過去回想【1】


 では、実際に女神を見た者はいるのか?


 そう問われれば誰もが返事に戸惑う。

 彼女の存在を証明できるのは、彼女が残していっただけなのだ。

 例えば、先ほどの途中下車。車内に残っていたのは俗に上流階級と呼ばれる人々だったが、彼らとセヴォンはそのような区分で分けられたのではない。今し方セヴォンが受けた、至ってシンプルな──女神による【美しいか否か】の判断が、セヴォンを列車から下させた。この世界に於ける【美しい】というのは、顔立ちや服装などを指す単語ではない。好きなもの、好きな人、趣味、心の持ちよう、言葉遣い、所作、癖。髪の色、咀嚼の仕方、親に対する態度、使用する香水。泣き方、笑い方、怒り方などなど──そのような馬鹿げた96箇条にも及ぶ判断基準により、人々は美醜を判断されていた。


 そのような観点から見れば、セヴォンの父親も被害者だと言えるだろう。


  ◆


 セヴォンの父親──名前をコリンと言う人は、かつて72箇条の項目を満たしていた。その心意気が評価され、貴族に成り上がった田舎の平民。何となく想像がつくだろうが、元が元なのでとにかく一緒に居ると疲れる──真の貴族とは言い難い、言うなればのような人だった。輝くだけ輝いて、どんどん地に落ちる馬鹿な。無論、悪い人ではないのだが。常に人の寄る離れるを気に留めて、満たしている項目の増える減るに一喜一憂する──そんな父親の背中を、セヴォンはいつも軽蔑していた。

 満たす項目の数が41になった頃。コリンは家族にも項目満たしを強制するようになった。


「みんなで幸せになろう!」


 ほとんど口癖のようにそう言っていたが、今思えばあれも嘘だったのだろう。母親は愛想を尽かして夜中に出て行ったし、コリンの満たす項目は減る一方だった。


「……主よ、私は……私は、ただ……」


 そうやって壁に向かって泣くだけの日もあった。

 そんな自分とは対照的に、着々と項目を増やしていく──日に日に美しくなっていく息子を前に、コリンは心を壊した。その後のコリンがセヴォンに何をしたかだなんて、ここに書くまでもないだろう。


  ◆


「……本当、思い出すもんだな」

『へ〜、こんなとこ来たことあんのかよ?』


 いや、とはぐらかしてセヴォンは森の中を進む。

 

  ◆


 裸足で、無我夢中で走っていた。

 何重にも絡まった蔦を掻き分けて、涙を浮かべながら駆け抜けた。梟と蝙蝠の目とに驚いて、何度もルートを変えた。まだ7歳だった。ブラック・サンタなどの怪異の類いは信じていたし、ましてや暗闇なんて無条件で怖い年頃だった。泣きながら、それでいて追手が来るかもと足を止めることはできなかった。


 服をひっかけた枝が巨大な手に見え、泣いた。

 落ちた池に浮かんだ枯れ木が口に見え、泣いた。


 そうして辿り着いた先に、一人の男が立っていた。それが例の校長で、その後、自分は拾われて……


 (……今、本を作れと言われたんだ)


 余計な事まで思い出して顔を上げると、いつの間にか森を抜けていた。


  ◇


 地図とコンパスを取り出して、現在の位置を確認する。磁針はクルクルと元気に回り出し、やがてその動きを止めた。──時に、この世界には魔法の力がある。と言っても「日常のちょっと面倒くさいことをさっさと済ませよう」程度に使われるのが常で、空を飛んだり敵を倒したりするのには使われない。難しい呪文を覚える必要もなく、したい事を念じながら手をかざせばそれで終わりだ。便利な力なのだが、それ相応の致命的な欠点──どんな悪漢でも派手に活用しない理由が一つある。


 

 以上だ。


 だから魔法を使って瞬間移動しようと考える者はいないし、長距離の移動しようと思えば大人しく鉄道を使う。お陰で物流や犯罪者の移動は手に取るように分かるのだが……まぁ、今はこれについてはどうでもいい。


(思ってたより少しだけ……いや、かなり南に出たな)


 どうやら行き先を変更する必要がありそうだ。

 セヴォンは近くの岩に腰を下ろすと、ペンのキャップを口で外して色々と書き込みはじめた。真っ先に赴くはずだった隣国・ザッハブルクは深い森に覆われている。天然の城壁と言うべきか、特にジュヴァンとの間のそれは広大だった。一度入り込めば、生きて帰るのは不可能。それこそ、鉄道で丸々迂回するくらいしか方法はなかったのだが──前述の通り、途中で降ろされた為に脳死でそこから突っ切ってきた。それでも、結構良い位置に出られたのではないか考えていたが、この読みが甘かった。セヴォンのいる地点からは城旗の影も形もなく、加えて「此処はどこだ」と特定できるものも特にない。


 まさか、──いや、自分がそんなミスをする筈がない。


 ただ、此処がどこか分からないのも事実だ。どうしたものかと髪を触っていると、いつの間にか離れていたルイが満面の笑みで戻っていた。


『なあ、驚くなよ。あっちに街がある』


 ルイが顎で指した先に目を凝らすと、確かに点々と家屋らしきものが見えた。更によく見てみると、色とりどりの布を乗せたロバや人、川らしき箇所で水汲みか何かをしている人影も見える。ルイが得意げに笑う。セヴォンは無視してトランクの中の冊子を開いた。


「……ドゥグナか」


  ─・─・─ ─・─・─ ─


 ドゥグナ。

 近年、国家を自称しはじめた僻地。

 邪神を信仰している。


  ─・─・─ ─・─・─ ─


『僻地だかどうだか知らねえけど、世界紀行の取材に来ましたーって言えば歓迎されんじゃねえの』


 そう助言するルイの瞳は何故か哀愁を帯びていた。

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