはあのパン屋さんにもう一度行かなくては。今度は揚げたての、カリカリの状態で食べてみたい。


 三度目の来訪となった。時計の家。


 雑草が鬱蒼と茂り、前見た時よりも暗い印象を受ける。前の様な手入れがされていないと言うのもあるが、それにしても暗い。それは光の加減等ではなく、此処が昏い世界に近付いているからなのかも知れない。


 私は門扉に手を掛けた。手に掛けて引こうとして、やめた。


「無食さん、どうかしましたか?」

「冬野君。少し状況が変わったかも知れない」


 和室から溢れる澱みが、こんな所にまで流れて来ている。しかも、濃度が高い。この門より内に入ったら、泥の中を歩く様に足を引き抜きながら歩く必要がありそうだ。


 それにしても、昨日の段階ではここまでの澱みでなかった。短期間でここまでになる何かしらの変化が中で起きている。それを異常と言わずしてなんと言おうか。


「冬野君」

「はい」

「君は絵里さんの所に行きなさい」

「何故ですか。僕が行ったら、誰が此処で待っていたらいいんですか」

「とても状況が悪化している。もしかしたら、彼女達の方にも影響が届くかも知れない。彼女達の側にいて、いざと言う時は逃げ出して。そして、家に着いたら遊直さんに連絡をして欲しい」

「ちょっと、無食さん!」


 彼の静止を振り切り、私は門の内へと足を踏み入れた。目では何もなくても、足が重くて堪らない。転ばない様に一歩一歩と進む。


「私は、呪いを解かなければならない。これは約束だったんだよ。彼と最期の。君は佐原さん達の安全と、遊直さんへの連絡をお願いしたい!」


 息が切れ始める。ぬかるみを歩いてる感覚が一番近い。


 冬野君の「分かりました。」という言葉を背中越しに聞いた。足音がたったったと遠くなっていく。


 縋る様に玄関扉に手を突く。借りた鍵で開ける。僅かに空いた隙間に体を滑り込ませて、内側へと入る。


 効果があるかは不明だけど、ないよりはましでしょうと、冬野君が用意してくれた防塵マスクを取り付ける。今の所、酷い澱みはあるが、靄は見ない。


 靄が機能不全に陥った演算処理装置の、まだ動ける部分とするなら、あの澱みは恐らく、吐き出されたエラーログだ。解消されれば自然と消去されていく物であろうが、現在は負荷が掛かり過ぎて、最早処理が出来ず、垂れ流しになっている。増えれば増える程、本体の負担は大きくなっていくだろう。悪循環でしかない。


 部屋の中は澱みよりも、目で見て分かる異常がある。壁は肉壁となって広がり、血潮が脈打つ。どの壁も胃の中のように、つるりとしている。家が一つの生き物になろうとしている。此処は腹の中だ。


 捕らえられた霊魂の数が多過ぎたのだ。集めた霊魂全てを使って、この家ごと大きな生き物へと変じ様としている。道の通る此処で捕らえられる霊魂の多くは、悪霊ではない善良なものだろう。それを捻じ曲げ、肉へと加工して、作り上げようとしている。これではまるで魔窟だ。目に見えぬからと何も知らない人が入ったら、二度と出る事は出来ないだろう。


 彼にとっては家族を守る為の要塞なのだろう。その為に、彼から見た新しい家族がどれ程犠牲になった事か。


 私は左手の扉を開けた。床にも大きな細胞の塊が転がっており、床に根の様に広がる血管から栄養を貰い、脈打っていた。それは少しずつ大きくなっているのだろう。新しい家族を取り込むことによって。


 それを踏まぬ様にして、和室へと近付いた。間仕切りは床に倒され、その上にも血の根は張り巡らされている。だが、あの時計にも和室にも、悍ましい成長の痕跡は一つもなかった。ここだけが、汚されていなかった。


 私は座って、壁を見た。


 振り子が揺れている。


 私は規則正しく揺れるそれを眺めていた。


 それはカチコチと音を鳴らしながら動き続けている。壁に掛けられた茶色のその時計は、私の腕程の大きさの長方形だ。少し細かく言うと、指先から肩までの長さだ。


 上部に付けられたローマ数字表記の時計の盤には、長い針と短い針、そして、細い針が一見してちぐはぐに見える動きをしていた。下部には硝子が嵌められていて、中には私の前腕ぐらいの長さの金属の振り子が吊るされている。硝子は汚れで曇っているが、中の振り子はくすみもない綺麗な状態であろうと思われた。


 装飾は少なく、経年故にか木の色に深みがある。シンプルな造りだからこそ細部に至る職人の腕が光り、厳かな雰囲気を纏っていた。しかしながら、同時にやはり古びた印象も受ける。今にも動きを止めてしまいそうな、朽ちる寸前で足掻いている様な。


 実際、今も動き続けているのは奇跡的なのだろう。それは、人によって薄寒さを背筋に感じるかも知れない。


 時計があるのは和室である。


 古く色の変わった畳の上に私は胡座をかいていた。そして、壁に掛けられたその時計を見ていた。


 十年前に壊れて捨てたと言う時計だ。


 周りに家具はなく、伽藍としている。形見の品以外、お金になりそうな物は全て売ってしまったと賀田さんは言っていた。唯、この時計だけはどうしても売れないので残しているとも。


 家を売りに出す為に、定期的に掃除はしているそうで、年季は入っているが不潔さは感じない。だが、どこか居心地の悪さがあった。睨め付ける視線を受けている様な、不機嫌な人間の側にいる様な、そう言った不快さだ。


 彼は時計の呪いを解いて欲しいと、私に言った。


 時計に視線を戻す。


 振り子が揺れている。


 私は立ち上がった。


「貴方の部品を取り外します」


 靄が溢れ出て来た。

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