第 8 話 寂寥、呵責

 絵里さんの家から約十分程離れている、ご実家にやって来た。


 相変わらず、外から中は窺い知れない。が、一昨日よりも気配が濃くなっている気がした。近くを飛ぶ鴉も、この家を避けて飛んでいる。


 私は借りた鍵で玄関を開けた。中はこないだと同じく伽藍堂である。大凡の印象は前回の訪問と変わりがない。例の視線も相変わらずある。靴を脱いで、和室を目指した。


 リビングに着くと、間仕切りを閉め忘れていたらしく、和室の中も見えた。


「ようこそ、いらっしゃい」


 仄暗い底から湧いた様な声が私を出迎えた。宵闇の如き髪、星を映す瞳、肉を容易く引き裂けそうな尖った爪。


 駅のホームで出会った形容し難い者だった。彼は和室の真ん中に立って、薄く微笑みながら私を見ていた。


「君は」

「嗚呼、お前は誰だとか、何故居るんだとか、そう言うのはなしだ。あれをご覧よ」


 指差す先、時計の下に黒い靄が集まっていた。


 それはもやもやと漂う訳でも、何かを象る事もなく、ただただそこにあった。普通の和室に謎の黒い靄がある異様さはあれど、一昨日の夜とは違い、刺の様に皮膚を刺す感覚はなく、幾らか脅威のレベルが下がっている様に見えた。時計の振り子部分の扉は開いているが、靄が追加される様子もなかった。


 靄は横に佇む人から逃がれようとしている様にも見えた。


「あれは出涸らしの様な愛だよ。もう、そろそろ限界なのさ。だから、僕も見に来たのだけどね」

「君が何かしたのか」

「そうだよ。それがどうしたって言うのさ」

「駅でも何かしたのか?」

「それはお前の責だよ。僕に言われても困る」


 感情の読み取りづらい声でそう言うと、彼は和室を出て行く。私は彼の前を立ち塞ぐ。


「待て、君は何がしたいんだ」

「さっき、なしだって言ったばかりだろう。……まあ、答えとしては探し物だよ。後はそうだね、僕はお前のファンなのだよ。無事に事件が解決出来る事を楽しみにしているんだ」


 彼は私に魅力的に笑い掛けると、時計の下に視線を移した。


「しかし、そんな事よりも先に、あれをどうにかした方がいいんじゃないか?お前は時計の呪いを解きに来た筈だ。今ならまだ間に合うだろうよ」

「君が鵺か?」

「さてね」


 腕を掴もうとする私をひらりと避け、彼は構わずリビングから去って行った。


「それじゃあね、また会おう。そう遠くない内に」


 私はドクドクと早まる脈を感じながら、得体の知れない彼の背中を見ていた。裸足の足音が直ぐに聞こえなくなった。


 追い掛ければ、何か得られるものがあったかも知れない。だが、それ以上に、嘯くあの唇が、私に致命傷を与える様な予感がして、足が動かなかった。


 振り返ると、靄が和室にいる。私はそれとの接触を試みてみようという気になった。元より、私はその為に此処に来たのだ。私のすべき事は、時計の呪いを解く事だ。


 睨め付ける視線は攻撃的ではあるが、実際にこの靄が我々を害そうとする行動は見られなかった。我々を敵だと認識しているとしたら、一昨日の夜の時点で何かしらのアクションがあったろう。それが出来なかったのか、やらなかったのかは重要な違いではあるが、どちらにしろ接触は可能と見做せる。彼はこの形容し難い者の限界が近いと言っていた。真偽は不明で、リスクも高いが、試す価値は充分あるだろう。


「私は貴方に敵対する気はありません」


 唾を飲む。ゆっくりとはっきりと宣言すると、靄がこちらを見た気がした。目にあたる器官はないので、見ると言うよりは注意を向けると言った方が正しいだろうか。


「貴方の目的を知りたいだけです」

「あ、ああ、あ」


 耳に水が入った様なくぐもった声である。一度聞いたからか、そこまで驚きはなかった。


「家族を……捕らえよう……守る為に……」

「それがどうして家族を呪う事に繋がるのですか?」

「の、呪い、呪い……」

「捨てられた復讐なのですか?」


 靄は身を捩る様に形を変えていく。私は一歩、和室へと近付く。形容し難い者は、苦しんでいる様にも見えた。呪いという言葉が悪かっただろうか。彼にとってその行動は、家族を守る為のもので、他者を害すものという認識をしていないかも知れない。


 音が鳴った。鐘の如き、古く懐かしい音色だ。


「家族を捕らえよう。嗚呼、それは。否、否。あ、ああ、あ、千切れた、千切れた」

「貴方には、貴方以外の意思が混ぜられているのか」

「千々と、埋まった、あああ、ああ、あれはだ」

「鵺だって?」


 次の瞬間、靄が収束して小さくなったかと思うと、一気に膨れ上がり、私を飲み込んだ。咄嗟に息を止めたが、それは私の体を包み込み、腕で払おうとしても、空振るばかりだった。


 僅かな呼吸で、靄は私の肺の中に入っていく。ざらつく喉に私は咳き込む。その度に靄を吸ってしまう。次第に思考も視界もぼやけ、床へと倒れ込む。冷たいフローリングの触感さえも、最早感じられない。


 苦痛はなかった。唯、遠のく意識に手が届かぬ事が恐ろしかった。耳の奥であの鐘の音が反響している。


 視界が真っ暗闇になった頃には、私の思考は何処にもなかった。







 夢を見た。


 懐かしい夢だ。


 誰かの体を借り受けた様な感覚だ。着ぐるみを着ている様な。私の意識を内包するその容器は、私の意思では動かせない。


 私は何処か見覚えのあるリビングを見下ろしていた。体も視界も動かせない。定点カメラの様でもあった。思い出そうとしても、その部屋の記憶は私の中にはなかった。そもそも、私に昔の記憶はない。


 その部屋はそこまで広くなかった。中央に大きなダイニングテーブルに、四脚の椅子。奥には台所と冷蔵庫、食器棚。狭い空間に敷き詰められた家具は、雑多な印象と、懐かしさを感じさせた。


 右手には扉が二つあり、どちらも閉められていた。左手にも扉が一つあり、それは恐らく玄関へと通じる廊下と接続していた。


 子供が椅子に座っている。


 部屋の左側のテレビ台に置かれた、ブラウン管のテレビを見ている。何が放送されているかは、角度的に分からなかった。


 その子供はテレビを見ている様子だが、上の空で別の事を考えている様にも見えた。何かに腹を立てている。その目尻には泣いた跡と思われる白い線があった。


 その時、私の内側から音が鳴り響いた。鐘を突く様な、ゴーン、ゴーンという音だ。


 子供がはっとした様に私を見上げた。目を細めて、じっと見ている。音が鳴り終わる頃に、右手の扉の内の一つが開かれて、もう一人の子供が現れた。その二人はよく似た顔付きをしていて、姉妹であると思われた。


 私を見上げた幼い娘が、現れた年上の娘を見た。年上の娘が何かを言う。言い終わる前に泣き出してしまった。唇の形から、ごめんねと言った様に見えた。


 幼い娘もまた泣き出して、何かを言う。年上の娘はそんな幼い娘を抱き締める。年上の娘が出て来た部屋から、着物を着た女性が現れる。雰囲気から、この二人の母親だと思われた。


 母親は二人を見て笑顔を浮かべている。


 ここで漸く私は、この二人は喧嘩をして、今仲直りをしたのだと気付いた。それを見て、胸の内には名もなき温かな感情が湧いていた。だが、それは、私の物ではないと分かっていた。


 突然に暗転する。乱暴なぶつ切りである。


 私は和室にいた。真新しい畳の藺草の匂いが心地良い。


 二人の子供が部屋の中を走っていた。兄妹だろうか。仲睦まじそうである。


 段差に躓いた妹が、泣き始めた。膝に血等は出ていないが、痛みと衝撃に驚いたのだろう。


 兄は妹に駆け寄って、何かしらの言葉を掛けている。そして、膝に手を当てて、何かを口遊んだと思ったら、当てた手の中身を宙へ放った。勿論、掌の中には何も入っていない。だが、妹はそれを見て、納得をしたのか、涙を拭って立ち上がった。


 奥から夫婦が現れた。二人は泣き跡の残る妹を心配そうに見たが、すぐに笑顔を浮かべた彼女を見て、安心している様だった。


 父親は娘を抱き上げた。母親は兄の頭を撫でた。四人全員が内から咲き誇る様な、華やかな笑みを湛えていた。


 私の内側からまた音が鳴り響いた。四人はやっぱり嬉しそうな顔で、私を見上げていた。中でも、母親は目を細めて、懐かしげに見ていた。


 暗闇が視界を覆う。


 次の場面で、私は外にいた。


 朝だろうか。空は曇っていて、太陽の位置が測れなかった。視線の先には中身の詰まった大きな黄色い袋が幾つも置かれていた。それらを注意深く見る鴉が、真上の電線の上に何羽も並んでいた。


 私は一軒家の門扉の側に置かれていた。


 見知らぬ人が、黄色い袋を手に持ってこちらに近付いて来る。その人はその袋を、他の袋の上に乗せると去って行った。


 あそこはゴミ捨て場だ。直に収集車が来て、私とゴミ袋達を回収して行くのだろう。


 自分が捨てられた事を私は知っていた。正しく言うなら、私を宿した時計が捨てられたのだ。私はここから逃げ出そうと思えば逃げ出せた。しかし、そうしなかった。ここに在るのが、私が私で在る為に必要な事だと思っていた。それに、逃げ出した先に何があると言うのだろう。


 不思議と心は穏やかだった。悲しみや怒りはなく、申し訳なさと寂しさが心にあった。


 ずっと一緒に居たかった。いつまでも、見守っていたかった。でも、自分は壊れてしまった。針を回し続ける事が出来なかった。彼等の役に立ちたいのに、それが出来ない事がもどかしく、申し訳ない。


 小さく足音が聞こえた。足音の主は素足で歩いていた。私の横を通り過ぎようとした時、こちらを見て、興味からか足を止めた。


「これは面白い。へえ、家族ね。それを僕はまだ知らないなぁ」


 美しい人だった。宵闇の様な薄藍色の髪に、鮮やかな星の様な金色の瞳、着ている服は真っ白なワンピースだ。口元には人懐っこい笑みが浮かべられていたが、その声色は物悲しく、傷一つない白い手の爪は獣の様に長く尖っていた。


「お前を解体したら、少しは分かるだろうか。何、心配は無用さ。こういうのは得意なのだよ。だが、十年程待って欲しい。先約が沢山入っててね。お前は一番最後だよ」


 そう言って、彼は私を手に持った。


 暗転。背筋が凍る無言。炎の様に弾ける血飛沫。此処に道理はなく、倫理もない。道の外なのだ。転がるガラクタと、彼だけがいる。


「成程、成程。家族とはずっと一緒にいるものなのだね。永遠を共に過ごす。そこに人の愛があるんだね。よく分かったよ」

「お前は……間違って……いる」

「血反吐を吐きながら、どうもありがとう。教えてくれたお礼に、贈り物をあげよう。お前の壊れた部品の代わりに、お前がずっと家族と一緒に居られる部品をあげる。人の肉体には限りがあるが、魂となれば話は少し変わるのさ」

「何を……した……」

「お前はこれから、愛する家族を呪い殺して、その魂を捕らえるんだ。そうすれば、ずっと家族と一緒に居られるよ。見守るだけじゃ、家族とは呼べない。嗚呼、数人だけじゃ寂しいだろうから、もっと家族を増やすといい。嬉しいだろう?」

「ああ、ああああ」


 そいつは酷く魅力的ににこりと笑い、今にも千切れそうな私を手に取った。細く肉の付いていない腕だと言うのに、それは軽々と。


「ほら、あの家にお前を戻してあげよう」


 苦痛だけがあった。存在を引き千切られ、バラバラにされて、それをまた縫い合わされた痛み。それでも死なない。意識は保たれ、私は確かに此処にいる。


 だが、つぎはぎにされた自分の意識の中に、自分ではない物がある。拒否反応起こしている。それは、と。


 否定を繰り返せど尚も、それは自分の内より巻き起こる。埋め込まれたそれを取り除く術を、私は持たなかった。


 形を持たぬ私は、宿木にした時計と完全に一体化していた。そして、その意識と感覚は、器を超えて肥大化して行き、家そのものとなり、道に漂う霊魂を捕らえる様になった。その霊魂達は、悪しき物ではなく、唯迎えが来るまで彷徨っていただけの者だった。


 私は幾つもの目も得た。時計に留まらず、この家全体を見渡せた。これなら家族かそれ以外かの判別が出来そうだった。その目の元となったのは、捕らえた霊魂達だった。私にとって彼等は、都合の良い部品であり、新しい家族だった。


 ゴーン、ゴーン。


 鐘が鳴る。二人が見上げる。面影が残る二人。二人の兄妹。嗚呼、いつかに比べて、随分と大きくなった。


 嗚呼、嗚呼、だから呪わなくては。いいや、守らなくては、この悪しき思考から。否、否……魂を捕らえよう……守る為に……。


「無食さん!」


 ……。


「無食さん、大丈夫ですか!」


 ……私の知らない声。


 違う。私は貴方ではない。嗚呼、これは冬野君の声だ。







「無食さん!」


 目を覚ますと、目の前には泣きそうな顔をした冬野君がいた。私は咄嗟に、自分の手足がくっついている事を確認した。そして、問題ないと分かると、静かに息を吐いて、安心を噛み締めた。


「無食さん、体調どうですか?」

「……悪くはないと思う」


 周りを見ると、絵里さんの家に自分がいる事が分かった。ダイニングにある布製のソファを占領してしまっていた。美月さんも帰宅していたのか、心配そうな目で私を見ている。


「無食さん、時計の家のリビングに倒れていたんですよ。これは何事かと、僕も呼び出されて。呼吸が穏やかで規則正しかったので、救急車は呼ばなかったんですけど、やっぱり要りますか?」

「いや、要らないよ。ありがとう」


 喉がカラカラに乾いていて、話す度に咽せそうになる。それ以外は、至って問題はない。手に力は入るし、視界も良好だ。ソファから起き上がる動作に引っ掛かりはない。どこにも痛みはなく、怪我はしていない様だった。


 私の様子を見た美月さんが、ガラスのコップに冷たいお茶を入れて、持って来てくれた。


「どうぞ」

「ありがとうございます」


 掠れて熱を帯び始めていた喉に流し込むと、細胞の一つ一つに潤いが行き渡る心地がした。私は一息にそれを飲み切ると、息を吐いた。今度は喉が痛まない。


 美月さんが空のコップを回収してくれたので、また礼を言った。


「もう一杯飲みますか?」

「いえ、もう大丈夫です。助かりました」

「お体は大丈夫ですか?」

「ええ、ええ、問題ありません。ご迷惑をお掛けして、申し訳ありません」


 ソファから立ち上がろうとすると、絵里さんが「まだ、安静にしていた方が。」と言ってくれたが、依頼人にここまで世話になった上に、これ以上居座るのは気持ちが許さなかった。


「本当に大丈夫です。どこも痛くないですし」

「念の為、病院で診て貰った方が」

「そもそも、無食さんは何であそこに倒れてたんですか?」

「ええっと、それは」

「説明しづらいなら、無理になさらなくても良いですよ。一昨日の夜の事も含めて、纏められたら教えてください」


 絵里さんにそう言われて、私は「そうして頂けると有り難いです。」とお茶を濁す様に答えた。絵里さんは優しげに微笑んだ。


「お体が本当に問題ない様でしたら、今日はもう家にお帰りになって、早くお休みになられた方が良いでしょう」

「そうですね。すみません、ソファもお借りしてしまって。何時間位意識なかったですか?」

「一、二時間位かしら。探偵さんが実家に行って、一時間位経った時、止められてたけど、心配だから様子を見に行ったんです。そうしたら、倒れていました」

「そうでしたか。本当すみません」


 私は晒した失態で、顔から火が出る気持ちであった。


 依頼人に幾らか協力をして貰う事もあれど、気絶して看護される等初めての経験だった。心配もさせてしまっただろうし、戸惑わせてしまったろうし、もしかしたら頼りない探偵だと思われたかも知れない。そう言った事を考えると、私は恥ずかしくて堪らない気持ちになってしまった。


「気になさらないで。今はご自分の体を気にしてくださいな。でも、本当に大丈夫ですか?もし、それ程危険でしたら、依頼を取り下げても……」

「いえ、それは必ずやり遂げますので」

「しかし」

「そうだよ、お母さん。無食さんはもう、私の依頼の半分を解決したんだよ。だから、大丈夫だよ」


 美月さんが少しお茶目そうに笑いながら、こちらを見た。


 それを見た途端、私は胸の奥から熱い血が湧き出す気がした。彼女の期待に応えてみせると、それが自分の使命なのだと、寝ぼけた頭がしゃっきりとする。


「ええ。必ず解決してみせます」


 絵里さんはそれ以上、何も言わなかった。謝辞もそこそこに、私は冬野君を連れて退散する事にした。





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