第 7 話 水と油と界面活性剤

 その日、私は絵里さんと二人でいた。


 彼女の自宅である。初対面の時とは打って変わって、落ち着いた様子で出迎えて貰えた。


 今、私は少し散らかったダイニングで、お茶が出されるのを待っている。キッチンの方から、微かにかちゃかちゃと食器の擦れる音が聞こえた。


 手持ち無沙汰に、壁に掛けられた花の絵を眺めながら、私は浪々から借りた鍋を、事務所に置いて来てしまった事に気付いた。今更取りに行ける訳もなく、次の機会に活躍して貰う事にした。


 不意に視線をずらすと、所々に金糸が使われた白い骨覆が棚の上に置かれていたのに目が付いた。仏壇がないからか、香炉等はなく、側に果物が積まれていた。私はそれを見た途端、心の中がぐしゃぐしゃになった事を感じた。


 目を閉じるとすぐに思い出せる。駅でのやり取りが最後だった。依頼の話をしながら、くだらない話もして、たった二時間しかいられなかった人。彼は、何故そうしなければならなかったのだろう。


 あの浮世離れした人物の言葉の意味も、私はまだ知らない。恐らく、これに関しては、意図的に目を逸らそうとしている。その理由も分からない。


 遠くでコポコポとお茶が注がれる音が聞こえる。直に私の前にお茶が置かれるだろう。


 時を遡る事、三時間前。午後十二時頃。私は、一昨日の夜の出来事を彼女達に報告しようと、書類を書き上げていた。大凡の出来事を纏められたものの、未だ疑問点が多く、報告書と言うには随分と見窄らしい物であった。


 一年前に賀田さん達の母親である、さとこさんが亡くなった直後に発生した、時計の出現。以降、家の中で起こる怪現象。それは、視線を始めとする、目に見えない誰かが家の中にいる事を示唆するものだ。気味悪がっていた絵里さんが、次第にその怪現象に違和感を抱かず、家に留まり始めた事、そして、あまりに突然過ぎる賀田さんの死。


 一昨日体験した、時計から溢れる靄。あれが形容し難い者なのだろう。女性の姿を取っていたが、恐らくあれは彼そのものの姿ではなく、何かを模した物だろう。だから、直ぐに崩れてしまっていた。ならば、彼の形はまだ定まっていない、名付けられる前の形容し難い者だ。


 今の所、不分明ながら、形容し難い者の根元に近いと思われるのが、靄で出来た着物を着た女性の言葉だ。「家族が幸せになれますように。」と、「家族は一生一緒にいなくてはならない。」という、同じ様で異なる言葉。一方は純粋に幸せを求めてる願いだが、もう一方は家族に対する義務へと変化している。この形容し難い者は、この二つの要素を同時に所持している。

 ダブルバインドを抱えた為に、本体が誤作動を起こしている可能性も出て来た。名前のない形容し難い者達の思考は機械的な部分がある。それは同じ手順を繰り返す健気さであると同時に、他者の意見を聞き入れない融通のきかなさにもなる。


 原因となる、相反する二律を持ち込んだのは他人の手である可能性もあろう。余りにも出現が唐突だからだ。何にしろ、家族というワードが鍵なのだろう。


 そう考え込んでいた最中に、スマートフォンから音が鳴った。

 表示には絵里さんの番号が出ていた。私は慌てて、フリック操作を入れる。


「もしもし、佐原絵里です」

「無食です。どうなされましたか?」


 彼女の声はとても落ち着いていた。これなら普通にお話が出来そうである。


「どうと言う事でもないのですけれど、もしかしたらお話しておいた方が良い事が幾つかあるかと思いまして。お時間の良い時に我が家にいらしてくれませんか?」

「ええ、構いません。いつ頃が宜しいでしょう?」

「いつでもどうぞ。今日でも明日でも、明後日でも。私はずっと家におりますから」

「では、今日お邪魔したく思います」

「それで構いません。来る途中、うちの場所が分からなくなったらご連絡ください。ご案内しますから」


 さらりとした会話で、私は彼女の家に行く事が決定した。それ自体は問題ない。彼女の様子を見る事も、今回の件の解決に繋がるやもしれない。


 何より、彼女から語られるあの家についての情報が重要だ。一歩違えば、亡くなっていたのは絵里さんだ。今もその可能性は失われていない。時計について、呪いについてどうお考えか是非お伺いしたい。


 と、訪れたのが十分程前の事になる。


 彼女はお盆に乗せたホットの緑茶を、私の前に置いた。私から見て正面の席の前にも置き、そこに彼女は座った。お盆はテーブルの端に置かれた。


 私は頂きますと小さく呟いてから、お茶に口を付けた。舌の上に乗せて、奥へ流し込む。特に異変はない。ほっと息を吐いてしまう様な、美味しいお茶だった。


 彼女は真面目な顔をしていた。こちらを見ていない。右下に目を向けている。確か、記憶を思い出そうとする時か、思考に集中する時かに見る方向だったろうか。うろ覚えである。


 彼女は小さく口を開いた。


「私の家族の関係がどうであったか、兄は貴方にお話しましたでしょうか」

「いいえ、簡単な家族構成のみ伺っておりました」

「そうですか……」


 彼女は睫毛を伏せる。その仕草は美月さんを思わせた。次の瞬間には睫毛が上がり、見据えられた瞳は澄んだ黒曜石の様だった。


「私と母はとても、仲が悪かったんです。高校生だった私は反抗期真っ盛りで、母のする事になんでも反抗していました。学業も疎かにして遊び歩き、家に帰ってもリビングに出て来ないで部屋に閉じこもる。今振り返ると、とんでもない娘だったなと思います」

「お兄さんは?」

「兄はとても真面目な人でしたから、反抗期らしい反抗期もなかったんじゃないかしら。そんな兄の事も、私は意気地がないと馬鹿にしていました」

「反抗期は誰にでも多かれ少なかれ訪れるものです」

「でも、だとしても、高校を卒業した途端に、家を出て、結婚をする反抗はあまり見ないじゃないんでしょうか」


 その言葉に私は、一瞬言葉に詰まってしまった。そんな私を見て、絵里さんはくすりと笑った。


「親なら当然の事なのですが、その件で母は大激怒してしまって、それで私は家との繋がりを絶ってしまいました。夫はそんな私の事を見限らず、一緒に暮らしていく事を選んでくれました」


 色々な事を間違えてばかりでしたけど人を見る目は確かだったみたいと、お茶目そうに笑いながら、絵里さんは話し続ける。


「そうして生まれた子が美月です。親の私が言うのもなんですけど、とても真面目でいい子で、優しくて、まるで兄さんみたい。でも、顔付きは夫寄りね。私に似なくて良かった」

「絵里さんは素敵な方だと思いますよ。勿論、美月さんも。お二人は目元がとても似てらっしゃいます」


 私の言葉に、絵里さんは嬉しそうに頬を綻ばせた。何処か愛おしい者を見る目をしている。きっと、彼女の瞳には美月さんが浮かんでいるのだろう。


「そうだといいわね。私が帰らなかった実家に戻ったのは、美月がきっかけなんです。流石に初孫の顔くらいは見せてやれって夫が言ったものですから。彼は、その時の母と私の関係を、ずっと気に掛けていたみたいです。挨拶に行きたいとも、何度も言われましたし、後から聞いた事ですが、夫は兄と何度も会っていた様です。私は行っても、また喧嘩になるに違いないと思っていたのですけど」

「お兄さんと旦那様が?」

「ええ、仲直りさせる為に色々してくれていたみたいです。昔から私と母が喧嘩すると、宥め役は兄でしたから」

「潤滑油みたいな役割だったのですね」

「そうして会う事になって、喧嘩しない様に努めようとしていたら、母は再会早々に私と娘を抱き締めてくれたんです。何も言わないで、一分以上。言葉はなかったですけど、それで、なんだか蟠りとか固まっていた負の感情とかが溶け出して行った。父も兄も帰って来た事を喜んでくれた。その時、漸くまともな親子の関係に戻ったのだと思います」


 絵里さんはお茶を少し口に含んだ。過去を語る彼女は、初対面の時とは全く異なり、柔らかく、温かな雰囲気であった。


 彼女に対する世間の目は厳しかったろう。様々な親子の関係がある事を現在では知られる様にはなったが、今尚、親子は仲睦まじくしなくてはならない、話せば分かり合える、産んで貰った恩があるのだからという考えが色濃い。それは確執のない親子間では推奨されるべきかも分からないが、必ずしも全ての親子に当て嵌められる程、人間関係は単純ではないだろう。


 彼女の場合、幸運にも関係の修復が可能だった。だが、当時の母親が怒るのも当然だ。もし、支え合う人がいなかったら、年若い彼女はより厳しい環境に置かれただろう。私は人の親でないから、実際がどうかは分からないが、親への反抗の為に、不必要に険しい道を歩もうとしている姿を見たら、心配だし、止めに入るだろう。


 私はふと、今、美月さんが元気に学校に通い、母親の心配もする良い子に育っている事に、安堵と感動を覚えた。彼女とは僅かなやり取りしかしてないが、それでも優しい子だと言うのは分かる。ほんの少しボタンがかけ違えば、全く違う、暗い現在だったかも知れなかったのだ。


「母は昔から言っていました。家族は仲良くしないと、と。そして、時計の事も再会した時に教えてくれました」

「時計についてですか」

「あれは家族を見守っているのだと。母が子供の頃からずっと家族の側にあって、家の中で誰かが喧嘩したりすると、鐘の音が鳴って、それでお互い冷静になって仲直りが出来るのだとか。勿論、音が鳴るのは零分になったからなのですけど、不思議とそういうタイミングが多かったらしいです」

「素敵な思い出の品だったんですね」

「ええ。母がそれを譲り受けたのも、そう言った思い出が多く、自分達の家庭も実家の様に円満に続く様に、という思いだった様です。……昔の事とは言え、家族に不和を齎した私が言うのもあれなのですけど、今の状態が悲しいと言うか。やはり、捨ててしまったのが悪かったんでしょうか」


 彼女は顎に手を当てて、静かに息を吐き出した。私はお茶を少し飲んだ。


 捨てられた事を恨みに思って、復讐の為に怪現象を起こしている。ない事もないが、家族に拘る理由としては薄い気がする。それならば、自分を捨てた者だけか、近付く者全てを呪えば良いし、美月さんにした様に、わざわざ家族であるかの判別をする手間を掛ける必要はない。そこまで複雑な行程を経れる程、あの形容し難い者に力はあるだろうか。


「壊れたから捨ててしまったとの話でしたが、お母様は反対などされなかったのですか?」

「最初は反対しました。けど、途中で、大切な物だからこそ、自分の手でお別れしたいと」

「なるほど」

「粗大ゴミで出した筈です。もう十年前の事ですから、今になってどうしてだろうという気持ちが強いです」

「私もそこに引っかかっています。長い年月を経た物に何かが宿る事はありますが、今回は現象の発生までの時差があり過ぎます。もし、時計に宿った者が、捨てられた復讐をするとしたら、これ程に期間を空ける必要はありません。また、粗大ゴミで出したとしたら、既に破壊されている筈なのです」

「誰かが回収される前に、持って行ったとか」

「その可能性も充分あります。私は今回の事象について、あなた方以外の他人の作為を感じます。その人物は恐らくお母様を対象には入れていません。恨みを抱いている人物等思い当たる事はありますか?」


 絵里さんは思議していたが、すぐに「いいえ。ありません。」と返した。湯飲みを両手で包み、不安げな様子である。


「娘に聞いたのですが、あの時計には幽霊の様なものが憑いているのでしょうか」

「正確には幽霊ではなく、我々が、形容し難い者と呼ぶ存在がいます。ですが、認識としては同じでも問題ありません。その存在は一昨日の夜に目視で確認しました」

「私達には見えないんですね」

「現状ではそうなります」

「……私はあの家に行くのが最初怖かったんです。気味悪くて。うちと近いですから、兄よりも私が掃除に行く機会も多くて。兄は行く度に気味が悪いと嫌そうな顔をしてましたが、よく手伝ってくれました。でも、私は自然と怖くなくなっていったんです。現象が収まった訳でもないし、何一つそれについて納得出来る物もなかったのに、恐怖だけが取り除かれて行った」


 美月さんの視線の性質の変化に似ているかも知れない。彼女も視線が、攻撃的な物から、見守る様な物へと変化して行ったと言っていた。


「それはどう変化していきましたか?」

「最初はずっと敵意を持った何かに見られている様でした。でも、段々と敵意がなくなっていって、逆に優しい感じがしたんです。お母さんに見守られている様な、受け入れてくれる何かに変わっていたんです。私はそれが心地良くて、今思えば気味が悪い事に変わりはないのですけども、それでずっと通っていたんです」


 プロセスは似ている。やはり、あの目線は家族と家族でない者とで判別し、向ける性質を変えている。一昨日に遭遇した形容し難い者が言った、家族の魂を捕らえる、守るという言葉が気に掛かる。聞き取りづらかったが、素直に聞けば、家族の魂を捕らえる事で守り、幸せにもすると言った感じだろうか。


 それだけ聞くなら、家族を守るが為に暴走している様でもある。しかし、それなら彼は、一体何から家族を守ろうとしているのだろう。そして、守るべき家族を害しているのはどういう理屈なのだろう。


「絵里さん、申し訳ないんですが、もう一度あの家に行っても良いですか?」

「ええ、勿論。助手の方いらっしゃらなくて大丈夫ですか?」

「大丈夫です」


 私は残っていた緑茶を一気飲みしてから、立ち上がった。彼女の前の湯飲みにはまだお茶が多く残っていた。


「私も行きます。」と言って、彼女が私の後ろについて来た。私は慌てて彼女を止めた。


「それはいけません。貴方は影響を強く受けています。どうか此処に居てください」

「ですが」

「貴方の身に何かあったら、私は美月さんや旦那様に合わせる顔がありません。帰る時に、もう一度挨拶しに参りますから」

「……わかりました」


 しぶしぶといった形ではあるが、上手くいった様だ。どうにか引き止められたと安堵する。


 そして、私は彼女に見送られながら、例の家へと向かった。



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