第12話

「……お母さん、お母さん」

 声がした。

 ハッとした。

 僕はまた、あの場所にいた。

 女の子が泣いている。

 今日はいつもよりはっきりと、その子の泣き声が聞こえた。

 悲しそうに、苦しそうに、ずっと泣いている。

「ねえ」

 僕は女の子に声をかけた。

 でも、僕の声は届かないのか、女の子は泣き続けるばかりだった。

 いつもと同じだ。

 このままだと、すぐにまた僕は眼が覚めてしまう。

「ねえ、君!」

 僕は懸命に呼びかけた。

 すると――女の子がこっちに気づいたように顔を上げた。

「……え?」

 僕はその子の顔を見たとき、思わず動揺してしまった。

 目を真っ赤に腫らした女の子の顔に、よく知った面影を見たからだ。

「……真白さん?」


 μβψ


「……」

 眼が覚めてから、しばらく布団の中でじっとしていた。

 ……また、あの夢か。

 上半身を起こして、がりがりと頭をかいた。

 ……夢の女の子、真白さんに似てたな。

 初めて顔を見た。

 夢の光景なのに、やけにはっきりと覚えている。

 まるで小さい真白さんだった。

「うーん……」

 何でこんな夢を見るんだろうな、僕は……?

 考えてもよく分からなかった。

 とりあえず起きて、いつものように一番乗りのリビングを暖め、起きてこない妹の朝食を用意してやった。

「……いや、三人分用意するか」

 虫の知らせが来た。

「うぃー、おはよ」

 すると、母さんがあくびをしながらリビングに入ってきた。

「……母さん、いちおう言っておくけどプリキュアはやってないよ?」

「分かってるっての。あんたわたしを何だと思ってるのよ」

「プリキュア大好きおばさん?」

「――」(ブチッ!!)

 ……ちょっと本気で殴られた。

 頭に昭和のたんこぶができた。

「……最近、平日でもちょくちょく起きてくるよね。健康に目覚めたの?」

「いや、何か目覚めちゃうのよねえ。自分でもよく分かんないんだけど」

「それってつまりもうとしってことじゃない?」

「……頭のたんこぶ、二段アイスクリームみたいにしてあげましょうか?」

「母さんっていつまで経っても若々しいよね。まるで永遠の十七歳だよ」

「あら、よく分かってるじゃない」

 殺気が消えた。

 ……我が家は朝からほんと綱渡り状態だな。

「それにしてもさあ、今度真白ちゃんいつウチに来てくれるの?」

「いや、一昨日おととい来たじゃん……」

「一昨日よ!? 昨日会ってないのよ!? 寂しいじゃない!」

「どんだけ会いたいのさ」

「そりゃ会いたいわよ。あんたさぁ、あんな良い子いまどきいないわよ? あんたがあの子と出会えたのは奇跡みたいなもんよ? 分かる? 奇跡なのよ? 奇跡って言葉の意味分かる?」

「分かったから。分かってるから。そんなに言わなくていいから」

「とにかく、絶対にあの子に愛想尽かされるようなことするんじゃないわよ? いい?」

「わ、分かってるよ……」

 わりと真面目なトーンで言われてしまった。

 ……夢子にも似たようなこと言われたな。

 僕はよほど家族から甲斐性のないやつヘタレだと思われているらしい。

 もちろん、言われずともそうするつもりだ。

 まぁ、そもそも付き合ってないけどね!

「あー!! 寝過ごした!!」

 夢子がリビングに飛び込んできた。

「お兄ちゃん、朝ご飯は!?」

「そこだ」

「さっすがお兄ちゃん!」

 妹は急いで朝食をかっ込んで、最後に食パンを口に咥えた。

「お兄ちゃん!!」

「バイクの後ろになら乗せないぞ」

「ケチ!! どうせ彼女なんて――」

 夢子は何か言いかけたが、

「ぐぬ!! ちくしょー!!」

 悔しそうな顔をして部屋を飛び出して行った。

 ……あいつ、パン咥えたまま出てったな。

「朝からテンション高いわね、夢子は。誰に似たのかしら?」

「……まぁ、ありゃ間違いなく父さんだろうね」

 僕と母さんは、他人事ひとごとのようにそんな会話をした。


 μβψ


 気がつけば四月になっていた。

 冬のような寒さは過ぎ去って、ようやく季節が変わったんだと肌でも感じるようになってきた。

 でもまぁ、朝晩はちょっと寒い。上着はまだ欲しいところだ。

「ねえ、真白さん。今日ちょっと行きたいところあるんだけど……一緒に来ない?」

「え? どこ?」

「キャンプ用品のお店なんだけどさ」

「キャンプ用品?」

「うん。ちょっとバイクで移動しなきゃいけないんだけど……どうかな?」

「へえ、キャンプ用品かぁ……ちょっと興味あるかも」

 そういうわけで、僕らはバイクでキャンプ用品店へ向かった。

 場所はそんなに遠くない。駅一つぶん移動するくらいだ。

 バイクなら20分ぐらいの場所だった。

 店内はけっこう広々としていた。

「けっこう広いね。ここよく来るの?」

「いや、初めて来た。あるのは知ってたんだけど」

「何か買うの?」

「うん。と言っても、キャンプに必要なものはほとんど父さんのお下がりのがあるからね。そんなに大したものは買わないんだけど」

「あ、ハンモックだ! これちょっと寝てみてもいいのかな?」

「あ、ああ、うん。いいんじゃない? お試しくださいって書いてあるし」

「じゃあちょっとだけ……」

 真白さんはハンモックで横になって、ゆらゆらと揺れた。

「……あ、やばい。これ寝ちゃうかも」

「ハンモックって使ったことないんだよね……そんなに気持ちいい?」

「すぴー」

「あれ!? もう寝てる!?」

 ……その後も、けっこう二人で店内をひやかしてしまった。

 結局、僕は大したものは買わなかった。

 まあ今日は下見みたいなものだったからな。

 真白さんも思いのほか楽しんでくれたみたいだった。

「ごめん、お待たせ」

 店内でちょっとトイレを借りてから、バイクのところに戻った。

 真白さんは先に店を出ていて、ベンチに座るみたいにタンデムシートに座って足をぶらぶらさせていた。

「じゃあ戻ろうか」

「……ねえ、ソータくん」

「ん? なに?」

「このままさ、どっか遠くに行けないかな?」

「……遠く?」

「うん、そう」

 真白さんは遠くを見るような目をしていた。

 あの目だ、と思った。

 ここじゃないどこか。

 違う世界を見ているかのような、どこか寂しげな目。

 その目に、僕は胸がしめつけられるような感じがした。

 ふと、その横顔が夢の女の子と重なって見えた。

 これまではっきりとそう見えなかったけど……今の僕には、はっきりと真白さんが泣いているように見えた。

 ……なぜ、そんなふうに見えたのか。

 理由はよく分からなかったけど……でも、確かにそう見えた。

「何てね、冗談だよ」

 と、彼女はこっちを見て笑った。

 そこにはもう、泣いている女の子の面影は消えてなくなっていた。

「でも、バイクってすごいよね。わたしが来たことのない場所に、こんなにあっさりと連れてきてくれるんだから」

「お兄さんのバイクに乗せてもらったことあるんじゃなかったっけ?」

「あるにはあるけど、そんなにしょっちゅうじゃないから。それに普段は車で送り迎えが普通だからね、うちは。学校も車で送り迎えだったし」

「へえ……家族の人が送り迎えしてくれるんだ」

「ううん、家族じゃないの。家政婦っていうか、そういう感じの人」

「……へ、へえ。家政婦の人が送り迎えしてくれるんだ」

 ……これもう完全にお嬢様だわ。

「だからあんまり寄り道とかもしたことないし、自分じゃ行きたいところには行けないんだよね。自分が住んでる街だって、ちゃんと自分の足で歩いたことはほとんどなかったから」

「……」

 なるほど。だからあんまり駅周辺の地理にも詳しくなかったのか。

「わたしもバイクの免許とろっかなあ。バイクあったら、どこでも自分で好きなところ行けるし」

「それはいいと思うよ」

「あ、でもわたしがバイク買っちゃったらソータくんの後ろに乗れなくなっちゃうね。それは嫌かな」

「え!? そ、それはどういう……?」

「わたし、ここに座ってるの好きなんだ。ここっていうか、ソータくんの後ろに座るのがね」

「……」

 めちゃくちゃ照れ臭かった。

「じゃ、じゃあ帰ろうか……」

「あれ? ソータくん、なんか顔赤くない?」

「え? ど、どこが? 全然だよ、全然」

「もしかして照れた?」

「照れる?? 僕が?? 言ってる意味が全然分かんないなあ??」

「ソータくんってすぐ顔に出るよね」

「ようし!! 帰ろう!!」

 無駄に声を張り上げてバイクに跨がった。

 ……僕は真白さんの顔を、ちゃんと見ることができなかった。


 μβψ


 徐々にだけど、夕暮れの時間は確かに遅くなっていた。

 それでも、まだ全然足りなかった。

 いっそ夜なんてこなければいいのに。

 心からそう思った。

「……」

「……」

 暮れゆく一日の最後だというのに、僕も真白さんも、さっきからずっと黙ったままだった。

 僕らはいつものベンチに座っていた。

 ほとんど肩が触れあうような距離で、僕らは並んで座っていた。

 ……この時間の、いま感じているこの感覚を、言葉で言い表すのはとても難しかった。

 初めの頃は、僕は沈黙を怖れた。

 何か言わなきゃと思って、色んな言葉を探した。

 でも、今はその必要がなかった。

 ……いつからだろうな。

 こうしてただ、一緒にいるだけの時間が心地よく思えるようになったのは。

 時間はどうしたって過ぎていく。

 そのことがもどかしくもあったし、逆に嬉しくもあった。僕と彼女は、同じ時間の中にいるんだと実感できる。

 長い時間をかけて太陽は今日と明日の境界の向こう側へ消えていった。

「……日、暮れちゃったね」

 ぽつりと彼女が言った。

「……そうだね」

 と、僕は頷いた。

「じゃあ、帰ろっか」

 彼女が立ち上がろうとした。

 僕は立ち上がらず、彼女の手を握った。

「え?」

「……ねえ、真白さん。実はさ、前からずっと言おうと思ってたことがあるんだ」

「う、うん」

 真白さんが座り直した。

「ええと、なに?」

「……」

 ……ふう。

 ちょっと深呼吸した。

 ……前は言いそびれた。

 僕は以前、この言葉を言おうとした。でもあの時は言えなかった。

 でも、今はあの時とは違った。

 今なら言えるような気がした。

「真白さん」

 僕は真白さんを真っ直ぐに見た。

「う、うん」

「その、さ」

「う、うん」

「……北海道さ、真白さんも一緒に行かない?」

「――え?」

 彼女は驚いた顔をした。

 僕は続けた。

「前さ、うちに来た時……あの時、真白さん何か言おうとしたよね? あれってさ、僕の気のせいじゃなかったらだけど……一緒に連れてって欲しいって、そう言いたかったんじゃない?」

「そ、それは……」

「あれから色々考えたんだけど……やっぱり、僕には真白さんがそう言おうとしたとしか思えないんだ」

「……」

「……これって、僕の勘違いだったかな?」

「う、ううん! そんなことない!」

 真白さんは一生懸命な顔で僕に迫った。

 それは本当に一生懸命な顔だった。

「わたし、そう言いたかったの! でも、いきなりそんなこと言っても迷惑かなって思って、それで――!」

 ……ああ、やっぱりそうだったのか。

 僕は思わずほっとして、ついつい笑ってしまった。

「よかった。じゃあさ、一緒に行こうよ」

「で、でも、二人は無理じゃない? 荷物いっぱい積むんでしょ?」

「大丈夫、何とかなるよ。実際、僕と父さんは二人乗りで行ったんだから」

「そ、それにわたしが行くとかなったらソータくんのお母さんだって反対するんじゃ……」

「うちの母さんは大丈夫だよ。そのへんすごい大雑把だし。まぁ問題があるとすれば、真白さんのお父さんのほうじゃないかな」

「え?」

「前に言ってたでしょ? すごく厳しいって。まぁ、厳しい云々を抜きにしてもさ、普通に考えて許可なんてくれないとは思うけどね。僕が親でも許可なんてしないと思うし」

「だ、だったら……」

「でもさ、で諦めたくないんだよ。いざとなったら無理矢理行ったっていい。僕は真白さんと一緒に行きたいんだ」

「……ソータくん」

 僕はこれまで自分から『境界線』を越えたことがない。

 その勇気がなかった。

 でも……今は『境界線』を越えることに何の躊躇いも感じなかった。

 自分でも不思議だった。

 、と思えてしまうことが。

 真白さんを連れ出したい。

 いま僕が思っているのはそれだけだった。

「……その、さ。今さら白状するけど……実は僕、あの時出会う前から、ずっと真白さんのこと知ってたんだ」

 何となく彼女から視線を逸らしてしまった。

 まるで隠していた悪戯を告白するような気持ちだった。

「え? ど、どういうこと?」

「真白さん、よくこのベンチに座ってたでしょ? 僕が気づいたのは秋ぐらいからだったけど……いっつもここに座って、駅前を眺めてたよね」

「……」

 僕がそう言うと、真白さんは本当に驚いた顔をしていた。

 ……ちょっと引いたかな?

 やっぱり言わない方がよかったかなと思ったけど……僕は続けた。

「その時は真白さんの名前も知らなかったからさ、ただ遠くから眺めてただけだったけど……真白さんっていつも、まるで遠くを見るみたいな目してたんだよね。本当になんだか、違う世界を見てるような……それで真白さんの周りだけ、時間が止まってるように見えたんだ。自分でも何でそう見えてたのかは、よく分からないんだけど」

「……」

「真白さん、今でもたまに同じ目してる時あるんだ。その目をしてる時の真白さんって、まるで独りぼっちみたいな感じでさ……うまく言えないんだけど、〝そこ〟に真白さんを置き去りにしたくないんだ、僕は。だから――」

 だから、と僕は少し強く真白さんの手を握った。

「僕と一緒に来てほしいんだ。二人で行こう」

 彼女はすぐには返事をしなかった。

 とても長く感じたけど、実際には多分、ほんの一瞬だったと思う。

「……ありがとう。わたし嬉しい」

 真白さんは、はっきりと頷いた。

「わたしも、一緒に行きたい」

 ……笑顔を浮かべた彼女の目尻からは、一筋の涙がこぼれていた。

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