3,春の気配

第11話

 今日は日曜日だった。

 気がつくと、もう三月も半ばだ。

 少しずつ気温も上がってきたけど、まだまだ十分に寒い。出かける時に上着は必須だ。

 今はお昼前だ。

 僕はいそいそと出かける準備をしていた。

「あれ? お兄ちゃん出かけるの?」

 玄関で靴を履いていると、夢子が二階から降りてきた。

「ああ、うん」

「もしかして真白さんと会うの?」

「まぁそんな感じかな……」

 ふっ、と僕は余裕ぶって答えた。

「ふーん……ていうかさ、お兄ちゃんってさ、もしかして真白ましろさんと付き合ってるの?」

 夢子が興味津々、という顔で訊いてきた。

「……」

 きゅ、と靴紐を結んだ。

 ……ふむ。

 さて、何と答えよう……?

 付き合っているかどうかで言えば、答えはノーだ。

 そう、僕と真白ましろさんは決して付き合っているわけじゃない。

 それが事実だ。

 だから、ここでしょうもない見栄を張ってもしょうがない。

 ここは正直に言おう。

 僕はすっと立ち上がった。

「おいおい、何を言ってるんだ?」

 やれやれ、と肩を竦めた。

「付き合ってるに決まってるだろ?」

 はい、僕は小物です。

 本当にどうしようもない小物です。

「ええ!? ほんとに!?」

 妹が驚愕の顔を浮かべた。

「ど、どうやって? お兄ちゃんがどうやって真白ましろさんみたいな人と付き合えたの? 何か弱みでも握ってるの?」

「お前は兄のことを何だと思ってるんだ……?」

「だ、だって……真白ましろさんだよ? めちゃくちゃ美人じゃん。普通に考えてお兄ちゃんとは釣り合わないよ。月とスッポンじゃん」

「誰がコラーゲンの塊だ……」

「いや、トイレで使うやつのほう」

「あのスッポンかよ!?」

 生き物ですらなかった。

「まぁどんな奇跡なのかは知らないけど……愛想尽かされないようにしなよ? お兄ちゃんってば、いざって時にヘタレなんだからさ」

「う、うるせえやい!」

 妹から生意気な説教を受けて家を出た。

 くそう……なぜあいつに説教なんぞされにゃならんのだ……。

 ……。

 いや、まぁあいつの言うとおりなんだけど……。

 結局、あの時言えなかった言葉は今も言えずじまいだ。

 ……確かに、僕はヘタレだ。


 μβψ


 駅前についた。

 いつものところに行くと、やっぱり真白ましろさんは先に待ってくれていた。

「やっほー」

「……」

「ん? どうかした?」

「ああ、いや……前から思ってたけど、真白ましろさんって日曜日も制服着てるよね? って思って」

「え?」

 真白ましろさんは制服だった。

 今日は日曜日だ。

 日曜日に会うのは初めてじゃないんだけど……そういや前も制服着てたよな。

 これは本当に何気ない疑問だったんだけど、彼女はなぜか非常に狼狽した様子を見せた。

「そ、それはその……制服が好きなの! ほら、女子高生でいられるのなんてたった三年間でしょ!? だから毎日着なきゃ損じゃない!?」

「え? う、うん。そう、なのかな……?」

「絶対そうだって! だからわたしは寝る時も制服着てるし!」

「それは着替えようよ!?」

 たまには私服姿の彼女も見てみたいなぁとは思ったけど、それはさすがに恥ずかしくて口に出せなかった。

「そ、それより今日の映画って何時からだっけ?」

 露骨に話題を逸らされた。

 色々と不思議には思ったけど、僕は深くは踏み入らなかった。何か理由があるんだろう――と、漠然とそう思うに留めた。

「二時半くらいだったね確か。その前にご飯でも食べようか」

「うーん、ええと……」

 真白ましろさんは困ったような顔をした。

「ん? どうしたの? もしかしてお腹空いてない?」

「う、ううん!? そうじゃないの! いや、だっていっつもお金出してもらってるから……映画だってそうだし……」

 真白ましろさんは縮こまった。

 ……ああ、なるほど。遠慮してるのか。

 こういうところけっこう奥ゆかしいよな、真白ましろさんって。母さんと夢子に彼女の爪の垢を煎じて飲ませてやりたいところだ。

「全然気にしなくていいよ。それにっていうのは男がお金出すものだしね、ははは」

 と、雑誌に書いてあった『女の子にモテるための言葉』をそのまま言った。

「え?」

 真白ましろさんが驚いたように顔を上げて、

「えっと、これってデート――なんだ?」

 と、ちょっと上目遣いに僕を見た。

「え? う、うんまぁ……」

「……」

「……」

 妙な沈黙が舞い降りた。

 おい!!

 自分で言っておいてなに照れてんだ、僕は!?

 何か言えよ!?

 恥ずかしくて悶絶しそうだった。

「ふーん……そっか、デートなんだ」

「え?」

 真白ましろさんが僕に近づいてきて、にっ、と悪戯っぽい笑みを見せた。

 心臓を鷲づかみにされた。

「じゃあさ、手繋がないとね」

「え? え?」

 戸惑っている隙に手を握られた。

 ひんやりとした手の感触がしっかりと伝わってきた。

「ほら、いこ!」

「う、うん」

 真白ましろさんが僕の手を引っ張って歩き出した。

 僕はやや控えめに、彼女の手を握り返した。


 μβψ


「う、うう……」

 映画館から出てくると、真白ましろさんはボロ泣きしていた。

「……ティッシュいる?」

「いる……」

 ティッシュを渡すと、真白ましろさんは目元をそっと拭いた。

「本読んで中身は知ってたけどさ……でもやっぱりダメだった。耐えきれなかった……」

 ずびー、と真白ましろさんは鼻を啜った。

「そんなに良かった?」

「そりゃもう……ソータくんはもしかしてそうでもなかった?」

「い、いや? そんなことないよ?」

 確かに内容は面白かったと思う。いい話だった。

 ……ただ、原作が母さんの小説なんだよな。

 これまで何となく避けていたから、母さんの作品をちゃんと見るのはこれが初めてだった。

 普段の母さんからは想像できないような内容だった。

 ただ……僕には主人公とヒロインが途中から母さんと父さんに見えて、どうしても気が散ってしまったのだ。親の恋愛を見せつけていられるような気分になって、どうしても物語に入り込めなかった。いや、話はすごく良かったと思うんだけど。

「……それにしても、思ったより映画終わるの早かったね」

 少し中途半端な時間だった。

 夕飯というにはまだ早い。感覚的にはついさっきお昼(マック)を食べたような感じだ。お腹はあんまり空いてなかった。

真白ましろさん、どこか行きたいところある?」

「行きたいところ?」

「うん。またゲーセンとか行く?」

「うーん、ゲーセンも行きたいけど……」

 真白ましろさんはちょっと悩むような顔を見せた。

 ……行きたいけど遠慮してるのかな?

 そう思っていると、

「……その、一つ行きたいところはあるんだけど……」

 と、何やら遠慮がちにそう言った。

「どこ?」

「えっと……ソータくんの家」

「ああ、僕の家ね」

 そうか僕の家か……。

 ……。

「え? 僕の家?」

「う、うん。ダメかな……?」

 上目遣いに見られた。

 いや、ちょっとそれやめて!? 断れなくなるから!?

「それはいいけど……あ、もしかしてまた写真見たいとか?」

「う、うん。それもあるけど……」

「けど?」

「たまにはわたしの方から、ちゃんとお返ししたいなと思って」


 μβψ


「ただいまー」

 夢子が友達の家から帰ってくると、玄関に真白ましろの靴があった。

(あれ? これって確か……真白ましろさんの靴だよね? いま来てるんだ)

 夢子はリビングに入った。

「あ、夢子ちゃんお帰りなさい」

 キッチンに真白ましろが立っていた。

「……へあ?」

 死ぬほど間抜けな声が出た。

 しかし、彼女が混乱するのも無理はなかった。

「ごめんね、まだ出来るまでもう少しかかるから、もうちょっと待っててね」

「え、ええと? あの、真白ましろさん? それはいったい何を……?」

「何って、もちろんご飯を作ってるのよ」

 それは見れば分かった。

 夢子が聞きたかったのは、なぜ真白ましろがそんなことをしているのか、だ。

 だが、真白ましろはさも当然のような態度だった。

 あまりにも堂々としているので、夢子はそれ以上何も言うことができなかった。まるで自分の家のキッチンに立っているかのようだ。

(……え? なに? これどういうこと? いったい何が起こってるの……?)

 そこでふと、夢子は気づいた。

 よく見たら頼子がテーブルに座っているではないか。

 その様子はまるで借りてきた猫のようだった。

 夢子は慌てて母の真向かいに座った。

「ちょっとお母さん!? これどういうこと!?」(小声)

「知らないわよ!? 気がついたらもうこうなってたのよ!」(小声)

 二人は小声で言い合った。

「ソータくん、野菜切れた?」

「う、うん。まぁいちおう……」

「え!? なにこれ!? 切るの下手すぎない!?」

「ご、ごめん包丁ってほとんど使ったことないから……」

 というか、よく見たら兄もいっしょに料理していた。

「……」

「……」

 いったい何が起こっているのか。

 母と娘は、ただお互いに顔を見合わせることしかできなかった。


 μβψ


「お待たせしました。どうぞ召し上がってください」

 テーブルの上には『ザ・和風』な料理が並んでいた。

「……」

「……」

「……」

 僕ら家族はテーブルの上を凝視していた。

 まるで蜃気楼の向こうにある幻を見ているかのようだった。

 ……すっげえうまそう。

 まるで高級料亭にでも来たみたいだ。

「……あれ? どうかしました? あ、もしかして和食はあんまり好きじゃなありませんでした……?」

「う、ううん!? そんなことないわよ!? いただきまーす!」

 母さんは我に返り、慌てて料理に手を付けた。

 ぱくっ。

「うっま!? なにこれ!? めっちゃうまい!?」

「そうですか? お口に合ったなら何よりです」

 真白ましろさんはほっとしたような顔をした。

 それにしても、母さんたちの前では相変わらずのお嬢様っぷりだ。人前ではいつもこんな感じなのだろうか……? 僕と話してる時とは何だか別人みたいだ。

「じゃあ、わたしも……」

 夢子も料理に手を付けた。

 ぱくっ。

「うま!?」

 母さんと同じように飛び上がるほど驚いていた。

 ……そんなにうまいのか?

 確かにとても美味しそうだ。

 しかし、さすがにちょっと大袈裟では……。

 ぱくっ。

 うめえええええええええ!!!!!!!!

「どう、ソータくん?」

 ハッと我に返った。

「……いや、めちゃくちゃ美味しいよ。すごいね真白ましろさん。こんなに料理上手だったんだ」

「ふふん、でしょう? 料理はけっこう自信あるの」

 真白ましろさんはえっへんと胸を張った。

 それから、彼女は母さんに向き直った。

「頼子さん、わたしもご相伴にあずかってもいいですか?」

「そりゃもちろんよ。ていうかあなたが作ったんだし」

「ありがとうございます」

 真白ましろさんは上品に微笑んで、

「それじゃ、頂きます」

 と、上品に手を合わせた。

 それは正直、見蕩れるくらい綺麗な動作だった。

 品格。

 そう、品格が違う。

 圧倒的なお嬢様オーラだった。

「……」

 がっつくように食べていた夢子がおもむろになった。どうやら真白ましろさんと自分を見比べて、かえりみるところを感じたようだ。

「いやあ、こんなに料理が美味しいとビールも美味いわね!」

 がはは、と母さんはビールを片手に笑った。

 ……こっちは特に省みるところはなかったようだ。

「あ、真白ましろちゃんも飲む?」

「いいんですか?」

「いやダメだよ!?」

「もちろん冗談よ」

 と、母さんは笑った。

 冗談に聞こえないんだよなあ……。

「そう言えば、昼間は何してたの?」

「あ、はい。映画を見てました」

「へえ、なんて映画?」

「限りなく愛に近い恋、っていう映画だったんですけど……」

「ああ、わたしの小説のやつじゃん」

「……え?」

 真白ましろさんが固まった。

 ……ああ、知られてしまったか。

 彼女はすぐには言葉が理解できなかったようで、ちょっと混乱していた。

「えっと、どういうことですか?」

「いや、わたしこう見えても小説書いてんのよ。ペンネームは葉月京子っていうんだけどさ」

「……え?」

 真白さんは一瞬呆けてから、

「ええええ!?!?!?」

 と、本当に飛び上がるほど驚いていた。

「そうなんですか!?」

「うん。まぁ本名は頼子なんだけど、一文字変えて京子ってしてんの。京都の〝京〟ね」

「ソータくん!? 何で教えてくれなかったの!?」

「あ、いや……夢を壊さないほうがいいかな、って思って……」

「ん? 蒼汰? それどういう意味?」

 笑顔で睨まれた。

 はは、と曖昧に笑って目を逸らしておいた。

「うそ、やだ、どうしよ……!? わ、わたし先生の本、全部持ってます!!」

「いやいや、やめてよ先生なんてさ~そんなキャラじゃないから、わたし」

 と言いつつ、母さんの顔は満更でもなさそうだった。

「そう言えばお母さん、前から思ってたけど何で京子なの?」

 夢子が訊いた。

 母さんは遠い目をした。

「……そうね。色々と深い理由はあるんだけど……まぁ一言でいえば」

「いえば?」

「〝京〟っていう字がかっこいいから……かな」

 理由が浅すぎた。

「今日の映画もすごくよかったです! あ、でも原作とちょっと違うところがあって、わたしは原作のほうが――」

 真白ましろさんはかなり興奮したように喋った。

 母さんも何だか最初は照れ臭そうだったけど、やっぱり作品を褒められるのは嬉しいようだった。

 今日の夕飯はとても賑やかだった。

 我が家の夕飯が四人になったのは、本当に久しぶりだった。

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