いかにして彼女は、神ごとき皇帝が統べる国の民となったのか。

笛吹ヒサコ

序章

白い闇に堕ちる

 深くうなだれた彼は、床を見つめながら何度目かのため息をついた。


(どうしてこうなった)


 床はなめらかに磨き上げられた白い石だ。正確には、彼が白い石としか呼びようのない未知なる物だった。

 これほどきれいに磨き上げられていれば、鏡のように彼の顔が映っていてもよさそうなものだ。けれども、奇妙なことに白い床には、黒々とした彼の影しかない。


(まったく、俺は皇帝にどうこうとかだいそれたこと、これっぽっちも考えちゃいないってのに)


 床に膝をついたまま待ち続けるしかなかった。


 ここが、神の国のどこなのか、わからない。見当もつかない。

 規則正しく並ぶ柱も、床と同じ白。どれほど目を凝らしても、壁が見えない。無限に並ぶ柱にめまいを覚えて、後ろに首を反らして見上げれば、真っすぐ伸びる柱が支えるべき天井が見えない。

 まるではてしなく広がる白い闇の中に置き去りにされているようだ。

 現実味のない白い闇にめまいを覚えて、ただうなだれるようにして床を見つめて、もうどれほど時間が経っただろうか。もうずいぶん経ったような気がするし、ほんの少ししか経っていない気もする。

 悪い夢ではないかとも考えたりしたけれども、いくら考えたところで目が覚めるわけではない。


(神の国なら、非現実的なことの一つや二つと、覚悟していたつもりだったが)


 兄たちと弟の反対を押し切って、神なき国から大河を渡って神の国の大地を一歩踏みしめた途端に囚われの身となってしまった。


(名前を呼ばれて、やべぇって思ったら、意識がぶっ飛んで、気がついたらここで皇帝を待てって言われても、ねぇ……)


 困惑するしかない。

 船着き場で彼に声をかけて、ここで膝をつかせた男は、目を離した一瞬の間にいなくなっていた。彼は出口すら見いだせないというのに。

 それとも、やはりこれは夢なのだろうか。

 何度も立ち戻った考えにまた戻っている。


(まったく、ついていない)


 夢だと笑い飛ばして、好きなように振る舞えれば、どんなに気が楽になるだろうか。

 何度も何度も夢ではないかと願望とも呼べる考えが浮かんでも、もしという別の考えが打ち消すように浮かんでくる。


(すべてを見通すまなこ、か)


 神そのものとも、神の代理人とも呼ばれる神の国を統べる皇帝。その名を神に捧げることで、すべてを見通すまなこを手に入れると、彼は大河を渡る前に知識として知っていた。


 試されている。

 彼の直感のようなものは、そう強く理性に訴えかけてきた。


(いくら、俺が身分を捨ててきたと言っても、通用するかどうか……)


 身勝手でわがままとも呼んでもいいくらい、彼は個人的な目的のために大河を渡ってきた。無茶がすぎることくらい、理解していたつもりだった。そもそも、万に一つでも目的が達成される可能性が見いだせれば、儲けもの。わかっていても、制止する声を振り切ってまでやってきたのは、少しでも楽になりたかったからだ。

 それに、見聞を広めるにはまたとない機会だ。無駄足に終わると言い捨てるには、謎めいた対岸の神の国はあまりにも魅力的すぎた。

 油断していたといえば、彼は間違いなく油断していた。


(密入国者なんか、珍しくないってたかをくくってたのが、まずかったよな)


 頭をかきむしって、叫びたい衝動に駆られる。


 二度と祖国の土を踏むことはないという覚悟があったとはいえ、彼は祖国を捨てたわけではない。愛する兄弟――特に病弱な弟を甘やかしてきた彼にとって、祖国を害することだけは何が何でも避けなくてはならない。いっそのこと死を選択することもあるかもしれない。けれども、彼は死を恐れている。自死は、最後まで残しておくべき選択肢だ。


(すべてを見通す神の代理人を、どうやり過ごせばいいのか……)


 さっぱりわからなかった。

 わかるはずがなかった。

 皇帝がどういう存在か、まったくわからなかったからだ。

 彼が皇帝と聞いて思い浮かべるのは、恐ろしい形相で白髪を振り乱し振り上げた両手から雷槌を放つ姿だ。けれども、このイメージは広大な大陸西部において神なき国の中でのみでしか通用しない。

 皇帝を主神とするヤスヴァリード教が布教されているすべての国々では、皇帝は神々しい美貌の持ち主だとされている。


(とにかく今は、下手に動かないほうがいいな)


 すべてを見通す眼で見られているかもしれない。

 試されている。

 彼は、夢だと願望をじみた考えをほとんど捨てていた。


 床についた膝の痛みやしびれに、じわりじわりと忍び寄ってきた渇き。一度意識してしまうと、夢だとは考えられないほど喉がひりついてくる。


 目を閉じて深く息を吐いた、そのときだった。

 周りの空気が、変わった。

 息を吸うのも忘れるほど、はっきりと空気が変わったのを肌で感じた。張り詰めたとか、冷え切ったとか、空気が流れたとか、そんな言葉で表現できるような感覚ではなかった。

 冷や汗がひと筋、背中を流れる。

 ヒタッと、かすかな音が彼の鼓膜を震わせたのと、言いしれぬ空気が人の形に凝縮されていくのを全身で感じたのは、ほとんど同時だった。

 全身の硬直が解け、ほとんどからになっていた肺が悲鳴を上げる代わりに、大きく喘いだ。のけぞるようにして喘いだ彼は、見てしまった。

 あれほどの渇きを忘れてしまうほど、彼は衝撃を受けた。


(こいつが、皇帝……)


 疑う余地などなかった、目の前に現れた青年の他に、皇帝と呼ばれる者など、この世界のどこにもいない。


 それほどまでに、優美に腕を組んで謎めいた笑みを浮かべている青年は美しかった。


 その美貌と背中を包み込む黄金山脈の万年雪ごとき純白の髪の奔流。

 光を放っているのでは錯覚するほどなめらかな白い肌。

 細身だけれども、痩せぎすではない無駄のない完璧な体。

 そして特筆すべきは、やはり黄金の瞳だろう。それはさながら、太陽が瞳に息づいているようだ。不用意に見つめ続ければ、その瞳に目を焼かれ失明してしまいそうだけれども、あらがいがたいほどの魅力も宿している。


(ああ、とは、こういうことか)


 祖国ではわからなかった言葉の意味を、彼は目だけでなく全身で知ることとなった。


(しかし、出で立ちだけ見れば破廉恥極まりないじゃないか)


 この世のものとは思えない美貌の皇帝に畏怖の念をいだきつつも、冷静さを取り戻していた。不敬以外のなにものでもない感想を胸の内でぼやいたのが、その証。


 なにしろ、皇帝が纏っているのは、膝裏まである透き通ったしゃのガウンと、ゆったりとした幅広の紅のズボンのみだ。半裸といっても問題ないほど、肌を晒していた。


 彼の胸の内を見通したわけではないだろうが、ほぉと皇帝は感嘆する。その感嘆の声すら、この地上で奏でられる音の中で至高のものだった。


「さて、どうしたものかのう」


 高すぎもなく低すぎもせず心地よく耳朶に響く皇帝の美声は、ともすれば言葉の意味すらとらえられないまま、極上の楽の音として聴き入ってしまう。

 けれども、彼ははっきりと皇帝の言葉の意味を聞き取った。聞き取りはしたけれども、皇帝の発言の意図までは掴みきれなかった。

 困惑する彼に、皇帝はくすりと笑う。


「この白の間に放り込んだ者の多くは、すぐに出口を求めてさまようか、喚き散らすか、あるいはその両方。残りの数少ない者は、現実だと受け入れずに、自らを傷つけようとする」


 やはり試されていたのかと、彼はこみ上げてきたため息をこらえた。


「だが、彼岸の王子、お前のように動かず黙していた者は、これまで一人もおらん。伊達に神に背いた男の血筋ということなのか、それともお前の個性がそうさているのか、まったく興味深いことよ」

「……はぁ」


 彼は思わず間の抜けた声を出してしまった。

 声を出してしまってから、目の前の男が皇帝であることを思い出し、激しくうろたえた。


(まだ、試されているのか、俺は)


 失敗したのかどうかはわからない。

 うろたえる彼に、皇帝の口元はなおも笑みを刻んだまま。


「それにしても、その血筋で大河を渡ってくる者はお前が初めてだ。目的は何だ? 物見遊山で渡れるほど、大河の流れは穏やかではなかろうに」


 けれども、その瞳は真冬の温もりのない太陽のように、彼に容赦なく突き刺さる。

 カラカラに渇いた口の中に残っていた唾を集めて、彼は唇を湿らせ呼吸を整えた。


「わたくしめの目的など、神ごとき皇帝陛下にはとるに足らないつまらないものです。わたくしは、神なき国の誇りよりも己を優先させるような身勝手でいやしい男。皇帝陛下のお耳を汚すわけにはまいりません」


 彼は、王子の身分を捨てて大河を渡ってきた。とはいえ、高貴な身分として身についた気品や教養といったものは、そう簡単に捨てられるものではない。そして、王子の身分を捨てたところで、政治的な利用価値がまだ残っていることも、彼は充分すぎるほど理解していた。

 彼が遠回しに言いたくない伝えると、皇帝は組んでいた腕を解いた。フッと口元を緩めた皇帝に、彼は初めて人間らしさを感じた。


「とるに足らないつまらないものかどうかは、わしが決めることよ」

「ですが、皇帝陛下……」

「お前が何を懸念しているのかは、容易に想像がつく。案ずることはない。彼岸の王国には、これまで通り我が帝国の繁栄と発展に貢献してもらわねばならん」

「繁栄と発展に貢献?」


 彼は耳を疑った。国交が改善されつつあるとはいえ、祖国が帝国に貢献などありえない。けれども、皇帝は彼の疑問に答えなかった。


「政治的な目的ではなく、お前個人の目的となれば、なおさら興味がわくというもの。さぁ、言うがよい。お前は、きっとわしを満足させるだけの物語を秘めているだろうからな」


 失った右の肘から先に、ずきりとした痛みが走る。


(皇帝を信用するほかない、か)


 慣れることのない苦痛だが、彼は顔色一つ変えない。そうやって、苦痛を悟られないようにすることだけは、慣れてしまったのだ。

 残っている短い右腕を横に軽く持ち上げて、彼は乾いた唇をしっかりと湿らせて口を開く。


「失った右腕を完治させるすべを求めて、わたくしは大河を渡ってまいりました」


 皇帝は、彼の短い右腕を見やる。


「つまり、新しい腕が欲しい、と?」

「いえ、そのような大それたことは望んでおりません」


 彼は慌てて否定する。新しい腕など、求めてないと。考えたことすらないと。


「この右腕の肘から先がいまだに痛むのです。何度も何度も腕が潰れたときの苦痛を繰り返します。存在しない部分が痛むとは、おかしな話に聞こえるでしょう」


 一度言葉を切り、彼は右腕をおろす。

 皇帝の太陽の瞳は、いまだ彼の右腕に向けられたままだ。すべてを見通すと言われている皇帝の眼に、苦痛をもたらす彼の肘から先が見えたかもしれない。潰れて使い物にならなくなってもむき出しとなった神経が苦痛を与える子どもの右腕が。


 彼は幻肢痛と呼ばれる苦痛が、どれほど厄介なのかを説明する。


「我が王国が誇る医療では、欠損した体の苦痛をどうすることもできません。なにせ、治療する患部が存在しないのですから。傷口がなければ、傷口を塞ぐことも、痛みを和らげる薬を飲むこともできません」

「ようするに、だ。お前は、医療の手に負えないから、我が帝国の治癒の魔法に頼りたい、と?」


 魔法というのは、聞き覚えがない。けれども、帝国の摩訶不思議な力にすがりたいことには違いない。


「おっしゃるとおりにございます、皇帝陛下。この苦痛を癒やす方法がないかと、藁をもすがる思いで大河を渡りました」


 とはいえ方法があったとしても容易に癒せるわけではないと承知しているとも、彼は続けた。


(方法がないなら、帰ってコニーの面倒を見てやるつもりだったんだがなぁ)


 彼の計画――計画と呼ぶにはお粗末ではあったが――は、目の前にいる皇帝のおかげで破綻してしまった。

 再び大河を渡って祖国に帰れるかどうかは、神ごとき皇帝にかかっている。

 皇帝の謎めいた笑みは、面白がっているような人間らしい感情が隠しきれなくなっていた。太陽の瞳は、子どものようにキラキラと輝いている。


「では、やはり新しい腕が欲しいのか」

「……いえ、ですから、先ほど申し上げた通り、わたくしは苦痛を癒やしたいだけです」


 彼はいら立ちを抑えられなかった。


(話を聞いていなかったのか。それとも、言葉は通じても会話が成立しないのか。なんなんだ、神ってやつは……まさか)


 ますます笑みを深める皇帝に、彼はハッと顔を上げる。


「まさか……まさか、この右腕が元通りになるとおっしゃるのですか?」

「だから、欲しいかと言うておるではないか。いらんのか? もっとも、そっくりそのまま元通りというわけではないぞ。新しい腕だ。お前にふさわしい腕を与えよう」


 存在しないはずの右腕を掴みそうになって、彼は左手を握りしめる。


(新しい腕、だと?)


 いたずらっぽい笑みを浮かべた皇帝が、恐ろしくてたまらない。

 畏怖の念が腹の底からこみ上げてくる。ゴクリと音を立てて喉を上下させたのは、喉元までせり上がってきた悲鳴をこらえるためだっただろうか。

 欠損した体の一部が再び手に入る。

 とても魅力的な話だ。

 けれども、魅力的すぎて恐ろしい。喉から手が出るほど欲しくても、安易に欲しいと言葉にできない。


「本当に、本当に新しい腕を与えてくれるのですか?」


 乾いた声で言ってみたものの、彼は皇帝を疑っていなかった。

 あえぐような彼の顔をのぞきこむように、皇帝が美しい顔を近づける。


「ああ、きっとお前も気に入る」

「条件は?」

「わかっているじゃないか」


 ククッと喉を鳴らして笑った皇帝の右手が、彼の顎をとらえてさらに顔を近づける。目と鼻の先に迫った皇帝の瞳は、やはり太陽だ。

 痛いくらい乾いた喉だけでなく、彼の全身が危険だと警鐘を鳴らしている。にもかかわらず、彼は容赦を知らない太陽の瞳から目をそらせない。

 まばたきすらも忘れてあえいでいる彼に、皇帝は美しい声で囁いた。


「このわしに、お前のすべてを捧げろ。さすれば、新しい腕を与え、我が民として帝国に迎えよう」

の…………すべて?」


 言葉を取り繕う余裕がなくなった彼を誘惑するように、皇帝はことさら優しくささやく。


「ああ、お前のすべてだ。先も言うたが、彼岸の王国にはこれまで通り貢献してもらわねばならん。ゆえに、案ずることは何一つない。わしに捧げてもらうのは、王子としてのお前ではなく、お前そのものだ」

「俺…………そのもの」


 そうともと皇帝は微笑みながら、皇帝の左手が彼の頬を撫でる。


「すべての色を塗り潰すような漆黒の髪の一本一本に、美しい藍色の。今、激しく脈打つ血潮も一滴残らず、骨もその髄まで。他にも、お前という人間を形作るそのすべて。ああ、もちろん、その頭脳も、魂も。すべて、わしに捧げてもらう。さぁ、どうする? わしに捧げられぬなら、彼岸の王国に帰るがよい。なに、記憶を少々いじらせてもらうが、無事に帰してやろう」


 彼はすぐに答えられなかった。

 迷いがあったわけではない。むしろ、迷いがなかったからこそ、彼はすぐに答えられなかったのだ。


(俺は……)


 たとえ祖国の不利になったとしても、彼は新しい腕を手に入れたい。尊敬する兄たちや、世話の焼ける弟を、裏切ることになったとしても。


(馬鹿げている。俺は、大河を渡るときには、もう……)


 覚悟を決めていた。

 迷わないことの後ろめたさを、彼は生唾とともに飲み込む。小刻みに震える唇を動かすのは、滑稽なほど難しかった。それでも、彼ははっきりとした声で答えた。


「捧げます。俺は、髪ごとき皇帝陛下にすべてを捧げます」


 太陽の瞳をまっすぐ見据えて答えた彼に、皇帝はよろしいと満足気に笑う。と、純白の髪がとばりのように降りてきて、皇帝は彼に唇を重ねた。

 驚きに目を見開いた彼は、とっさの抵抗すらできなかった。


 皇帝の唇は、彼の唇だけではなくもっとも深いところに口づけていた。


(なんだ、こ、れ)


 戸惑いは、ほんの束の間のこと。

 彼のもっとも深いところ――それは意識の奥にある魂とでも呼ぶべきとところだ。

 それまで明瞭だった意識が、皇帝の口づけで一斉に解け緩んだ魂に飲みこまれる。

 魂を形作ってきた、記憶とそれに付随する感情たちの大きなうねり。

 喜びも悲しみも憎しみといったものだけでなく、形容しがたい複雑な感情たちが、記憶とともに彼の意識を翻弄する。

 喜びやぬくもりは一瞬で押し流されて、苦痛と苦悩ばかりしつこく彼の意識にまとわりつく。

 一瞬の喜びやぬくもりにすがりついて、解けた魂の奔流に抗おうとした。が、無駄だった。

 これまでの人生における、すべての記憶とそれに付随する感情たちに翻弄された先にあったのは、白い闇だった。

 白い闇には、なにもない。

 苦痛や苦悩だけでなく、心地よいぬくもりすら、そこにはない。彼の自我すらも、そこにはない。白い闇に溶け込んでいくように、ゆっくりと彼は何者でもなくなっていくようだった。


 長い長い一瞬の間に意識が沈みぐったりと崩れ落ちようとした彼の体を、皇帝は引き上げるように抱きしめる。

 彼の唇をむように、皇帝は口づけ続けている。時間ときすらも皇帝の味方であるかのように、彼の唇を丹念に味わう。

 神ごとき皇帝でも、我を忘れることがあるのかもしれない。

 ゆっくりと名残惜しげに唇を離した皇帝は、うっとりと彼を見つめた。


「ほんの味見のつもりが、うっかり喰らいつくすところだったよ」


 わしとしたことがとひとりごちると、目を閉じて自分の唇を舌先で丁寧になめる。彼の後味まで残さず味わうと、目を開け彼を優しく抱きかかえた。


「今は、苦痛も苦悩もすべて忘れ深く深く眠るがよい。目覚めたとき、お前は新たな右腕だけではなく、新たな人生も得るのだ。わしも、楽しみだよ……ああそうそう、我が民にふさわしい名も与えねばな」


 すべてを見通すまなこでも、未来までは見通せない。

 だからこそ、大河を渡ってきた無謀な若者に並々ならぬ期待を、皇帝は抱いていた。




 二十三年後の十月。

 彼は、河岸街にやってきた。


 外交の拠点の一つであるこの街は、昼食時だというのに多くの人々が忙しなく行き交っている。

 彼はそんな雑踏の中を黒い手袋をしたで、灰色のロバを引いて歩いていた。大小様々な荷物をくくりつけたロバに合わせるように、のんびりと人の間を縫うように歩いていた。

 彼の胸元には、大粒のオニキスの首飾りが揺れている。神の恩恵を受けている証だ。

 しばらくして足を止めて、ロバをひいてきた手を左に変える。


「不便だが、我慢するとするか」


 言葉とは裏腹に、彼は面白がるにニヤリと笑って右手を軽く振った。一度二度振ると、黒い手袋の輪郭がぼやける。もう二度三度振ると、右肘のあたりでチュニックの袖がクタリと垂れ落ちた。彼の右腕が消失したというのに、誰も気がつかない。いや、気がついた人もいたかもしれない。ただ気にとめなかっただけで。

 きれいに肘の少し上から先が消え失せたのを見て満足げな笑みを浮かべると、彼は近くにいた少年に声をかける。


「やぁ、少年。このグッドマン商会に用がある。俺はギルバート・ヴァルトン。リディア・クラウンの身元を引き受けに来た」


 彼がその名前を声に出したのは、実に二十三年ぶりのことだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る