14.再び時を刻んで


 昨日とは反対に今日の授業は午前だけ。

 ちょうどいい。行くなら今日だと思った。空は曇っているけれど天気予報を見た感じだと先日のような大雨にはならなそうだ。まあ、梅雨どきの天気なんて読めないものだけど。


 とりあえず一度家に帰ってから荷物を最小限に持ち替えた。


 改めて『Cafe SERIZAWA』のDMを見る。これは兵藤くんがくれた。

 好きな子の絵の写真を手元に置いておきたいだろう、そして自分から頂戴とは言えないだろうと考えてそうしてくれたらしい。よくわかってる。

 地図と住所が載ってるおかげでお店を間違える心配はないし助かるけどね。うん。


 スマホを見る習慣なんてそんなになかった俺だけど、このときはなんとなく手に取って昨日新たに増えたトークを開いた。


『恋愛相談いつでも受け付けまーす! がんばれ夜野っち!』


 賑やかなスタンプと一緒だ。くすぐったい気持ちになる。俺はと言ったら「ありがとう」くらいの簡単な言葉しか返せなかったけど。


 友達が出来たんだ、本当に。


 見るとそんな実感が迫る。


 俺という器になみなみと注がれていた不安、そこへ少しずつ期待が混じり、溶けていく。まろやかなミルクを流し込んだかのように。



 服の入った紙袋を持ってマンションを出た。


 ここまでお世話になっておいて手ぶらという訳にはいかない。俺は事前に検索しておいた洋菓子店を目指す。マンションとカフェのちょうど中間くらいの場所にあるらしい。


「あれか」


 そういえば見たことがある。そんな外観だった。店先に花がいっぱい飾られていて朝比奈さんが好きそうなロマンチックな雰囲気……って待て待て、こんなところで顔がニヤけたらどうする。


 気を取り直して店内に入ると、店員さんの明るい声と甘い香りが俺を迎えてくれた。

 近くでは小さな女の子とその母親と見られる女性がケーキを選んでいる。


 お礼の品ならある程度日持ちするもの……そう、たぶん焼き菓子とかの方がいいだろう。


 そう決めては来たんだけどよく考えてみると俺は芹澤さんのことを何も知らない。独身なのか、それとも家庭を持っているのか。せめてそれだけでもわかれば個数を決める目安になったのにと自分の詰めの甘さを実感して唸る。


 朝比奈さんと話す時間なら沢山あったはずなんだけどな。些細なことで動揺してはすぐフリーズするから俺の頭は。やれやれ。


 と、一人で悩んでいても仕方がない。


「あの、すみません。これの賞味期限ってどれくらいですか?」


 ガラスケース越しに指をさして店員さんに尋ねる。無難に相談をしながら決めることにした。



 そうして選んだのはフィナンシェの詰め合わせ十二個入り。さすがに十二人家族っていう可能性は極めて低いだろうと考えてのことだ。賞味期限は今日から数えて十四日間だから一人分だとしても割と余裕がある。


『Cafe SERIZAWA』の目の前に着いた。

 深呼吸、の途中から胸の奥が甘く痛む。




『ひゃっ!? えっ、夜野さん!? な、なんでそんな格好……!』



『偶然でも夜野さんが来てくれてたからやっぱり来て良かったです!』




 一昨日のことがリアルに蘇る。込み上げる熱。俺は顔を軽く振って冷まそうとした。


 本当に、あの日は一度にいろんなことがありすぎた。まだ鳴り止まない。


 カランカラン……


 ベルの音に混じった愛くるしい君の声。



「いらっしゃいませ。あれ、君は……」


「こ、こんにちは。先日は大変お世話になりました」


「やっぱり君か~! 夜野くんだっけ? 髪乾いてると雰囲気違うね」


 カウンターから出てきた芹澤さん。そんな彼こそ改めて見るとため息が出そうになるほどスタイルがいい。シャツとベストの組み合わせの下から伸びる長いエプロンは本来膝下まで届くはずのものなんだろう。若干丈が足りてないところがモデルさんのような脚の長さを物語っている。

 この人が目当てで来ているお客さんとか……いそうだな。


 そんなことを考えている間に彼の色気のある視線に真正面から捕らえられてしまった。


――奏ちゃんはこういう子がタイプなのかな――


 聞こえてきた声に再びじわっと顔が熱くなった。


 付き合ってるとか、思ってるのかな。全然そんなことないのに。朝比奈さんはなんというか、きっと誰にでもあんな感じなんだよ。周りの目から見てどう映ろうがそんな簡単に期待しないぞ俺は。


 内心こんな強がりを言っていたのは内緒だ。


 店内を見渡す。窓際の席に女性客二人の姿があるけど、どうやらおしゃべりに夢中でこちらの様子には全く気付いていないようだ。ちょうどいい、今のうちに。

 俺は平静を装って、芹澤さんに二つの紙袋を差し出した。


「あの、服ありがとうございました。あとこっちはほんの気持ちばかりですが」


「えっ、何? わざわざ買ってきてくれたの?いやぁ、なんだか却って悪いね」


――こんなくたびれた服にここまで気を遣ってくれるなんて見かけによらず律儀な子だなぁ――


 見かけによらず?

 いや、まあそれはいい。ともかくやるべきことは終えた。


「お忙しいところ失礼しました。じゃあ俺はこれで……」


「あっ、ちょっと待って!」


 俺が踵を返す前に呼び止めてきた芹澤さんの声。なんという素早さだ。


「良かったらまたコーヒー飲んでいかない? ブレンドだったらサービスするよ。ちょうどカウンター空いてるし。ね」


「いや、でも、そう何回もっていうのは申し訳ないですし、その……」


 どう言葉を返そうか、少ない時間で考えようとしている俺にはお構いなしに、芹澤さんは口元に手を添え囁くような無駄に色っぽい声で教えてくれた。



「今日も奏ちゃん来てくれるらしいよ。だから、ね」


「…………っ!」


 ただその名前を聞いただけで。

 またあの甘ったるい熱がじわ〜っと広がりお湯のような汗が滲む。給湯器か俺は。


 それにしても芹澤さん、まぁなんとなく予感はしてましたよ。きっとそういうこと言うんだろうなって気がしてたから、心を無にして出来るだけ早く立ち去ろうとしてたのにあなたって人は……!


――あらら……顔真っ赤。この子わかりやすいな〜。あまりからかったら可哀想かもな――


 からかってたのかよ。あと色気の乱用はやめて下さい。


「あの」


「ん、なんだい?」


 あとその無駄に優しい雰囲気。安心するような、心を許してしまいそうになるような……


「……奢りじゃないなら寄っていきます」


「……ありがとうございます。どうぞ、こちらへ」


 俺の頑なな心をほどいてしまう。この店といい芹澤さんあなたといい、一体なんなんですか。



 先日も座ったばかりのカウンター席で。

 俺は近くの水槽の金魚を眺めた。ひらりひらりと舞うように泳ぐ、真紅の衣装を纏ったダンサーみたいだ。


 カウンター越しに芹澤さんの横顔が見えた。

 俺はこの人に何を求めてるんだろう。話を聞いてもらいたいとか、思ってたのかな、本当は。

 あんなに人に優しく接してもらったのは、多分凄く久しぶりだったし。


「はい、カプチーノお待たせ致しました」


「ありがとうございます」


 置かれたばかりのカップにサラサラ砂糖を入れて混ぜる。俺は塩辛いものが好きであると同時に割と甘党だ。


 そっとカップに口をつけながら、ちらりとカウンターの向こうを伺う。


 芹澤さん。この人は、昔の朝比奈さんのことも知ってるってことだよな。彼女が絵を描くのが好きなこともちゃんと覚えてた。


 俺は正直ソワソワしていた。

 聞いてみたいという気持ちと聞いてどうするという疑問がせめぎ合って。何故だかドキドキして……


 そのとき突然かたわらに置いていたスマホが振動して俺は思わず「わっ!」と声を上げた。


 画面を見ると母さんからの着信だとわかった。こんな時間になんだ……?

 少し不安に思いながら俺は電話に出て声を潜めた。



「もしもし」


『ああ、響。ごめんね急に。今ちょっと話して大丈夫?』


「いいけど」


 母さんの声のトーンはいつもとそれほど変わらない。悪い知らせではなさそうだとホッとしたのは束の間のことだった。


『実はね、母さんの働いてる店舗の閉店が決まって、そのまま退職することになりそうなのよ』


「えっ……仕事なくなるってこと?」


『まあ、そうね。他の店舗に異動するとなるとうちからじゃ遠すぎちゃって。私ももう歳だし、あまり通勤に負担がかかるのはちょっとね。それなら転職した方がいいかと思ってるの』


「そうか……」



 母さんはホームセンターで働いている。あっちは田舎だから確かに店舗はそんなに多くないだろうと俺も想像がついた。

 それにしても一大事じゃないか。母さんはなんでそんなに落ち着いていられるんだろう。

 でも俺はすぐその意味に気付くことになった。



『だから申し訳ないんだけど、仕事が見つかるまでの間は仕送りが減るかも知れないの。響にも不便な思いをさせちゃうと思うけど、母さんなるべく早く仕事見つけるからね』



「母さん……」



 平気な訳じゃない。

 俺に心配かけまいとしてるんだ。だからこんな声なんだ。


 父さんから養育費は払われているはずだけど、俺と美月は年子で、二人とも大学生で、一人暮らしてて、多分実際は全然足りないんだろう。




『だって響が笑ってくれたから。やっと……』




 潤んだ目をした母さんの微笑みが脳裏に蘇ると、俺は急に自分が情けなくなってきた。

 俺はどれだけ周りが見えてなかったんだろう。


 高校生の頃、確かに俺は家族から裏切られたかのような気分を味わった。両親に対しては一生かけて償ってほしいと思ったくらいだ。正直、今でも許せない気持ちもある。


 だけど、だからって。このままでいいのか? 

 変われない俺のままで。時が止まったままで。


 何かを飲み下すようにぐっと喉に力が入る感覚があった。



「俺もバイトするよ」


『響、でもあなた……』



「特にサークルも入ってないしちょっと働くくらいの時間はあると思うんだ。なんか探してみるよ。俺に出来ることを」



 母さんに告げたこの言葉は、この決意は、もしかしたら親切心でもなんでもなく、母さんの為でもなかったのかも知れない。


 ただ錆び付いたように止まっていた時計の針を再び前へ進めたくなったのかも知れない。

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