28.幸せと不安と


 薔薇の香りに鼻腔を優しくくすぐられて目を覚ます。ぼんやりとしたまま思い出す。

 先日彼女が教えてくれた。これは枕元に忍ばせてあるアロマサシェとかいういわゆる香り袋の効果なのだそうだ。

 匂いは印象に大きく影響すると聞く。多少男の私物を持ち込んだところで彼女の世界観が揺らぐことがないのも納得だ。


「う〜ん……」


 小さな唸り声の方に目をやるとうつ伏せのままスマホを見ている彼女の姿がすぐ隣に。今朝はやけに神妙な面持ちだ。


「おはよう、奏。どうかした?」


「あっ、響おはよう。うん、ちょっとあいちゃんのことが気になって」


「岸さん?」


「うん。最近ちょっと様子が変わったっていうか……」


 岸愛梨。彼女の親友。

 俺もあの子のことは忘れていた訳じゃない。もちろん四六時中考えている訳でもないけど、頭の片隅には最後に見たあの子の複雑な表情が残り続けていた。


 今、奏とこうして朝を迎えられるのも、臆病な俺の背中をあの子が押してくれたから。

 自分が好かれていないのは承知の上だが、恩のある相手ということもあり、様子が変わったなどと聞くと気にせずにはいられない。


 寝転がった姿勢のまま、何に違和感を覚えているのか奏に訊いてみる。


「うんとね、あいちゃんもサークルには来てるんだけど最近は用事があるから先に帰っててって言われることがあって。どうしたのって訊いても先輩に聞きたいことがあるからとしか言わないんだよね」


「うん」


「あとあまり目を合わせてくれなくなったような気がする。連絡とる回数も減っちゃったし……」


「…………」


 やがてくるりとこちらを向いた奏の目がみるみるうちに潤いを帯びてきた。小動物みたいにぷるぷると震えて。


「私何かしちゃったのかなぁ!?」


 まあ、そう思うよね。

 こうして感情表現がはっきりしつつあるのは良い傾向なのかも知れないけど、不安とか焦燥とかそういうたぐいの感情はさすがに気の毒になる。

 かと言って、俺のボキャブラリーじゃ上手いフォローもできそうにないんだけど。


 俺は半ベソ状態の彼女をそっと抱き締める。不器用なりの精一杯の気遣いといったところだ。


「まぁ、本当に忙しいだけかも知れないよ。あの子は奏のこと大好きだと思うから、何か別に事情があるんじゃないかな」


「そう、かなぁ。あいちゃんやっぱり響のこと好きだったんじゃないかなぁ」


「それは本当にないから大丈夫」


 それに俺が好きなのは奏だから。

 と、続けたいところだけどおそらく今はそういう話ではない。

 彼女の不安の要因はあくまでも岸さんとの関係にあるのだ。そう、こういうときはちょっと違う角度から問いかけてみよう。


「そもそも先輩って誰のことなんだろう。それに関してはなんか言ってた?」


「誰とは言ってなかったけど……そういえば大体いつも最後まで残ってるのは部長と兵藤先輩かも」


 なるほど、いいことを聞いた。それなら俺も多少は力になれそうだ。


「ハル……あ、兵藤のことね。俺あいつと友達だからそれとなく聞いてみようか」


「本当? 響、いいの?」


「だって心配でしょ」


 それに奏が不安なままじゃ俺だって心配。

 と、またしても喉元まで出かかった言葉をなんとか寸前で飲み下した。


 俺の中に満ちている彼女への想いは日に日に水位を増して、なんかの拍子に零れそうになる。

 いけないことではないのかも知れない。でも何故かそれを解放することにためらいを感じてしまうんだ。


「ありがとう、響」


 小さく鼻を啜って薄く笑った彼女。

 柔らかな髪のカーテンがかかった額にそっと口づける。俺がすぐに返せるものはいつもこれくらいだった。




 昼頃、奏がバイトに行く準備を始めるタイミングで俺も自分の荷物をまとめた。

 スマホを取り出してハルとのトークを開く。


『ちょっと聞きたいことあるんだけど今日の夜電話できる?』


 これで良し。奏の話によると一年生以外のメンバーは今日もサークル活動があるらしいから、おそらく夕方くらいには返事が返ってくるだろう。そう予想していた矢先だ。


『いいよー!』


『響と電話するの結構久しぶりだね! 俺も話したかったんだ』


『朝比奈さんとはどう? 良かったらいろいろ聞かせてね』


 最後にこっちへ投げキッスをしているキモカワキャラのスタンプまで。おいおい、返信早いのはありがたいけど質問があるのはこっちだぞ。こりゃ俺がしっかり誘導しないと思いっきり話が脱線してしまいそうだ。


 でも気にかけてくれてるんだろうな、あいつなりに。


 含み笑いくらいのつもりだったんだけど結構声に出てしまってたんだろう。洗面所の方から奏の声が飛んできた。


「あれー? 響なんか笑ってる」


「いやごめん、ちょっと友達がね」


「響よく笑うようになったよね」


「それは奏と一緒にいるから……」


 はっと息を飲み、口を噤んだ。思わずうつむいてしまう。


 気を付けてたつもりなのに、もう抑えられない容量まで達しているのか。

 動揺している理由もわからないまま、ただいたたまれない気持ちになる。

 聞こえちゃったかな。いや、でも返事ないし、多分聞こえなかったんだよ。大丈夫。そうやって自分を落ち着かせようとしていたんだけど。



――響。


 小走りの足音を立てて彼女がやってくる。後ろから。


 着替えはもう終わってるけど髪はまだ寝癖だらけだ。支度さえ後回しにして俺の傍へ。


 見上げる星屑の瞳とほんのり染まった頬が夜桜を彷彿とさせる。初めてじゃない。もうしっかりと覚えた。これは見る者の心を掴んで離さない蠱惑的こわくてきな彼女の色。


「聞こえなかったから来ちゃった」


「いや、そんな大したことは言ってな……」


「言って、響。聞きたいの」


 本当に聞こえなかった人がこんな言い方……する? 無意識に発動される彼女のあざとさにはいつも敵わない。


「お、俺は……っ」


 ああ顔が熱い。こんなに必死な相手を前に視線を少しも外さないなんて。最近気付いた。多分だけど奏はちょっぴりサディストだ。

 もはや何がなんだかわからなくなった俺の口から零れたのは、多分さっきのものとは違う言葉だった。



「奏と付き合えて……良かった」



 まんまるになった彼女の目。こっちも予想とは違ったというところだろうか。


 それでも微笑みは遅れて花開く。季節を遡るように頬の桜色が梅の花のような色へ移り変わっていく。


「嬉しい」


「本当に……? いつも俺の気持ちばかりで奏は負担じゃないのかなって」


「ううん私、嬉しいって気持ち、前よりもわかるようになったよ。もっといろんな気持ちが自覚できるようになれば響に沢山伝えられるのに」


 奏は気付いてないかも知れないけど語尾が少し悲しげだ。たまらず彼女を抱きすくめた。

 彼女の心が痛そうから、こうすれば半分にできるんじゃないかなんて意味不明なことを思ったんだ。


「響、痛いよ」


「あっ……ごめん」


「でもあったかい」


 そして言われて気が付いた。善意なのかどうかもわからない衝動だったのだと。


 俺は何か彼女と共有したいのかも知れない。痛みだろうがなんだろうが。


 腕の中の彼女の鼓動が子守唄のようで微睡みそう。ぬくもりが夢現うめうつつへといざなう。それでも俺は願い続けていた。

 いつか霧の向こうの彼女が見えたときにも、真っ直ぐ受け止める勇気だけは失わずにいたいと。




「じゃあ行ってくるね! 今夜また連絡する」


 晴れた空のもと、奏はカフェへと向かっていった。


 さすが彼女。切り替えがしっかりしてる。出かける前にあんなイチャイチャしてしまって俺の頭はふやけそうだっていうのに。ちょっと悔しいけど見習いたい。


 そっと胸に手を当てる。今日もまた想いの水位が上がったような感覚。

 恋をした人はみんなこんな爆弾を抱えているような気分になるんだろうか。自分で自分を怖く思ったり……するんだろうか。

 これは果たして正常なのか、恋愛初心者の俺にはわからない。


 いつか聞いた彼女の言葉が脳内に流れ出す。



『付き合いませんか、私たち』



『人との繋がりって、未来というよりも今この瞬間の為にあると思うんですけど、それじゃ不安ですか?』



 奏、今を生きることに特化した君はやはり不安じゃないの。いつか終わるとしても。ねえ。


 幸せが怖いだなんて、無邪気な君には言えないよ。



 終わりを知りすぎた俺は度々うつむき加減になった。足元で踊る木の葉の哀しい音色を何度聴いたことだろう。


 こんな気分のときには無理に抗わない方がいい。無理矢理にでも笑おうとか元気出そうとか、少なくとも俺には逆効果なんだ。

 そう、こんなときに相応しいのは……


 いつもならヘッドホンをつけるところ。

 だけどこの日は自分の喉で奏でていた。



「やっぱり懐かしい。なんでだろう」



 一緒にいるうちに覚えてしまった。それは彼女の心の鼻歌だった。

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