醜い顔

松長良樹

醜い顔




 ――心が表情に表れることは良くあります。鏡のようなものですから。


 可愛い子供を見れば誰だって微笑みたくなりますし、会いたくない人に会えば嫌な顔になったりします。

 喜怒哀楽は容易に人の表情に現れ、例えば役者は大げさに演技し、誇張して人の心情を観客に伝えようとします。

 

 その反対にポーカーフェイスというのがあります。無表情をあえてつくり、相手に自分の心を読み取られないようにします。敵と戦う時には表情という情報は知られない方が有利なのです。


 ところで人間の心が……。 それも人の心の奥の真相が顔に現れてそれを隠せなくなったとしたらどうでしょう。


 ――怖いですねえ。人には誰にも良くない気持ちがあります。


 たとえば恋人を人に奪われたらどうでしょう? 或いはだまされ、裏切られ、すべてを失ったとしたら、笑っていられるでしょうか……。


 そんな時には口に出すのも恐ろしい考えが頭をもたげるのかもしれません。懊悩が胸を掻き毟り、悶え、妬み、そして、のたうつのです。


 そして醜い顔が心の表面に現れるのです。醜怪で恐ろしい顔が……。




  ж  ж




 大学生のトシオという青年には悪い癖があった。物事を悪い方にばかり考えてしまうのだ。人には大抵良い面と悪い面とがあるが、トシオは人の悪い面ばかりを見て必要以上にいらだったり、悲しんだりする性格だった。

 

 だからトシオには友達が出来なかった。彼は人を信じなかったし、人も心を明かしはてくれなかった。友情とは自分の心を正直に相手に伝え、相手も包み隠さずの心で応えた時にのみ成立しえるのだろう。

 

 悲しい事にトシオにはそれが苦手だった。子供の時いじめに遭った経験が彼の心を閉ざしてしまい、根の暗い、懐疑的な性格をつくってしまった。

 きれいごとを言ったって腹の中は何を考えているかわかったものではない。人間なんて愛だの思いやりだのと体裁のいい事ばかり言ったって、そんなものは上辺だけのペンキのようなものだ。

 

 トシオはたった独りでそんな風に疑心暗鬼の闇の中を彷徨っていた。


 ――悪魔がそんなトシオに気づかないはずもなかった。


 ある時、悪魔はトシオの部屋の鏡の中から忽然と現れた。その恐ろしい姿を見てあまりの恐怖に失神寸前だったトシオに悪魔は意外な程やさしく、こんな風に話しかけた。


「君には真理がわかっているようだね。人間の事が君にはよくわかっている。私は君の心に共感するよ。その疑心に共感するんだ。心からね」


 悪魔は流暢にそう言い微笑んでさえいた。


「僕の気持ちがわかるんですか?」


「ああ、わかるよ。君の心が読めるんだ。だから、よーくわかるさ」


「……」


「君は神を信じないだろ、私も神を信じない。神は最高の偽善者なんだ。愛を叫んで平気で人を殺すのが奴のやり口だ。手に負えんよ。はっはっはっ、まったく手に負えん。その点、私は欲望に忠実に生きていて裏も表もない」


 トシオは返答に困った。悪魔が見つめている。


「――で、どうして僕の前に現われたのです?」


「ははははははっ、そう怖がるな。私は君に共感したんだから、君だって私に共感してくれても不思議はない」


「……」


「ここにプレゼントを持ってきた」


「プレゼント……」


 悪魔はいつの間にか手のひらに目玉を二つ乗せていた。驚いてトシオが小さな叫び声をあげた。気持ちが悪かった。


「これは真理の見える目。人間の本性がこの目に映る。偽りなき本性が」


「……真理」


「人は表情こそ作れるが、この目を持つと人の本当の心を見ることが出来る。だから悪人は醜く、善人は美しい顔に見えるんだ」


「……」


「この眼を持てば安心だ。もう人に騙される事も疑う事もない。すべてはお見通しだからね」


「――でも僕は」


「いらないのか……」


「はい、まあ」


 トシオは優柔不断な態度に陥っていた。


「まあ、いいから受け取れ」


 悪魔はそう言うと、手のひらの眼に口を近づけ、トシオにふっと息を吹きかけた。そして鏡の中に消えた。その瞬間にトシオの見る世界が変わった。


 まさに仰天してしまう事がおこった。テレビ映画でお馴染みの美しい女優が醜い顔をしていた。反対に敵役の殺人鬼の方が美しい顔をしていた。


 ――しかし見渡す人々の殆どが醜い顔だった。鼻がまがり、口が歪み、耳は尖り、魔物の顔が世界に充満していた。


 なんと父や母までもが醜い顔をしていて耐えられるものではなかった。


 稀に美しい顔を持つものがいたが、すぐに表情が醜く変化した。あえて美しい顔を持つものといったら幼児か、白痴ぐらいなものだった。特に富裕層の人々の中には見るだけで吐いてしまうほどの顔の者が多数存在していた。


 トシオは悪魔を恨んだ。あまりに酷い世界がトシオの周りで渦巻いているのだ。


 数週間もろくに相手の顔を見ないで悶々と暮らしたトシオだったが、授業には出たくもないし、醜い教授の講義など聞けたものではなかった。

 気が狂いそうでトシオはもう日本にいられなくなった。元々彼は外国に興味があったから、思い切って新天地を探して海外に旅立ったのだ。


 サモア―サイゴン間の定期便の中でトシオは眼下に展開する島々を眺めていた。後進国ほど美しい顔を持つ者の数が増えた。それはトシオにとって救いだった。未開の地に行くと益々美しい顔を持つ者が多くなった。


 しばらくサモア諸島に滞在したトシオだったが長い年月の果て、いつしか南米に渡り大アマゾンの流域で美しい顔を持つ者達しか住まない部落に辿り着いた。大密林の湿地帯の彼方にトシオは別天地を見つけたのだ。


 そこに住む人々は実に親切で優しく、自分より相手のことを先に考えてしまうような人達だった。トシオにとってそこは不便で非衛生的な所ではあったけれど、素晴らしい場所だった。豊かに流れゆく河は心を癒し、壮大な瀑布はトシオの心に安らぎを与えた。そして心根の善良な者達は快くトシオを迎えたのだ。


 多少退屈ではあったが美しい顔の人達はトシオに食べ物を作ってくれ、住むところも与えてくれた。またトシオを気に入ったらしい褐色の肌の美しい少女は、トシオに献身的に尽くしてくれたし、言葉こそ通じなかったが気持ちは十分に通じた。


 トシオは彼らと共に彼らの為に懸命に働いた。トシオは生き生きとした目をしていた。そしてずっとここに居ようと思った。心からそう思った。


 それからかなり経ったある朝の事である。


 トシオが目を覚ますと身体の自由が利かなかった。よく見ると手と足を縄で縛られている。(どういう事なのだろうか、誰がこんな? ここには善良な人しかいないはずなのに……)トシオは慌てて大きな声を出した。


 皆がトシオを取り囲んで美しい顔のまま笑っていた。

 理解に苦しんだ。すべてが悪夢のようだった。いつの間にかトシオは大きな石の祭壇に寝かされて、部落の呪い師が呪文を唱えている。

 周りに藁のような乾燥した草が敷き詰められ、皆が松明をかざしていた。いったい何事かと渾身の力を入れたが縄は切れなかった。


 そしてトシオは何が始まるのかついに理解した。そして絶叫した。すると悪魔が何処からともなく現れ、薄気味悪い笑いを浮かべてゆっくりと言った。


「叫んだりしてはいけませんねえ。彼らはあなたを天国に送ろうとしているのです。あなたは賢く、この部落の為に懸命に働いた。だから皆さんはあなたを神の子だと思っているのですよ。そう信じているのですよ。だから話し合ったのです。そして天国こそあなたの居るべき場所だという結論に達したのです。長老も同意見です」


「た、助けて……」


 トシオが声を震わせた。


「助けて? 彼らはあなたを真に思っているのですよ。善意であなたを天国に帰そうとしているのですよ。ごらんなさい。彼らの顔を、穏やかで実に美しい顔をしているではありませんか」


 悪魔は彼らを見渡してそう言った。

 

 トシオの眼からとめどなく涙があふれた。そして炎の中で最後に思った。いったい自分はどんな顔をしていたのだろうかと……。




 



 ――ところで、そこにいるあなた。 


 安心しました。 本当に美しい顔をされていますねえ。 本当に。


  


                      

                   了

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醜い顔 松長良樹 @yoshiki2020

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