序章 第三話

もつれそうになる足を必死に動かし、転んだら何度も立ち上がった。生死がかかっているのであれば、誰でもそうするだろう。彼らはまさにその状況に立たされている。


「はるっ…きっ…もう、追ってこない…よ…はぁっ…」


「はぁっはぁっ……そ、そっか……」


ゆっくりと肺に息を取り込もうとするが、山の中だからなのか冷えた空気が染みるように痛い。走る速さを徐々に落とし、地面の上に座り込んでしまった2人。物凄い形相で追いかけて来た主人はすでに見えなくなった。


その脅威から逃げるようにして山の奥の奥へと入って行った。風に吹かれて揺れる木々が彼らを隠すかのように騒がしい。誰もいないこの場所へ逃げて来た2人だが、これからどうするのかなんて当てはない。


「……巻き込んで、ごめん」


「何のことだ?」


「だって……」


言いにくそうにしている冬樹。それを一瞥した春樹は空を見上げるようにして顔を逸らした。その後の言葉に詰まっている彼の様子を見て、ため息をついた。


「俺の所為でもあるから。大丈夫」


「でも……」


「それに、俺とお前、2人でなら何処までも行ける気がしないか?」


「……!うん!」


冬樹の方を全く見ない春樹。彼の行動は嫌がっているとかではなく、ただ単にその台詞を冬樹の前で言うのが恥ずかしかっただけなのだ。不器用な彼の優しさに触れる度に、冬樹の心は暖かくなる。それを知らず知らずのうちにやっているのが冬樹だと言うことを春樹は知っている。今まで、互いに助け合って生きて来たからこそ、この台詞を口にすることが出来たのだろう。


「……!?……か!!」


「ね、ねぇ……」


「……あぁ。聞こえる」


2人で味わっていた幸せは束の間のもので、遠くから聞こえてくる野太い声。聞き慣れたその声は彼らに緊張感を与える。必死に逃げたのにもう追いついたようだ。

あの足では到底追いつけないと思っていたのだが、雇っている護衛の陰陽師を連れて来ているようだ。複数聞こえるその声に焦りを隠せない2人。春樹は震える手を自分の手で握り締めて押さえつけているようだ。


「ど、どうしよう……捕まったら、何をされるか……」


冬樹の言葉によって思い出される罰の数々。人間の扱いとは思えない行動を平気でするのが彼ら、貴族である。動物のように、見世物のようにするのが彼らの腐った嗜好だ。それらを頭の中で巡らせるだけで吐き気と震えが止まらない。だが、ここで2人で捕まってしまったら逃げた意味が無くなってしまう。頭によぎっているそれを打ち消し、春樹は立ち上がった。


「走るぞ」


「え、でも……」


「このまま、また酷いことをされてもいいのか?」


春樹が冬樹に手を差し出すが、その手を受け入れるか悩んでいる冬樹。しかし、捕まれば酷い目に遭うことも分かりきっているので、春樹の質問には何も答えられない。その様子を黙って見ている春樹。しかし、着々と主人達は近づいて来ている。


「どうする」


「……行くよ。春樹となら、何処へでも行ける気がするから」


最後の質問に答えた冬樹は、春樹の言葉を真似して笑った。恐怖に怯える顔をしていたのに、すぐに切り替えた彼を見て春樹は口角を上げていた。差し出していた手を握り、立ち上がったと同時に声が聞こえた。


「あ!見つけたぞ!あそこだ!」


「くそっ……行くぞ!!」


「うん……!」


やっとの思いで見つけた彼らは必死に走っている。それに気づいた彼らは捕まるまいと全力で足を動かした。少し休憩をしていたからなのか、どんどん引き離されて行く一行。それを見かねた主人は大きな声で命令した。


「ええい!生死は問わぬ!必ず引っ捕えるのだ!」


その言葉が聞こえた直後、春樹の真横に何かが勢いよく通過した。風を切る速さで飛んで行ったものは、火の玉。微かに感じた熱に驚きを隠せない春樹は走りながら自分の頬に触れた。軽く火傷をしているのか、刺すような痛みを徐々に感じた。


「春樹!?大丈夫!?」


「……っ!俺は大丈夫。それよりも、早く逃げないと……!」


「で、でも!」


「冬樹、今のは陰陽師が使っている式神が発したものだ。軽くしか見ていないけれど、彼らは何体も式神を召喚してる。少しでも止まったら…」


その後のことは何も言わなかった春樹。いや、言えなかったのかもしれない。陰陽師である彼らから逃れられるかは分からない。しかし、少しでも生き延びるためには走るしかないのだ。止まる訳にはいかない。


それを察したのか、何も言わずに力強く頷いた冬樹は真っ直ぐ前を向いて走ることに集中した。その後も、追撃するかのように何度も放たれる火の玉。時には水の玉のようなモノも飛んで来たのだが、それもかなり攻撃性の高い代物だ。それに恐怖を感じながらも、ここで死ぬ訳にはいかないと必死に逃げる。


しかし、まだ一桁の齢である彼らにとってそれは過酷なことであり、体力の限界はすぐに訪れた。


「はぁっ……はぁっ……」


「春、樹?だ、大丈夫…?」


「俺は、大丈夫、だからっ……先に行けっ……!!」


少しずつ、少しずつ削れて行く彼らの体力はが先に底ついたのは春樹だった。彼の目立つ金髪は走る度に揺れて太陽の光を反射する。それを目印にしているのか、春樹に目掛けて放たれる攻撃の数々。それを避けるのにも、走って逃げるのにも必死であった。彼の様子を見て心配している冬樹はまだ走れそうだと判断した春樹は、先に行くように言った。


「嫌だっ……!俺1人でっ……逃げるなんて出来ない!!」


「冬樹……」


「捕まるのも、逃げるのも、一緒だ」


ひらひらと舞っている桜の花びらが、冬樹の笑顔を更に輝かせていた。時々見えなくなる彼の顔はやけに眩しいと春樹は感じた。見捨てるのはいつだって簡単なのに、絶対にそんなことをしない冬樹。それを知ってた上で言った春樹は心底後悔した。確かに彼が置いて行くはずがない、と。嬉しくなった春樹は差し出された冬樹の手を取ろうとした時。


ドンッと、鼓膜を破くような音がした。


その瞬間だけ、彼の周りで舞っていた薄紅の花びらがふわりと動いた。風に乗って動いていた花びらが、少しだけ違和感のある動きになった時。冬樹の手を取ろうとした春樹の手は空を切った。


「冬、樹……?」


動かしていた足を止めた春樹は、視界から消えた冬樹を探して地面に倒れ込んでいる彼を見つけた。目の前で地面の上に倒れ込んでいる冬樹に呼びかける。ピクリとも動かない彼。その彼からは紅の液体が出ていた。それが彼の血であると理解するには時間がかからなかった。茶色い地面が少しずつ赤色に侵食されて行くのを見ている春樹は座り込み、冬樹の体を揺すった。


「やっと……!はぁっ…捕まえたぞ…!はぁっ…!」


「なぁ、冬樹……?起きろよ。早く、逃げないと。捕まるぞ…?」


「コイツ、何を言っているんだ?主人!どうしますか?」


走るのを止めたらすぐに追いついた主人とその護衛たち。息を切らして走って来た陰陽師達も流石に疲れているようだ。陰陽師独特の服装では大分走り辛そうだ。一番最後に来たのは彼らの主人。彼の怠惰によってぶくぶくに太った体を必死に支えて、短い足を必死に動かしてここまで来たようだ。


「はぁっ…はぁっ…こ、コイツら〜…!!よ、よくもっ…ワシのっ…屋敷から逃げようと…!!」


人一倍疲れている主人は鬼のような形相で怒りを露わにしている。その顔で2人を睨みつけ、こちらを一度も見ずに名前を呼び続ける春樹に向かって罵詈雑言を浴びせた。


「そ、そもそもなぁ!お、お前はその顔だから、ワシが買ってやったんだ!か、感謝はすれど、逃げるとは何事だ!」


「なぁ、冬樹?起きろよ。なぁ?」


止まらない罵声に全く耳を貸さない春樹はずっと冬樹の体を揺らしている。埒が明かないと思い、体を抱き抱えるようにして名前を続けて呼ぶ。この春樹の行動に更に腹を立てた主人は彼自身に向けている春樹の背中に目掛けて蹴りを入れた。大きな体をしているからなのか、その威力は強い。


「お、おい!ワシの話を聞かないとは、な、何事だ!!!」


フーッフーッと息を荒くして蹴り続ける主人。周りにいる護衛たちは何も言わずに見ているだけだ。むしろ、クスクスと笑っている声が聞こえてくる。いつもなら気になるその声にも反応しない春樹。すると、主人は何かを思いついたかのように話し始めた。


「あ、あぁ。お、お前、そいつと仲良かったよな。そ、そいつのお陰でお前は助かったんだ。お、俺に感謝しろよな!」


春樹の体が軽く揺れた。この主人は狂っていると思うには十分な発言だった。舞い散った桜の花びらが、冬樹に付いていた。その花びらは薄紅だったのに、彼の血によって真っ赤に染まってしまっていた。もう助けることは出来ない。そして、この腐った主人は絶対に許せない。それだけが春樹の頭の中に残った。


「……ぇ」


「何じゃ?ワシに、何か文句でも……」


「うるせえよ、塵屑共が」


そう、彼が言ったと同時に強い風が吹き付けた。その風によって落ちていた花びらが大きく舞い、高い高い空へと飛んで行った。それと同じように吹き飛ばされたのは護衛の陰陽師たち。これは本当に風なのか、それすらも分からない彼らは地面に叩きつけられた。何とか耐えた数人の陰陽師と主人はこちらを見ている春樹の視線に寒気を感じた。


「お前らが、お前らみたいな塵屑がいるから、この世界は不平等なままなんだ」


主人たちに背中を向けている春樹は冬樹を抱えてゆっくりと立ち上がった。その行動ですら彼らは肩を揺らし、震えた。何を感じているのか、何に恐怖を抱いているのかなんて分かっていない。


ただ、今ここで発言したら訪れるのは確実な死であると言うこと。目に見えないモノに恐れをなしているとは思いたくなかっただろう。


彼らの方へ振り返った彼は俯いたままで顔は全く見えない。どんな顔をしているのかも、全く見えない。それを良いことに式神を召喚して攻撃した陰陽師が1人。彼に向かって飛んで行く火の玉は命中したかのように見えた。


しかし、それは春樹の目の前で蒸発してしまった。まるで、雪が消えるかのように。今起きた出来事に理解出来ない陰陽師は、「ひっ…」と腰を抜かしてしまった。


「な、何を言っているんだ!わ、ワシはなぁ!とっても偉い人間なん…」


「黙れ。消えろ」


「うっ……」


反論しようとした主人だったが、春樹の一言でパタリと倒れてしまった。その姿を見て顔を青ざめさせた陰陽師一行は我先にと逃げ出した。しかし、春樹は彼らを許すはずも、逃すはずもなく同じように言い放った。


「全員、消えろ」


再度、強風が春樹の周りを包み込んで逃げ惑う陰陽師たちへと向かって行った。彼らが何かを言っていたが、そんな言葉は春樹の耳には届いていなかった。風の影響で綺麗な桜の花びらが舞っている。


その綺麗な光景とは裏腹に彼の言葉通り、周りにいた何人もの陰陽師たちは次々と地面の上に倒れて行った。必死に逃げようとした輩も、全員主人と同じようになった。彼らが倒れた後、春樹はやっと顔を上げた。


誰も見ていない、見ることすら許せなかった彼の顔は涙によりボロボロになっていた。目と鼻は真っ赤になり、鼻水を垂れ流していた。


彼の涙は自身が抱えている冬樹の顔へと落ちて行った。いつもなら何か冗談を言うはずの彼が、笑いかけてくれる彼が、もういない。その事実だけを表すかのように濡れていく冬樹の頬は真っ白になっていた。どんどん感じなくなっていく彼の体温と一緒に、春樹の心の何かが消えて行くように輝いていた青色の眼は深くて暗い色に変わってしまったのだ。



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