「変化」


 研究所を抜け出して二日が経った。トカゲは野を超え、山を超えて研究所からなるべく遠くへ移動していた。


 そのためには森で普通に過ごすことに限る。もし過度に暴れて、その痕跡から研究所にいた人間の仲間が探りを入れる可能性があるからだ。



 あくまで自身と我が子の危険が脅かされた時のみに武力を行使すると決めていた。



 それ以外は怨敵であるあの人間どもを見つけた時だ。徹底的に叩き潰す。



 自分にこの力を与えた事を後悔するほど、痛めつけるつもりである。



 すると森の方からガサガサと大きな音が聞こえた。風の音かと思ったがとても大きく不規則な音だ。



 草の中から巨大な黒い物体が姿を現した。

 ツキノワグマだ。黒い体毛に鋭い爪。腹部には名前の由来である白い月輪のような模様があった。



 彼は目が合う程度では手は出さない。無闇やたらに手をあげては自身が知る傲慢な連中と同じになってしまうからだ。



 ツキノワグマは興味がなかったのか、そのまま踵を返して、森の奥に消えた。



 トカゲは静かに胸を撫で下ろした。お互いにとって身のためだ。



 しばらく森の中を進んでいると、僅かに空腹感を覚えた。


「あーお腹すいたな」

 

 空腹感にげんなりしていると、近くの草陰から一匹のコオロギが飛び出してきた。彼は歓喜した。なぜなら好物だからだ。



 トカゲはターゲットに狙いを定めて、飛びかかった。


 身体能力が飛躍的に向上しているおかげで、いとも容易く捕らえる事が出来た。



 顎を動かすとともにパリパリという咀嚼音が鳴る。しかし、トカゲは味に違和感を覚えた。



 味が薄いのだ。以前ほど旨味を感じなくなった。



 食べ終わったあと、空腹が満たされなかったことと期待以下の味にどこか不満を抱いた。


 すると木の陰から彼の倍の大きさはあるムカデが姿を現した。オレンジの頭部と尾。



 鉤爪のような複数の細く短い足がこちらに向かって全身してきていた。おそらく彼を捕食しにきたのだろう。



 トカゲは恐怖より先に不思議と食欲が湧いてきた。



 予想通り、ムカデが無数の足で捕らえようとしてきた。彼は身をかわして、鉄拳を頭頂部にお見舞いした。



 試しにムカデをかじって見ることにした。恐る恐る口元を近づける。



「美味い」

 トカゲは動揺した。体が変化したせいか、食の好みも変わってしまったのか。


 内心、不安もありながらも食欲には抗えない。バリバリと音を立てながら、食べ進めていく。


 ムカデは彼の同胞すら捕食する生物。


 つまり彼にとっては天敵の一つなのだ。かつて捕食しようとして来た相手を今度は逆に捕食する。


 自然の摂理を侵しているのではないかと、内心思いながらトカゲはムカデを頬張り続けた。


 全ての部分を平らげるのち、十分もかからなかった。







 とある研究所の一室。大型犬三頭がナイフのように鋭い犬歯を見せながら、唸り声をあげていた。


 その近くには銃を武装した屈強そうな三人の男がいた。


 奥の部屋から研究所の管理責任者。ラルクス・マグウェルが姿を現した。


「おー、いい子だ」

 ラルクスが犬達の顎下を優しく撫でる。犬達も媚びるように高い声で鳴いて男の手元に顔を擦る。


「あの、この犬達は?」

 一人の若い隊員がラルクスに声をかけた。彼は初めて任務に就かされた右も左も分からない新人だ。


「この犬達はあの植物の匂いを嗅ぐことが出来る。つまりあの薬を摂取したトカゲを発見することが可能だ」


「この犬達に嗅がせてよろしいのですか? 脳内に異常をきたしたりはしないのでしょうか」

 もう一人隊員が怪訝そうな表情を浮かべながら、ラルクスに尋ねる。


「あの植物の中にある物質が問題なだけだ。葉の匂いを嗅ぐだけなら問題ない」

 

「でもただのトカゲでしょう。わざわざそこまで警戒しなくても」


「そのトカゲ一匹に研究所が一つ潰されたんだ。しかも中にいた研究員、警備員含めて全員が殺された」


 ラルクスの鋭い目に隊員達は強張った表情で俯いた。それは今回の作戦のいかに危険で重要なものかを示唆していた。


「いいか、決して、ただのトカゲだとは思わないように。あれはトカゲの皮を被った怪物だ」


 ラルクスは念を押して、彼らに警告した。たちまち周囲に緊迫感が流れ始める。


「それでは捕獲作戦開始だ」

 ラルクスは不敵な笑みを浮かべながら、顎髭を指で撫でた。

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