親愛なる従妹へ

 親愛なるジャスミンへ


 ジャズ、元気にしている……なんて訊かなくても、わかっているわ。あなたのことだから、愛しの婚約者様に「今すぐ結婚したい」って言わせるために、病気一つしている暇なんてないんでしょうね。肩の力を抜くのも、大事なことだとたまには思い出して頂戴。


 わたしは、はっきり言って憂鬱よ。

 今日で三日目。今日で、グウィン大河を渡って三日目。

 いつまで待たせるのかしらね、わたしの身元引受人は。

 もうベッドに縛り付けられているわけじゃないから、余計に退屈。ああ、縛り付けられてってのは、もちろん比喩よ。寝たきりのね。拘束されていたわけじゃないから、安心して。

 それにしても、ベッドから起き上がれないのは最悪だったわ。しっかりお世話をしてもらったのは、とても感謝しているわよ、もちろん。とてもあんな風に他人の服を着替えさせたり(しかも、下着まで)、体を拭いたりとか、言葉にするのも恥ずかしいこととか、わたしには絶対に無理。病人や年寄りの介護をしている人たちは、みんな尊敬するしかない。なんて、当たり前のことをダラダラ書いてもしかたないわよね。

 今、こうしてペンをとることができるのは、神に祈りが届くようになったおかげよ。神は、わたしをちゃんと見守ってくださっているの。

 人の手を借りることなく着替えたり、体を拭いたり、自分のこの手で食事ができて、あなたに手紙を書ける。こんな当たり前のことが実はとても尊いのだと、神はわたしに教えてくださったの。

 まだ杖が手放せないけど、だんだん元の体に戻っていくみたい。


 それでね、つい考えてしまうの。

 ジャズがいる神なき国には二度と戻れないだろうけど、祖国に帰るって選択肢もあるんじゃないかって。病魔を抱えたままでも、神に祈りを捧げ続ければ、他人の世話にならずに生きていけるもの。根本的には、解決していないのはわかっている。まだ病魔を抱えたままだって、嫌というほど思い知らされているもの。


 でも、実は怖いのよ。このまま帝国に行って大丈夫なのかって、不安で不安で、怖いのよ。

 情けないよね。あなたには、後悔していないとか、自分を変えたいとか、神のお導きだとか、強気なことを言ったのに。誤解しないでほしいけど、あのときはそれが本音だったの。嘘なんかじゃなかった。本当に。

 神の国に行けるなんて、夢のようで舞い上がっていたのもあるわ。こんなチャンス、絶対にないと思っていたもの。だってそうでしょ、神の国だもの! 奇跡の担い手でもなんでもない凡人が、足を踏み入れることもできない国よ。

 でも、やっぱり不安だし、怖い。

 今じゃ、期待なんて少しも残ってないの。


 ジャズ、あなたがこんなわたしを見たら、なんて言うかしら。

 いつも前向きで、転んでもただでは起きない。くよくよしている暇があったら、前向きに努力する。あなたのその前向きさが、とてもうらやましい。


 こういう後ろ向きなことばかり書いている間は、新しいわたしになりたいなんて、無理よね。わかっているの。わかっているんだけど、ね。


 なんか、同じようなことばかり書いているわね。本当に、自分が嫌になるわ。


 早く、身元引受人が来ないかしら。不安ばかり溜まって、どうかなりそうよ。




 ◆◆◆


 そこまで書いて、リディアの手が止まった。

 しばらく、続きを書こうかどうかペンを持ったまま悩む。あるいは、悩むふりをしていた。手が止まったときには、はっきりしていたのだ。結局、大きなため息とともにペンを置くことになると。


「どうせ、誰も読まないし」


 頬杖をついて、もう一度ため息をつく。

 ため息を何百回ついたところで、気分は晴れない。ならばいっそのこと、我慢せずに吐き出すほうがいいに決まっている。

 幸い、周囲には誰もいない。


 弱気な手紙を読み返すことなく二つに折ると、机の端にある文箱の中にしまう。文箱の中には、すでに何枚もの同じような二つ折りの手紙がしまってあった。

 すべて、従妹のジャスミンに宛てて書いた手紙だ。


(誰にも読ませられない、が正解よね)


 なかなか迎えに来てくれない身元引受人がおかげで、時間を持て余している。

 窓の外から聞こえてくる喧騒と、窓の外の町並みの向こうに見える白い巨大な壁のせいで、持て余した時間はすっかり憂鬱に塗りつぶされていた。


「あの壁の向こうが……」


 北壁と呼ばれる白い巨大な壁は、フラン神聖帝国の北の国境であるグウィン大河の南岸に沿ってそびえ立っている。

 リディアが今いるは、帝国の領土でありながら、帝国の軒下のような場所だった。大河の北岸に位置する国々の外交の拠点の一つとなっている。


 リディの祖国は、カロン大陸西側諸国で北方諸国の一つであるマール共和国だ。

 フラン神聖帝国に次ぐ西側諸国の大国ヴァルト王国の王太子の許嫁である従妹のジャスミン・ハルとともに、祖国を生まれてはじめて出たのが、八月の始めのこと。

 八月の終わりに王城に到着して、ジャスミンの私室付き女官として、新しい人生が始まった。

 目まぐるしいこの二ヶ月を思い返すと、またため息が出てしまう。


「こんなはずじゃなかったのに。あーあ」


 王城での新生活は、不慣れなことも多かったけれども、刺激的でなかなか楽しかった。

 ところが、たったの二十日ほどで充実した新生活は終わりを告げてしまた。

 従妹の婚約者の暗殺未遂事件なんかに巻き込まれた挙げ句、医療の国とも称される王国では手の施しようがない病魔を抱えていると発覚する。

 幼少の頃に生死をさまよい、神から治癒の力を授かった奇跡の担い手による中途半端な施術のせいで、本人も気づかないまま病魔を抱え続けてきたのだった。神の加護が届かないヴァルト王国に来たことで、病魔が活気づいてしまったらしい。

 王太子暗殺未遂などという大罪は、本来なら国外追放ですむような話ではなかった。けれども、事件をうやむやにするためとか、祖国に恩を売るためとか、そういった王太子の思惑が働いた。もしかしたら、婚約者のジャスミンにいい顔したかったというのもあったかもしれない。


(ありえる。ジャズは気がついていないけど、あのヘタレ王太子、そうとうジャズに惚れ込んでいたものねぇ)


 リディアの病魔を取り除くには、とにかくヴァルト王国を出ることが、なにより重要だったし、急務だった。刻一刻と、彼女は死に近づいていたのだから。もし、あのままとどまっていたら、今頃はどうなっていたことか。


 ヴァルト王国に来なければ、中途半端に癒やされた体のまま、不自由な生活を強いられたまま人生を終えていたかもしれない。

 王太子暗殺未遂事件に巻き込まれなかったら、幼少の頃に神の力で消滅したはずの病魔を抱えていたことに気がつかないまま、死んでいたかもしれない。

 それから、神に逆らい独立したのがヴァルト王国だというのに、一番近い隣国は神そのものの皇帝が治めるフラン神聖帝国だったおかげで、彼女は今こうして生きている。


 不運は多かったけれども、そのどれ一つが欠けても、フラン神聖帝国に踏み入れるチャンスは巡ってこなかった。

 不運も重なれば、幸運に転じることもあるということなのかもしれない。


 ヤスヴァリード教の主神そのものとも代理人ともされる皇帝が治める神の国、それがフラン神聖帝国。

 敬虔な信徒のリディアにとって、憧れるのもおこがましい聖地だ。


 大陸西部でもっとも古くもっとも栄えている国。

 帝国の民は、誰もが奇跡が起こせるという。それはつまり、彼女が幼少の頃に手をかざして聖句を唱えるだけで、生死の境から救い出してくれた奇跡の担い手と同じことが、誰でも起こせるということだ。

 空を飛んだり、手が届かない場所にある物を動かしたり、馬などの動物ましてや人間に頼らなくても大勢の人を運ぶ乗り物、極めつけに空を飛ぶ船などなど、神の国には不思議が溢れているらしい。

 そんな想像もできない不思議な国に入ることができる国外の人間はは、わずかな選ばれし者たちだけ。彼女の祖国では、奇跡の担い手と呼ばれている生まれつき奇跡を起こせる者だけだ。幼少の頃に帝国に招かれ、修行をつんで祖国に帰ってくる彼らは、帝国で見聞きしたことを決して口外にしないという誓いを立てている。


 そして、なにごとにも例外がある。リディアの身元引受人が、まさにその例外だ。

 神を否定した国の元王子、ギルバート・ヴァルトン。それが彼女の身元引受人だ。二十三年前に密入国まがいの入国をはたして、神の国の民となった隻腕の男。


(コーネリアス王の兄の一人なのに、どんな性格なのか、さっぱりわからないって、どうかしているわよ)


 王城から同行してくれている人の良さそうな青年外交官の、困った顔が脳裏をよぎった。


 外の人間を拒絶する白く巨大な北壁を超えるためには、身元引受人が必要だ。ヴァルト王国のコーネリアスが取り計らいのおかげで、ギルバート元王子は身元引受人になってくれたらしい。


「弟思いで、気まぐれで、何を考えているのかよくわからない……はぁ」


 青年外交官が物心付く前には、ギルバート元王子は祖国で忘れ去られた存在だった。そんな彼が、古い噂をかき集めて彼女に教えてくれたのだ。彼女が王太子暗殺未遂事件に関わっていたことも知った上で、教える義理もないというのに、だ。彼は根っからのお人好しなのだろう。

 お人好しの外交官に限らず、帝国で暮らすギルバート元王子を実際に知る者は、神なき国において一人もいない。コーネリアス王との書簡のやり取りのみが、ギルバート元王子を祖国と繋いでいるだけだ。


 これから世話になるというのに、どんな人物なのかはっきりわからない。

 彼女が不安を募らせるには、充分な理由になるだろう。


「わたし、本当にあの壁の向こうに行けるのかしら」


 このまま、身元引受人が現れなかったらどうなるのだろうか。

 領事館ではなく、グッドマン商会という貿易商の拠点を引き渡し場所として指定してきたのも、不安をつのらせこじらせる一因となっている。

 今は客人として扱ってもらっている。寝室は一階に用意してもらって、昼間は騒がしくて休めないだろうからと、二階の眺めのいい部屋を与えてくれた。美味しい料理もわざわざ運んでくれるし、寝たきりの道中で洗髪がしやすいようにと短く切られた髪も綺麗に整えてくれた。なにかあったら医者が駆けつけてくれるし、清潔な着替えも用意してくれている。まさにいたれりつくせりだ。

 けれども、このままずっと同じ待遇だという保証はどこにもない。そんなことはないだろうと信じたいけれども、彼女自身をどこかに売り飛ばされる可能性だって否定しきれない。


 外界を拒絶する白い北壁。

 ちっともやってこない身元引受人。

 いたれりつくせりの待遇。

 日に日に募りこじれる不安は、気晴らしにペンを取ったところで、どうにもならなかった。


「はぁ、さっさと迎えに来なさいよ」


 ひときわ大きなため息をついて、従妹が餞別にとくれた本を読み返そうと手を伸ばしたときだった。

 背後から、足音が近づいてくる。

 彼女は寝たきりの道中で足音を聴き比べて当てるのを、密かな楽しみとしていた。だから、すぐに足音の主がお人好しの青年外交官だとわかった。昨日から領事館の方の手伝いをしていた彼とは、昨日から顔を合わせていない。


(ようやく、来たのかしら……)


 はやる気持ちを抑えきれずに、首から下げた蛍石の聖石に手を重ねて振り返る。

 換気が大事だからと開け放たれたドアの向こうで足を止めたのは、丸顔の青年外交官だった。


「リディアさん、ギルバート様が到着されました」

「今すぐ行くわ」


 これでようやく不安から解放される。

 杖に伸ばした震える手を、強く握りしめて気を静めようと努力しなければならなかった。

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