第14話 追憶

 ミカ、カナ、そしてリサ博士の三人の会話を聞きながら、ジョーは、自分の内に大事に抱くある映像を思い起こしていた。それは、透き通る青い目をした女性の淡い記憶。白く和やかな女性の笑顔が、寒い暗闇の中に大きく映し出され、ジョー本人は柔らかな毛布にくるまれていて、毛布の中で生まれる温香が女性が微笑むたびに心地よくジョーの鼻をかすめる。


 ジョーは、いままでそのイメージのことを誰にも話したことはなかった。心に秘めた繊細な何かが、決して合容れることのない面倒で無責任な他人の恣意に荒らされることを畏れていた。


 そのイメージはおそらく、かすかに残る母親に関する記憶に違いないと、ジョーはいままでずっとそう思っていた。


 だが実際には、実の母親であるリサ博士の目の色はダークグリーンで、奥底に沈むような重感があった。さらに、鼻や口そして顔全体の輪郭や雰囲気も、ジョーの中にあるそのイメージとは全く異なるものであった。


 元々そのイメージは、ジョーがまだ赤ん坊だったころに見たリサ博士の顔とその表情を表すものだったのだろう。しかし、時が経つにつれて記憶が薄れ、その薄れ欠けた部分が、何かしらの美化の意識が付与されつつ、置き換えられていったのかもしれない。


 ジョーは四歳まで養護施設で育てられ、五歳の誕生日を迎える前に、ロマノ・キリイとメリー・キリイの夫婦のもとに養子として引き取られた。


 施設にいた頃のジョーは、たまに職員たちからもその存在が忘れられてしまうほど、ほとんど手間のかからない物静かな子供であった。


 あるとき、ブッシュ夫婦がその養護施設にやって来た。ブッシュ夫婦は、その養護施設の園長と会うために、その養護施設を時折訪れていたのである。ブッシュ夫婦には子供が授からなかった。二人ともすでに50歳を越えていて、子供を持つことを諦めていた。


 いつも通り二人が施設に到着すると、園長室に行って園長に挨拶をし、ロマノ氏は園長と話をするために園長室に残り、メリー婦人は職員の一人と一緒に施設を見学しに行った。そのとき、子供たちが遊ぶ部屋をのぞいたメリーが、一人で隅にいたジョーに気付き、その瞬間、何かある種の不安な思いにかき立てられ、思わず話かけてしまったのだった。


 そのころのジョーは一人でラジオを聞くのが日課のようになっていた。


「こんにちは」


 ジョーが振り向くと、そこには、職員たちが普段身につけているものとは明らかに異なる、いかにも肌触りがよさそうで落ち着いた色合いの洋服をきた婦人が、かがみ込むように腰をおろしていた。それまで見たことのない優しい大人の笑顔が、ジョーの警戒心を一瞬で解いた。


「おばちゃん、だれ?」


 メリーは、おばちゃんと言われて内心ちょっとむっとしたが、すぐに、気品の漂う白く明るい表情をみせた。


「おばちゃんはね、メリーっていうのよ。あなたは?」


「僕はジョー、おばちゃんは『べっぴんさん』だね、えへへ」


「まあ、こんな小さい子がそんな言葉を使うなんて、いったいどこで覚えてきたの?」


「このラジオで言ってたよ」


「ラジオで?ぼうや、おいくつ?」


「四歳だけど、僕はおばちゃんのネンレイは聞かないでおくね」


「私の年齢ですって? ぼうや、そういうこともラジオで聴いたのかしら?」


「うん、女のひとにネンレイをたずねるのは失礼なんだって」


「そんなことを言っていたの。確かに、女性は自分の年齢をあまり言いたくないものよ」


「ふーん、でも僕みたいな子供にはよくこの質問をするよね」


「ふふふ、そういえばそうね。相手のことだけ聞いて、自分のことは言わないのは不公平よね。よし、それじゃおばちゃんの年齢も教えてあげる。おばちゃんは五十三歳よ」


「五十三歳? へえーぼくより四十九歳も年をとっているんだ。すごいね」


「え!? 坊や、引き算ができるの?」


「引き算なら、そこにある本を読んだから知っているよ」


「本を読んだですって?」


 メリーは、近くの本棚においてあった算数の教科書を手に取った。


「これを読んだの?」


 それはその施設から小学校に通っている上の子供たちが使い古したものだった。


「うん、まあ読んだのはそれだけじゃないけどね」


「これだけじゃないって、じゃあ他には? ほかにどんな本を読んだの?」


「そこにおいてある本はもうほとんど読んだよ。もっと読みたいけれど、園長先生に言ったら、これ以上本はないからラジオでも聞いていなさいって」


 メリーはその本棚の本にざっと目を通してみた。そこには幼児用の絵本から、小学五、六年生が使う算数や国語などの教科書が乱雑に並べられていた。


「坊や、ごめんなさい。おばちゃん、ちょっと用事を思い出したの。また後でお話しましょう」


 メリーはさっと髪の毛と身なりを整えると、慌ただしくその部屋を出て行った。その日、ジョーのもとにメリーは戻ってこなかった。


 しかし、それから一月ほど経ったころ、ジョーは再びメリーと合うことになった。ただし今度は施設ではなくメリーとロマノの家で。ジョーはキリイ夫婦の家で育てられることになった。


 メリーがジョーと話をしたその日、ジョーのいる部屋を出ていったメリーは、わずかではあるがはっきりと分かるある種の剣幕をもって園長室に飛び込んでいった。そのとき園長は、ロマノ氏と、数人の職員たちとお茶を飲みながら談笑していたのだが、メリーの突然の入室が、彼らの会話だけでなく、小気味よく調和していた複数の恣意のリズムをも斬として遮った。


 その施設の園長は、多少気弱なところはあるものの、本質的に温厚な人物で、どのような場面においても、その雰囲気に対してほどよい従順な物腰で振る舞うことができた。園長は、メリーの登場により、何かしらの反目感情が生まれることを察し、その部屋の雰囲気を早急にとりつくろうとした。


「これはこれは、メリー婦人、いかがなされました? 何か急なご入り用でですか?」


 園長は、大きく見開いた親愛の目を向けてメリーを迎えた。さらに、園長に従うようにロマノが歩み寄った。


「メリー、いきなりどうしたんだ? ノックもしないで」


「ああ、あなた! 私、今日というこの日に巡り合わせてくれた神様に心から感謝

いたしますわ!」


 その言葉を聞いた園長とロマノは、お互いの視線を合わせながら、自分は何も知らないぞということを確認するように、メリー越しに首を傾げた。


 メリーは、いかにも喜びに満ち溢れているという表情で、園長に向き直って言った。


「園長先生、さきほどの私の非礼をどうかお許しください。もし、気がお済みにならないというのでしたら、いまここで私に罰を与えてくださってもかまいませんわ」


「あなたに罰を与えるですって? どうかそんな恐ろしいことを言わないでください。とりあえず落ち着いて、どうぞこちらにおかけになって下さい」

 園長はメリーをソファーに座るように促した。


「立ったままで結構ですわ。ああ、気を悪くなさらないでください。今はとても座って話ができるような状態ではないだけですのよ。でもそうですわ、先生のおっしゃる通り、私は落ち着かなけれなりませんわね。そうでなければ、今さっき示されたばかりの私への天啓がどこかに行ってしまうかもしれませんもの」


 ロマノはメリーの横に寄り添うように立ち、メリーの手をそっと握りしめると、おそらく普段そうしているような柔らかい接吻をその手の甲にゆっくりと重ねた。


「子供たちの部屋で何かあったのかい?」


 いつもと変わらない、ロマノのもつ雰囲気と独特の間の取り方、そしてその唇の感触とが、メリーの気持ちを少しづつ和ませていった。


「あなたはいつもそうして優しくしてくださるのね。ごめんなさい。私、取り乱してしまって。もう大丈夫です。ありがとう」


 メリーは目を閉じて、顔を下にむけたまま深呼吸らしき動作をした。そして園長の方にくるりと向き直った。


「園長先生、私、是非お願いしたいことがございますの!」


「お願いですか? もちろん、私ができることならどんなことでも喜んでやらせていただきますよ」


「私の意図を真にご理解してもらうためにはじめに申し上げておきます。もし、私の願いを聞き届けてくださるのなら、寄付金の額を今の二倍、いいえ三倍にさせていただきますわ!」


「寄付金を三倍にですって!?」


 園長は驚き、なにか助けを求めずにはいられない懇願の意を含む束のような視線をロマノに送った。


「メリー、ちょっと待ちなさい。いきなり何を言い出すんだ。これ以上私たちを混乱させないでくれないか。もうすこし内容を順序立てて……」


 しかし、園長はロマノが言い終わるを待ちきれずに、


「奥様、そしてロマノ殿、わたくしは、いえ私を含めたこの施設の職員全員は、これま十年にもわたるあなた方のご厚意には深く感謝しております」


 と、丁寧な口調を保ちながら、メリーとロマノにこれまで一度も見せたことのないような不安な表情を見せた。


「しかし、その一方で、わたくしどもにはいつも気がかりにしていることがありました。それは、温情の厚いあなた方に、一体どうすればそのご恩返しができるのかと。少なくともなにかその御心に見合うようなもてなしができないだろうかと。そして結局のところ、私どもそうした思いは、過ぎ去っていく時間の中にただむなしく没しているという次第なのです」


 園長は、メリーとロマノの視線を意識しながら、部屋の中をゆっくりと歩き始めた。


「この施設は、私の祖父が立ち上げてからおよそ四十年が経とうとしております。そのため、施設のところどころにお見苦しい部分が生じていることも重々承知しております。ロマノ殿や奥様にこうしておいていただくたびに、何か不快な思いをされるのではないかと、危惧しなかったことは一度もありません。しかし、限られた予算の中では、どうしても優先順位を設けなければなりません。ここで最優先されるべきこととは、子供たちの成長を支えることに他なりません。つまり、私どもの主たる役目とは、彼らのために、栄養のある十分な食べ物と、暖かな衣服、そして安心して眠ることのできるベッドを『常に』用意しておくことなのです」


 自身の抱く全ての正論をを言い終えたという園長の安堵の表情を確認したメリーは、咳払いを一つして丁寧に話を切り出した。


「園長先生、この施設に不快な思いを抱いたことなど私は一度もありませんわ。むしろこの施設には質素な慎ましさと、どこか懐かしい安らぎさえ覚えます。何か誤解されているようですわね。私がお願いしたいことというのは、この施設の経営に関することではありませんわ」


「それでは一体?」


「この施設に、ジョーという四歳の男の子がおりますわね?」


「ジョー・カナエですか? あの子があなたに何か言ったのですね?」


「いいえ、そうではありません。ご心配なさらずに、あの子はとてもいい子ですわ。話をしているととても楽しくて。どうして今まであの子の存在に気がつかなかったのか、不思議なくらいです」


 メリーはゆっくりと窓の方に歩いていき、窓から外を何かうれしそうに眺めたあと、ロマノと園長の方にくるりと向き直って言った。


「あなた、そして園長先生、私は今、是非あの子を私たちの養子として迎えたいと思っておりますの」


「なんだって!?」

 ロマノは目を大きく見開いてメリーのもとに駆け寄り、メリーが胸の前で祈るように組んている両手をさらに包み込むように、自身の両手を静かに添えた。


「メリー、君は本気で言っているのかい?」


「ええあなた、もちろんですわ!」


 メリーが毅然として見上げたその視線は、ロマノの心情に直に訴えるものだった。メリーは、その世界では名の通った資産家であり、その祖父と父親が手がけていた事業の成功よる莫大な遺産を相続していた。


 メリーは、その莫大な財産の使い道については、夫であるロマノに相談することもあったが、最終的には全てメリー自身が決めていた。この養護施設への寄付も、ロマノの従兄弟にあたる園長が営んでいることをメリーが知ったことををきっかけとして始まったものだった。


「ジョーを養子にですか……うーん」

 園長は、両腕をL字状に組み、右手で顎をなでながら、少し遠くをみるような目をして視線を下に落とした。


「何か問題がありますの?」


「実はあの子は身よりのない孤児ではなく、ちゃんと母親がいて、いずれ彼を迎えにくるかもしれないのです」


「まあ、それはいつですの?」


「分かりません」


「分からない?」


「ええ、彼女の話では、今の仕事が軌道に乗ったら必ずあの子を引き取りにくると言っていました。あの子がここに来たばかりの頃は、母親は少なくとも一ヶ月に一度は、あの子に会いにやって来ていたのですが、何かあったのか、この一年くらいは全く姿を見せていません」


「母親と連絡は取れますの?」


「残念ながらこちらから直接連絡することはできません。ここに初めてきたときに教えてもらった住所には現在はもう住んでいないようです」


「なぜ分かりますの?」


「何度が手紙のやりとりをしましたからね。でも最近、全く音沙汰がないことがきにかかりましてね。こちらから手紙を出したのですが、送り返されてきました」


「どこかに引っ越してしまったというのですか。それは困りましたわね」


「ええ。とはいえ約束は約束ですので、私どもとしましては、母親があの子を迎えに来るのを待つより他に仕方がないものでして」


「なるほど、ご事情はよく分かりましたわ」


 メリーは、額に手をあてがいながら、部屋の中をゆっくりと歩きはじめた。そして、何か意を決したように、すっと立ち止まった。


「園長先生、養子の話はまたの別の機会にということにして、とりあえずジョーをうちで預からせていただけないでしょうか?」


「預かる? あの子をどうするおつもりですか?」


「あの子に今必要なのは、きちんとした教育ですわ」


「教育? しかし、ここでも学校に通わせることはできますが」


「私の言っている教育とは、親から子へ、さらにその子から孫へと代々引き継がれていく相伝的な家庭教育のことですわ」


「相伝的な家庭教育?」


「私はそれを教育の連鎖とも言っております。その家の教育方針を代々引き継いでいくことによって、その方針はいつしか、より洗練された教育の波となって、それを受けた者の中で大きく結実するのです。もちろんそれは、学校でのトップダウン式の教育でなくて、その子供の性格や能力を見極めて行う教育です。他人任せにするのではなく、いつもそばにいて、誰よりもその子のことを理解している存在にしかできない、非常な労力と時間と忍耐が要求される一方で、もっとも真摯的といえ

る教育です」


「メリー、君があの子に勉強を教えるというのかい?」


「ええ、そうです。今の私にはそれができます」

 メリーの目が大きく開かれて、若々しい光を放った。


「ですが、ジョー本人がなんていうか」

 園長は、なおも心配そうな顔をしていた。


「ジョーには私から話をします。もし母親が迎えにきたときは、すぐにジョーを母親のもとにお返しいたします。そのことについては今はっきりとここで約束致します。ただ、子供の成長は待ってはくれません。この教育はすぐにでも始めなければなりませんの」


「あなたほどのお方がなぜそうまでしてあの子に気をかけてくださるのか、私には分かりません。しかし、それほどまでの信念をお持ちなのであれば、私どもにあなたの意向を邪魔する権利などございません。あとはあの子次第ですが、まだ幼い子供にそうした決断をさせるのは酷というものです。どうでしょう? ここは、あの子の母親に頼まれたということにしてみては? あの子は母親がここに迎えにきてくれると思っています。おそらく、何か是非ともそうしなければならない理由でもないかぎり、ここを離れようとはしないでしょう」


「なるほど、そうですわね。嘘をつくのは心苦しいけれども、今はそれよりもあの子のために優先しなければならないことがございますもの。園長先生、あなたのお心遣いに深く感謝いたします」


「ええ、ええ、是非ともそうなさいませ。それと、さきほどの寄付金のお話ですが……」


「もちろん、一度口にしたことは守ります。これまでの額の三倍を寄付させていただきますわ。ここにいる子供たちと職員の方のためにお役に立ててください」


「ああ、何と言ったらよいか、厚かましく催促をしてしまったかのようで本当に恐縮です。しかしながら、今は奥様のご厚意に素直に従わせていただきたいのです。実のところ、この建物の床や屋根には、子供たちが安心して過ごすことのできない危うい場所が幾つもあります。とりあえずは、そのお金を、この施設の修繕費用に使わせていただきたいと思います。この施設が今よりきれいになれば、子供たちの気持ちももっと明るいものになるでしょう。本当にありがたい限りです。心より感謝致します」


 園長とキリイ夫妻との間にそうしたたやりとりがあってから、ジョーは、キリイ夫妻の家に移り住むことになった。園長の心配とは裏腹に、ジョーの説得はそれほで難しいものではなく、ジョーは婦人の申し出に案外素直に応じた。ジョーにとってその施設はそれほど居心地のいい場所ではなかったのである。


 勿論、キリイ家にやってきたジョーは、初めのころはかなりの戸惑いを覚えることになった。いくつもの大きな部屋と、何人もの召使いを抱え、どの部屋にも、それまで見たことのないみごとな絵画や彫刻といった多数の美術品がほんの少しの埃も纏うことなく飾られており、食事のときには、専属のコックが非常な手間をかけてつくった大胆かつ繊細な料理が集うといった、それまでいた施設とはまるでちがう世界がそこにあった。


 そうした全く新しい環境のもとで、メリー自身が親となり、教師となり、ジョーにつきっきりであらゆる学問、思想、マナーなどを教え込んだ。


 メリーの教育方法は、単なる頭ごなしのシステマチックなものではなかったが、それでも非常に厳しいものであった。興味のあることを自由に学ぶことが好きなジョーは、初めのうちはメリーのやり方にかなり抵抗した。


 しかし、メリーはそれでも決して諦めることなく、その情熱をジョーに捧げていった。そうしたメリーに促されながら、だんだん彼女の意図を理解できるようになると、最終的にはジョーは自らの意志で勉強を進めて行くようなっていった。メリー自身もまた、その母親からそうした厳しくも、意味のある教育を受けて育てられていた。養護施設で初めてジョーと話をしたときにメリーが思った通り、ジョーは飲み込みが早く、教えたことをどんどん吸収していった。


 教育熱としてそそがれる愛。血のつながりがなくとも、ジョーとキリイ夫婦との絆は、ジョーの人生に必要不可欠なものとなっていた。


 ジョーは両親がいないのを寂しく思うことはあっても、そのことを口にすることはなかった。メリーの教育によって日々成長するジョーの知性が、その心の輪郭を、より聡明なものへと導いていたのである。母親はおそらくもう自分を迎えには来ないだろうということを、その頃のジョーには何となく分かっていた。


 メリーとロマノの惜しみない温情がジョーの日々を力強く支え、いつしかジョーの心身の成長は、この老夫婦にとってこの上ない生き甲斐となっていた。


 このころロマノは、何かお話をしてくれとジョーにせがまれると、大抵は宇宙のことについて話をしてくれた。ロマノが四十一歳のとき、当時一等空士のパイロットだった彼は、ヨシュア国の宇宙開発機構が不定期で募集する宇宙ステーションクルーに応募して、見事に選抜試験をパスし、宇宙パイロットとして半年間ほど宇宙ステーションで様々な仕事をしていたという経験を持っていた。


「私が宇宙ステーションにいたとき、ちょうど仕事が一区切りついて作業室に一人きりでいたことがあってね、そのとき私は、このまま無重力空間に身をゆだねて静かに目を閉じてみようと、何気なくそう思ったんだよ。そうして全身の力を抜いて目を閉じたら、感じたんだ。あのときの感覚を口で説明するのが非常に難しいんだが……そう、あれはなにか、我々がいる次元世界が、どこか遠い遙かな次元につながっているような、そんな感覚だったよ」


 こうしたロマノの宇宙の話を聞くときのジョーはいつも、その目の輝きを絶やすことなく、真剣に、それでいてとても嬉しそうだった。


 十八歳になったジョーは、自らの意志でその姓をキリイに変えた。


 ロマノの勧めもあって、ジョーは希望していた国立航空宇宙大学に進学した。その大学を4年で卒業して学士号を取得した後、ロマノのいろいろな方面での尽力もあって、幸運にも、航空宇宙局へ配属されることが決まったのである。


 しかしこのとき、ジョーの人生にとって大きな影響を与える出来事が相次いで起きた。メリー夫婦の破産と病死である。メリーの資産を運用・管理する資産運用管理会社が、その資産を不正に流用していたことが発覚したのである。


 メリー夫婦がそれまで多大な信用を寄せてきたその会社は、実は何十年にもわたって虚偽の決算報告書を作成し、メリー夫婦を巧妙に騙し続けていたのである。その後、メリー夫婦は破産してしまった。


 これに大きなショックを受けたメリーは、心臓発作に襲われてあっけなくこの世を去った。そして、その数ヶ月後、メリーの後を追うようにロマノも亡くなってしまった。ロマノの死因は、くも膜下出血であった。ただ、流用されていたとはいえ、それはあくまでも莫大な資産のうちの一部に過ぎず、なぜ破産に至るまでになってしまったのかは不明であった。


 キリイ夫妻が相次いで亡くなり、ジョーが彼らの遺品を整理しているとき、メリーの机の引き出しから百通近くの手紙を見つけたのである。その手紙のいくつかは、いわゆる興信所が差出人となっており、残りの手紙の差出人は全て、リサ・カナエと記されていた。


 その名前をみた瞬間、ジョーは、それらの手紙が自分の母親から送られていたものであることをすぐに察した。


 メリーは、ジョーの母親に関する調査を秘密裏に行っていたのである。消印の日付順にその手紙を読み進めていくと、興信所からの手紙の中に、ジョーの母親であるリサ博士の所在を突き止めたことが書かれてあるものがあった。


 そしてそれ以降は、メリーとリサ博士とのやり取りを綴った手紙が続いていた。メリーからリサ博士にあてた手紙は、家や学校でのジョーの様子、成績、友人関係などを細かく記した報告書のようなものがほとんどであった。一方、リサ博士からメリーにあてられた手紙は、メリーとロマノに対する感謝の気持ちを表しているものが大半を占めていたが、なぜかその文面からは、母親の情愛というものをほとんど感じ取ることができなかった。本人に会いたいという文言が一切なかったためか、かえって奇妙な違和感を覚えさせるものであった。


 リサ博士の手紙によって、ジョーは、リサ博士の所在を知ることができた。そのため、会いに行こうと思えばそれもできたが、ジョーは行かなかった。もちろん、メリーやロマノが生きていればそうしたことも比較的容易にできたかもしれない。しかし、もはや成人したジョーにとって、それはあまりに独りよがりで幼稚な行動であるように思えた。ジョーもまた、自分の意図することとは無関係な諸事情が何かといつもまとわりついて、それらに責任をもって逐次対応していかなければならないという、そういう年齢に達していた。


 ただ、ジョー本人にとっては、そうした大人としての責務に追われるようになったことだけが、その理由ではなかった。


(今さら会って、どうなる?)


 その問いに対する明確な答えを、ジョーはどうしても見つけることができなかったのである。そのためジョーは、母親に会うことは勿論、母親に再会したときの心の準備さえも、まったく考えていなかった。


 しかし、まだ意識が薄く、甘いまどろみの中にいる状態で、ミカとカナ、そして母親であるリサ博士の話を聞いていたそのときのジョーは、自分の中に、それまで経験したことのないある強烈な思いが急に沸き起こって来るのを感じていた。


 本来生まれるはずのない予定外の人間である存在。父親はその存在すら知らず、そしておそらくは意にそぐわないからと母親にも見捨てられ、しかし結局は父親も母親もいつの間にか自分のそばにいるという現実。そうした事実が、ジョーの中の何かを押し上げていた。それは、もはや自分の中で抑えることのできない異常なほど複雑な感情で、知らず知らずのうちに蓄積されてきたものが、キャパシティを越えてあふれ出てきたような、業とした感じであった。


 そしてそのとき、ジョーは、そのおでこをカナにはたかれたのである。

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