ひとつの夜

なまのーと

第1話

 夜は他の人々が思ってるそれよりよっぽど暗く思えた。それは、水彩画の黒と、油彩画の黒との違いのように。

 僕は当てもなく歩いた。家からはそう遠くない距離を、ひたすらに歩いていた。まるで打ち際を見失った流木みたいに。

 過ぎる民家からは、さまざまな夕飯の香りがした。焼き魚、カレー、肉の焼ける匂い。僕はどこか懐かしくも切ない気持ちでそれらを通り過ぎる。

 数分ほど歩いたところに、見慣れた公園が見えた。子供の頃によく遊んだ公園。歳を重ねるにつれ、疎遠となった公園。

 僕は薄暗く街灯の灯るベンチへと腰掛ける。色とりどりの木馬が、暗く佇んでいた。僕はポケットから煙草とライターを取り出すと、煙草に火をつける。街灯の光に融和した煙がゆらゆらと遊泳した。

 これからのことを考えようとしたけど、辞めた。考えたところで、夜が益々暗くなることは目に見えていた。僕は意識して無心の心持ちで煙草を吸った。見上げた空には星々が輝いていて、煙草の煙がその輝きを少し隠した。

 一本の煙草を吸い終えるころ、遠くに二つの影が見えた。それは徐々に近づいてきて、その影は、少女と、おそらく少女の父親だった。父親は片手にレジ袋を携えていた。少女は回転遊具で遊びたいらしかった。父親は、少女の意思を優しく尊重した。少女が遊具に乗り込むと、父親はゆっくりとそれを回してやっていた。優しくも、どこか気だるげな父親と、全身全霊ではしゃぎ笑う少女の姿がそこにあった。

 僕はひたすらに、少なくとも五分ほどは、瞬きを忘れるほどにその姿に見惚れていた。少女が少し飽きてきた、といった様子で父親の顔を見据えた。その少女の様子に気づいた父親は、そっと遊具の回転を緩める。少女は満足気に地べたへと飛び降りると、そっと父親の手を握った。片手にレジ袋、もう片手に少女の小さな手を握った父親は、公園の出口へと少女を連れて歩いて行った。僕は彼らの姿が見えなくなるまで、ずっとその姿を追っていた。まるで何かにすがるかのように。

 公園にはまた、僕ひとりしか残らなくなった。あの父親と少女、ただそれだけの存在が、僕の夜の黒色を、少しだけ淡いものにさせたように思えた。

 僕は煙草をもう一本だけ吸い、煙を空へと吐き出した。

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