第19話

 ……今日も雨が降っていた。

 今は七月の頭。

 例年、梅雨のまっただ中の時期だ。

「……ふう、雨の日はバイクに乗るのが辛いな」

 玄関の前でカッパを脱いだ。

 ったく、これだからバイクは……。

 ……。

 ああ、そうだよ!?

 車のほうがいいって分かってるよ!?

 雨の日はバイクに乗る意義をたまに見失う。

 カッパは外に干しておいて、家の中に入った。

 リビングには誰もいなかった。

 ……母さんは部屋か。

 部屋にいる時の母さんは静かだ。だからそもそもいるのかどうかよく分からない時もあるけど……まぁ出かけていることのほうが少ないから、家にはいるだろう。

 ……さて。

 僕はカフェオレを二つ用意して、部屋に持っていこうとした。

 ちょうどそのバットなタイミングで母さんが姿を見せた。

「あれ? あんた、何で二つもカップ持ってるの?」

「うえ!? いや、これはその……そう、今日は真白さんが来てて!」

「え? そうなの? なんだ、そうならそうと言いなさいよね。あ、お菓子も持っていったら?」

「あ、うん。ありがとう。そうするよ」

 ということでお菓子も部屋に持っていった。

 部屋に入ると、真白さんが僕のベッドでごろごろしていた。

 ……そろそろ、この光景も見慣れてきたな。

「あ、おかえり!」

「ただいま……」

 ティーセットをテーブルに置いた。

 さっき母さんには真白さんが来ていると言ったけど、そもそも来ているもなにも、ここ数日ずっと部屋にいるんだよね。

「ん? どうしたの?」

「いや、それがカフェオレ二つ持ってくるところ母さんに見られてさ。とっさに真白さんが来てるって言っちゃったんだよね」

「そうなの? でも、それって別に困るようなことじゃなくない?」

「いや、だって〝来てる〟なら〝帰らない〟とダメでしょ?」

「……ああ、そうか」

 真白さんはぽん、と手を打った。

「わたしずっと蒼汰くんの部屋にいるけど……確かにそうよね。遊びに来てるってことになるなら、帰るところを見せないとダメだよね」

「適当なところで帰ったって言っておけばいいかな?」

「うーん……いや、でもそういうことになってるなら、わたしも頼子さんや夢子ちゃんに、ちゃんと会いたいかな。ほら、ずっとソータくんの家にはいるけど、内緒でいるわけだしさ。顔は合わせてないし」

 真白さんが僕の部屋にいるのは、もちろん家族には内緒だ。

 だから真白さんは母さんにも妹にも会ってない。

「そう? まぁそれならそれで母さんも喜ぶとは思うけど……」

「そうだ! なら、わたしがまたご飯作るよ!」

「え? いや、いいよ。そこまでしてくれなくても」

「ううん。だってわたし、お世話になりっぱなしで何もできないし……ダメかな?」

 上目遣いに見られた。

「そうだよね。何もしてないと退屈だもんね。じゃあそうしようか」

 サムズアップした。

 だから上目遣いは卑怯だって……。

「ほんと!? やったー!」

 真白さんは嬉しそうに喜んだ。

 その姿を見ていると、僕はなんだか「まぁいいか」という気になった。

 ……実際、真白さんも退屈だろうしな。

 僕と一緒にいる時の彼女は、周囲にも見えるようになる。物にも触れられるようになる。

 でも、一人の時は本当に〝幽霊〟みたいになってしまうらしい。

 だから、部屋で一人きりの時は、ただごろごろしているしかないんだそうだ。それはさすがに退屈だろう。

「そうだ、ソータくん。またパソコン見ていい?」

「うん、いいよ」

 彼女はベットからおりて、いそいそとノートパソコンを開いた。

「やっぱりソータくんがいてくれると、こうして普通に物に触れるようになるから便利だよね」

「一人の時はまったく物に触れないの?」

「うん。全然。ちょっとくらい触れたら本とかも読めるんだろうけどね。でもまぁ、誰もいないのに物が動いてたら、それってもう完全に心霊現象だよね」

「ま、まぁ確かに……」

「さてさて」

 彼女はいそいそとパソコンで北海道の情報を見始めた。

 そして、おもむろに『㊙』と書かれたノートを開いた。

 それは真白さんが作ったツーリング計画ノートだ。

 彼女は色んな情報をパソコンで仕入れては、そのノートに書き加えていた。今ではちょっとした観光ブックみたいになっている。

「ふんふんふーん♪」

 その㊙ノートに色々書き込んでいる時の彼女は本当に楽しそうだ。

「……ねえ、ソータくん」

「ん? どうしたの?」

 彼女がちょっと控えめに僕を振り返っていた。

「その……今さらだけど、本当にいいの? わたし、一緒に北海道行っても」

「もちろんだよ。約束したでしょ? 一緒に行こう、って」

「でもほら、あの時はまだ幽霊だってバレてなかったし……」

「幽霊だろうが何だろうが、別に関係ないよ。僕は真白さんと一緒に行きたいんだ」

「……ソータくん」

「それに、幽霊だったら親の許可もいらないしね。むしろ心置きなく一緒に行けるよ」

 僕が冗談めかしてそう言ったら、彼女もくすりと小さく笑ってくれた。

「そうだね。それは言えてるかも」

「だから、真白さんは何も気にしなくていいよ」

「うん。ありがとう」

 真白さんは嬉しそうに笑って、再びパソコンに向き直った。

「すごいなー。このラベンダー畑。早く行ってみたいなあ……このメロンにソフトクリーム乗ってるのもすごい美味しそうだよね。うーん、食べたい……早く八月にならないかな」

 彼女は遠足前の子供のように、わくわくした顔でパソコンを見ていた。

「……」

 これでいい、と僕は思った。

 彼女は楽しそうだ。

 そう。

 だから、これでいい。

 これでいいんだ。


 ……本当に、そうだろうか?


 μβψ


 ……次の日。

 僕はいつものように家を出た。

「いってらっしゃい」

 彼女に見送られて部屋を出るのが当たり前になっていた。

 朝、起きると彼女がいる。

 毎朝、彼女の笑顔で起こされて、彼女の笑顔で送り出される。

 僕は幸せだった。

 ……でも、ずっと何かが胸につっかえているような感じがあった。

 これでいいのか? と。

 これでいい、と言い聞かせても、やっぱり誰かが僕に言うのだ。

 本当にそうなのか?

 本当にこれでいいのか?

 迷いを引きずりながら、僕は日常を過ごしていた。

 駅のホームで陽介と信一と顔を合わせるのもいつも通りだ。

 別に待ち合わせているわけじゃない。早すぎず遅すぎず、ちょうどいい時間の電車に乗ろうとすると、結局同じ電車に乗ることになる。だからこうして顔を合わせているだけだ。

「ん? どうした蒼汰?」

「あ、いや何でもないよ」

 陽介が不思議そうに僕を振り返っていた。

「おい、もたもたしてたら電車に乗り遅れるぞ」

 信一が少し先に改札をくぐって、向こう側から僕らを急かした。

 陽介も改札をくぐった。

「……」

 でも、僕は立ち止まったままだった。

 ……僕は真白さんと一緒にいられて幸せだ。

 でも、真白さんのおじさんは? お兄さんは?

 僕に向かって、少し疲れたような笑みを見せた、彼女のお父さんの顔が頭に浮かんできた。

 気がつくと、僕は改札に背を向けて走り出していた。

「え!? おい、蒼汰!?」

「ごめん! 今日ちょっと学校休む!」

 バイクのところまで走った。

 とりあえず母さんに電話をかけた。

「もしもし、母さん?」

『んー……? どったの……?』

 明らかに寝起きの声だった。どうやら電話で起こしてしまったみたいだ。

「ごめん、起こしちゃって。ちょっとお願いがあってさ」

『お小遣いならこれ以上増えないわよ?』

「朝っぱらからそんなことで電話しないよ……今日さ、ちょっと学校ズル休みしたいんだよ」

『……は?』

「それで、学校に電話しておいてほしいんだけど……ダメかな?」

『いや、あんたね……』

 さすがに怒られるか?

 そう思ったけど、返ってきたのは溜め息だけだった。

『まぁいいか。ズル休みすんのはいいけど、学校にバレないようにしなさいよ』

「……あれ? 怒らないの?」

『怒って欲しいの?』

「そういうわけじゃないけど……でも、理由とか聞かないのかなって」

『わざわざズル休みするって電話してくるくらいだから、なんか大事な用事なんじゃないの?』

「それは……うん。けっこう、大事だと思う」

『じゃあ、それを優先しなさい。学校より大事なことなんて、世の中にゃいくらでもあるしね』

 んじゃね、と母さんは電話を切った。

 しばらく通話の切れたスマホを眺めてしまった。

 ……ものすごくあっさりしてたな。

 やっぱり、母さんはものすごく大雑把だ。

「……学校より大事なこと、か」

 父さんもよく言ってたな。

 ……よし。

 僕は再び、スマホで電話をかけた。

 相手は――真白さんのお兄さん。

 史郎さんだ。

「あ、もしもし史郎さんですか? 蒼汰です。その……今日、お父さんが何時頃病院に行くか分かりますか?」


 μβψ


 僕はあの病院に来ていた。

 真白さんの入院している病院だ。

「……」

 僕は病院の入り口のところで人を待っていた。

 時間はちょうど13時になろうとしているところだった。

 ……そろそろ来るかな。

 そう思っていると、見覚えのある人が駐車場のほうから歩いてくるのが見えた。

「こんにちは」

 自分からその人に声をかけた。

 相手は――真白さんのお父さんは、僕を見て目を少し瞬いた。

「……おや、君は先日の。ええと」

「葉月です」

「ああ、そうだ。葉月くんだったね。もしかして真白ましろのお見舞いに来てくれたのかい?」

「はい」

「ん? でもまだ学校の時間じゃないのかい?」

「うちの学校、今日は創立記念日なので」

「ああ、そうなのか」

 おじさんは納得したような顔を見せた。

 もちろん嘘だけど。

「せっかくだ。一緒に行くかい?」

「はい、是非」

 僕はおじさんと一緒に受付を済ませて、真白さんの病室へ向かった。

「ところで、葉月くんは真白ましろとはいつから友達なのかな。真白ましろの学校は中高一貫の女子校で男子はいないはずだが……」

「えっと、共通の友人がいまして。それで友達になりました」

 自分でも驚くほど、すらすらと嘘が出てきた。

「なるほど。そうなのか……いや、恥ずかしい話だが、わたしは普段の真白ましろのことはほとんど知らなくてね。その、あの子は周りに迷惑などかけてなかったかな」

「迷惑なんてとんでもないですよ。真白さんはいつも笑顔で、一緒にいて楽しい人でしたから」

「いつも笑顔? 真白ましろが、かい?」

「はい」

 僕が頷くと、おじさんはまたあの弱々しい笑みを見せた。

「……そうか。真白ましろは、友達とはちゃんとうまくやってたんだな。それはよかった」

「……」

 ほっとしたような顔だった。

 その笑みを見せた時のおじさんは、やっぱり少し老けて見えるような気がした。

「……あの、実は以前母が言っていたんですけど、うちの母が昔、おじさんと同級生だったって」

「同級生?」

 おじさんが驚いたように顔を上げた。

「はい」

「失礼だが……お母さんの名前は?」

「旧姓は確か東堂とうどう頼子よりこです」

「……ああ!」

 おじさんは思い出した、という顔をした。

「東堂さんか。覚えてるよ。そうか、君は東堂さんの……お母さんはいま何を?」

「えっと……実は小説家でして。葉月京子っていうペンネームなんですけど」

「え? あの有名な作家かい?」

 おじさんはますます驚いた顔をした。

 ……母さんって有名なのか?

「有名かどうかは分からないですけど……知ってるんですか?」

「ああ。わたしも本屋にはけっこう行くからね。よく見かける名前だよ。作品を読んだことはないんだが……娘が好きだったみたいでね。部屋に作品がたくさん置いてあった。そうか、東堂さんは夢を実現させていたのか……」

「夢?」

「ん? 知らないかい? 君のお母さんは、卒業文集で将来の夢を『小説家』って書いてたんだ」

「……そうなんですか?」

「確かにずっと本を読んでいる印象だったね、君のお母さんは。どういう本を読んでいたのかは知らないけど、すごい読書家だったよ。なんせ授業中でも本を読んでたからね」

「それは読書家とはまた違うような……?」

「ちなみにだが、君のお父さんは何をされている方なんだい?」

「えっと、父は2年前に他界しまして……」

 おじさんはハッとした顔をした。

「……これはすまない。失礼なことを聞いてしまったね」

「いえ、そんな」

 そんな話をしていると、真白さんの病室に着いた。

 おじさんに続いて、僕も中に入った。

「……」

 ベッドの上では、真白さんがすやすやと息を立てて眠っていた。

 ……お兄さんの言った通り、真白さんは本当に眠っているようにしか見えなかった。

 ベッド脇には丸椅子が一つだけ置いてあった。

「よかったら座るといい」

「いえ、僕は平気ですから。おじさんが座ってください」

「そうかい? それじゃあ、座らせてもらおうかな」

 おじさんは座って、肩を軽く回した。

「最近、歳のせいか疲れやすくていかんな。移動が多くてかなわないよ、ほんと」

「お仕事、やっぱり忙しいんですか?」

「ああ、そうだね。確かに忙しいが……でも、わたしはこれまで長い間、仕事が忙しいを言い訳にして家族をないがしろにしてきた。真白ましろがこうなってしまったのも、全てわたしのせいなんだよ」

 と、おじさんは真白さんのことを見ていた。

 さっきまでは背筋がぴんと伸びていたけど、今は少し背中が丸くなっていた。

「……わたしも妻には先立たれてしまってね。もう随分と前だが……その頃から、真白ましろとはうまくいかなくなっていた。わたしはいつも仕事ばかりで、ほとんど家にいなかった。妻がいなくなってからもそうだ。むしろ余計に仕事で家を空けるようになった。同じ家に暮らしているのに、真白ましろと顔を合わせるのなんて一ヶ月に数えるほどだった」

「……」

真白ましろのことは、人に任せっきりだったよ。真白ましろがわたしを嫌うのも無理はないだろう。それでもわたしは親だ。だから、わたしなりにちゃんと真白ましろのことは考えているつもりだった。だが……では、ダメだったんだろうな」

 おじさんは少し自虐的な笑みを見せた。

「……今さら後悔しても遅いのは分かっている。分かっているが……もしチャンスがあるのなら、わたしはもう一度、ちゃんとやり直したい。真白ましろに、ちゃんと謝りたい。わたしは本当に、真白にひどいことを言ってしまった。だから、ちゃんと謝りたいんだ。ちゃんと――」

 おじさんは何かにすがるような目で、じっと真白さんのことを見つめていた。

 

 

 

 

 

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