ザッハブルクへ II

「えぇ、ええ。大丈夫……」

 少しの沈黙の後、男は何かを落ち着かせるように虚空を撫でた。次に、ん〜?と唸り、逆の手でセヴォンを抱き寄せた。

「!?」驚きと寒気と大声を抑え、冷静に尋ねる。「なっ……だ、大丈夫ですか?」

「ありがとうございます、私の子鹿ヒルシュ。暴漢はもう居ませんか。護衛の方たちは無事ですか?お前はいつも私を助けてくれますね。よしよし……」

 ──あぁ、確実に子鹿と勘違いされている。どうやら、この男は寝惚けが凄まじいタイプらしかった。面倒な奴に声をかけてしまった──セヴォンはそう後悔しつつも、男が間違いに気が付くまでとする事にした。

「ところで、今日は少し毛並みが……」そこまで言って、男はようやく目を開く。男の眼前には、子鹿がきょとんとした顔で立っていた。「……ヒルシュ?」


「…………」

「…………」


 ひとつ鹿の鳴き真似でもしてやろうかと思ったが、セヴォンはそこまで羞恥心と仲が悪くなかった。いいから離してくれ、と思いながら顔をあげると、今や完全に眠りから醒めた男とばっちり目があった。一通りの沈黙の後。男はようやく状況を理解すると、うわあ!と叫んでセヴォンを投げ飛ばした。


「ああっ、すみません!つい!」

「……意外と怪力ですね……」

「怪力?私がですか?」

「この状況で、貴方以外に誰がいるんですか」

「す、すみません。自覚がなかったもので……」


 ◇


「……それで、どうしてこんな所に?」

「えーっと……」男は少々迷いながら告げた。「していたんです。襲われたので。帰り道は分かります」


(……面倒なことになってきたな……)


 もう早速会話をやめようと思ったセヴォンだったが、男は語るのをやめなかった。

「3人でした。こちらも私が1人、護衛の方が2人で、あわせて3人。ここは我々に任せてと言わましたので、急いで此処まで……あの方達が無事だといいんですが。ところで、此処、私のお気に入りなんです。なんだか心がポカポカしませんか?」

「……まあ」

「ふふ……兎にも角にも、起こしてくださったのが貴方でよかったです。ありがとう、知らない人!では!」

「えっ……」男は颯爽と立ち上がると、セヴォンに手を振ってあらぬ方向に歩き出した。「いや、待ってください。何処へ行くつもりですか?そっちは崖ですよ」

「あら、そうでしたか。では、崖の下に王国ザッハブルクがあるのですね。私が向かう所をそう呼ぶのだと聞きました。……小川の中にある国かぁ、楽しみだな」


「……」


 セヴォンは何か言いかけて、やめた。あまりにも常識知らずと言うか、なんと言うか……とにかく、これ以上話しても無駄だと思った。


「……私も着いて行きます。貴方、見てて危なっかしいので」

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