第5話 海に還る

 一体、どこで間違ってしまったのだろう。考えても考えても、答えは身体の中の嵐に巻き込まれ、波間に飲まれて消えてしまう。寄り添っていたはずの僕と彼女の波は、知らず知らずの間に、うねってぶつかり砕けた。いや、始めから、僕たちの波は重なるはずもなかったのだ。

 東京と言えば、東京タワーとスカイツリー、水辺ならばお台場の君と隅田川の僕、電車はJRと地下鉄で、だから待ち合わせはいつも面倒だった。君は地上に、僕は地下に。

 彼女から呼び出されて向かった夜の駅は、眩しくてきらびやかで。待ち合わせ場所で手を振った笑顔に、目が眩む。茉莉花の香りが僕の鼻先にまとわりついた。

「眩しくて目が眩む。膝を折って泣きたい」

「何言ってるの」

 けらけらと、心地よい声を上げて彼女が笑った。

 手を伸ばせば、彼女は当たり前のように僕の指を握る。その指に、とうに忘れてしまっていた指輪が光る。

 僕の脳裏で、ばらばらだった彼と彼女の波形が、ぴったりと重なっていく。よそよそしく離れてしまった波は大きくうねって、きっと二人の胸から、溢れるように零れ出したに違いない。流れ出た水は、混じり合い、互いに区別がつかなくなる。

 軽やかに鳴り響いた着信音に、彼女は僕の手を離して嬉しげに応えた。彼女の背中が、絡みつく茉莉花の匂いが、僕から遠離る。楽しげに弾む声が、僕を落ち込ませた。

 しばらく話をした後で、彼女は振り返り、僕にスマホを振ってみせる。

「ねえ、貴之が、久しぶりに三人で飲まないかって」

 ああ、思い出した。いつからだったか三人で話をしていると、彼と彼女の波が高まる時、僕の心は落ち込んだのだ。あの時の息苦しさが突然に蘇り、僕は小さく喘いだ。それはいつか螺旋のように、僕らを渦の中へと飲み込むだろう。だけど、今は。でも、もう少し。僕の波が揺らいで溢れる。

「どうしたの?」

「いや、なんでもない。目にゴミが入ったみたいで」

「ほんと?見せて」

「いいよ、大丈夫」

 突き放そうとした掌が、迷った挙げ句に彼女の肩を掴む。胸の中が、嵐みたいだった。

 不安を目の奥に宿して、彼女が僕を覗き込む。

「具合悪い?」

「違うんだ、ほんとに大丈夫だから」

「そう?無理しなくていいんだよ。貴之にはまた今度、って言っておこうか?」

 気を遣っているのか、それとも厄介払いがしたいのか。問いただそうとして踏みとどまる。僕の中で波が暴れて、世界がわずかに滲む。

 優しい彼女の波と僕の荒い波は、ばらばらでよかったんだ、きっと。僕らは波の合間で溺れて、僕は海に沈む。彼女だけが救われて、明るい地上に。

 項垂れた僕の視界に、束の間、白い光が閃く。驚いて顔を上げれば、稲妻が空を駆け抜けた。

「雨、振りそうだね。傘持ってないのに」

 空を仰いだ彼女が、不安げな声を聞かせる。僕も傘は持っていなかった。直ぐそこのコンビニに買いに行くこともできたはずなのに、僕はそうしなかった。気まずく立ち尽くす二人の間に、大粒の雨が降り落ちる。

 生温い雨が僕らを叩き、あっという間に辺りは白く烟った。悲鳴を上げて逃げ惑う人を横目に、僕は光に溢れるJRの改札をぼんやりと見つめた。

「もう、濡れちゃうよ!」

 彼女が僕の腕を引く。すでに土砂降りの雨は僕らをしとどに濡らして、今更構うものかという気持ちだった。じれたように地団駄を踏んだ彼女が、額に張り付いた髪をかき上げた。その指に、不似合いな指輪が煌めいている。雨に滲んだ風景の中で、そこだけが硬質で眩しかった。

「僕、帰るよ」

「え?」

「帰る」

「どうしたの、急に」

 戸惑いと苛立ちが混じった顔で、彼女が僕を覗き込む。目の底の嵐が露呈するような気がして、僕は彼女を腕で押しのけた。ぱしゃり、と足元で、水が乱れる音がする。

「……判った。じゃあ、行くね。もう貴之も来るし」

「うん」

 鈍色を金の稲妻が引き裂いて、びしょ濡れの僕らを更に沈めていく。二人を隔てる雨に、彼女が静かに目を伏せた。

「真雪!」

 水たまりを踏み分けて、聞き慣れた足音が駆け寄ってくる。すらりと伸びた手脚は、人ごみの中でも人目を引いた。

 久々に合う彼に何を言えばいいのか探せず僕は、彼女に差し出された傘を、ただ見ているしかなかった。

「貴之」

 彼女は済まなそうな顔で僕を振り向き、それから泳ぐみたいな仕草で、優しい腕の中に吸い込まれていく。

 僕にちらりと視線を投げて反らした彼は、僕に気付かなかったのかも知れないし、気付いていたのは僕と彼女との関係かも知れなかった。

 JRの駅の明るい光の中、溢れかえる人波に、彼と彼女の背中が飲まれて消える。色とりどりの傘と服の合間に、彼女が浮き沈みしていた。

 叩きつける雨の中で、僕はその光に背を向けて、暗い地下鉄の入り口を降りていく。深海に棲む魚が、ねぐらに帰るみたいに。

 君は地上に、僕は地下に。笑うかい、莫迦みたいだって。でも、もうたくさんだった。明るい硝子の中を、ぐるぐると回遊するだけの日々なんて。

 僕は暗く狭い水の中を進む。二人の波は分かたれて、もう重なることはない。

 いつだって彼女とのさよならは、地上と地下で、まるで世界を引き裂かれるみたいだった。そういうと、大袈裟だって、彼女は笑ったけれど。

 階段を一段一段、地下に向かって降りていく。電車がホームに滑り込んだのか、生温い風が吹き上げて、僕の身体を揺さぶる。雨に濡れた僕の胸からは、規則正しく波を揺らす鼓動が聞こえていた。

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深海魚 中村ハル @halnakamura

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