背中しか見えない

佐久間零式改

第1話 背中しか見えない


 私が振り返ると、スーツ姿の男の背中が見えた。


 いつも通りの放課後。


 いつも通りの帰路。


 いつも通りの逢魔が時。


 しかし、その日は『いつも通り』ではなかった。


 そのスーツ姿の男にずっとつけられていたのだから。




             * * *




「まったね~っ!! 渋見明美しぶみ あけみちゃん!!」


「うん、また明日」


 高校の正門を出たところで、親友の河見光喜こうみ みつきと別れて、いつも通り自宅までの道を私は歩み始めた。


 通学時間をあまりかけたくないからと選んだ高校で、自宅から徒歩二十分の距離にある。


 光喜達が通学で使っている駅とは別方向に自宅があるせいで、正門を出た後は、変える方向が別々になってしまうのが寂しいところではあるのだけど。


 カツ、カツ、カツ……


 しばらく歩いていると、背後から足音が聞こえている事に気づいた。


 靴の音が結構響いていて、不思議だなと思いながらも私は振り返りもせずに道を急いだ。


(あれ?)


 いつも通り、人があまり通らないショートカットコースに入った後も、靴の音が聞こえていた。


 おかしいな、と思って、私は車一台が通れるほど小さな道で立ち止まった。


 私が振り返ると、スーツ姿の男の背中が見えた。


 スーツ姿の男は私と同じように足を止めていた。


 そして動こうともしていなかった。


 顔を見ようと思っても背中を私に向けているので、見えなかった。


 しばらく、とは言っても一分ほどその背中を見続けていたのだけど、スーツ姿の男は微動だにしなかった。


 まるで私の動きに合わせて立ち止まっていると言いたげに。


 まるで私を尾行していたのだと言いたげに。


(どうしよう?)


 私が立ち止まったので、慌てて立ち止まって私に顔を見せないように後ろを向いたのはいいけど、動くに動けなくなったのではないか。


 私を尾行していた事がばれてしまうのではないかと危惧しているのではないか。


 そう思えてならなかった私は、そのスーツの男を見るのを止めるように正面に顔を戻した。


 ふうっと息を深く吐いて、これから一気に動く事を身体に知らせた。


「……よし」


 私は誰にも聞こえないような小さな声でそう気合いを入れるなり一気に駆けだした。


 自宅ではない、別の方角へと走る。


 普段は行かない場所へ。


 普段は曲がらない方向へ。


 自宅から遠くへ遠くへ。


 カツ……カツ……カツ……カツ……カツ……


 けれども、足音はずっとついてきていた。


 私は走っているのに、スーツの男の足音は歩いているかのような感覚で規則正しい。


 まるで歩く速度が走る速度と同等であるかのようだった。


(おかしいよ。おかしいよ、こんなの 私の足が遅いの? それとも、男の歩く速度が速いの? それとも……)


 息が上がってくる。


 もう数百メートルは走っているから息が苦しくなってくる。


 それなのに、私を尾行しているであろうスーツの男の足音は、相も変わらず徒歩感覚だ。


「……はぁ……はぁ……はぁ……」


 もうこれ以上走る事ができない。


 ギブアップするように走る速度をゆるめる。


 もうこれ以上は足が動かないと感じたので、走るのを止めて歩くように前へ前へと進む。


 カツ……カツ……カツ……


 背後からは足音が響いてくる。


(いつまで追ってくるの? というか、誰?)


 前方に躓きそうなものが何もないのを目視してから、ゆっくりと振り返る。


(……あれ? 背中?)


 スーツ姿の男の背中が見えた。


 男は足を止めていて、私に背中を向けていた。


 振り向いた事に気づかれてはいないはずなのに、どうして咄嗟に背中を向ける事ができたのだろう。


(……これ、おかしいよね?)


 私が一歩前に出る。


「え?」


 すると、スーツ姿の男も一歩前に出たかのようにすっと前に出た。


 前に出たというよりも、私との距離を詰めるように前にすっと移動したように。


 私はもう一歩前に出る。


 するとどうだろう。


 スーツ姿の男は私に背中を向けたまま、足を全く動かさずに前に一歩前に出た。


 さらにもう一歩前に。


 スーツ姿の男は背中を見せたまま、またすっと前に出る。


「……あり得ないんだけど……」


 もう一歩前、さらにもう一歩前へ。


 スーツ姿の男は私に背中を向けたまま、さも当然のように私へと一歩また一歩と接近してくる。


「……こいつ、人じゃないの?」


 ようやく理解が追いついた時、ぞぞぞぞっと一気に背筋が寒くなった。


 人であれば、足が動いてしかるべきなのに、足を動かしている気配さえなく、まるで宙を浮いているかのようにすっと私との距離を詰めてくる。


 詰めてくると言っても、一定の間隔を保ったままでいる事を良しとするように、必要以上に私に接近しようとはしてはいなかった。


「何なの? 一体何なの? 一体何なの?!」


 スーツ姿の男の背中を顧みながら駆けだした。


 カツ……カツ……カツ……カツ……カツ……


 と、足音はするのだけど、男はやはり歩いてはいなかった。


 足音は歩いていればするはずのもの。


 それなのに歩いていないのにも関わらず足音を立てて私を追ってきている。


(どこから足音がしているの?)


(どうやって後ろ向きに歩いているの?)


 背中を向けたまま迫ってくるスーツ姿の男を見ていると、私の常識が間違っているのではないかと思えてきて、頭が混乱をきたしてしまった。


「きゃっ!?」


 後ろを向きながら歩いていたせいもあって、私は何かに躓いたのか、はたまたただ単に足がもつれたのか、身体ががくんと前に倒れて見事に転倒してしまった。


 受け身なんてとれるはずもなかったし、動揺していたしで、私は倒れようとしている時にどうなっているのか確認しようとして正面を向いてしまった。


 眼前にアスファルトが広がったと思ったら、顔面から突っ込んでしまい、目の前がチカチカと白く光ると同時に衝撃が頭を駆け巡った。


「痛いって……」


 ヒリヒリするような痛みに瞬時に襲われながらも、私は地べたを這いながら、スーツの男から逃れようと前へ前へと進んだ。


 急いで立ち上がれば良かったのだろうけど、そこまで気が回らなくて、芋虫みたいにアスファルトの上をもぞもぞと這いずり回る。


 カツ……


 私がちょっとでも進むと、足音が後方から響く。


 カツ……


「も、もう来ないで!! 来ないでって言ってたら来ないで!!」


 私は匍匐ほふく前進をするように腕を足のように動かして逃れようとした。


 カツ……


 しかし、スーツの男は私の叫びなど届いていないかのように足音を立てて私の方へと寄ってくる。


 ちらりと背後に視線を投げると、男は背中を向けたままで私へと接近している。


 接近と言っても、ある程度の距離は保ったままだけど。


 私を襲う気などないのかもしれない。


 けれども、私を追いかけて楽しみ、そして、飽きたら何かしてくるかも知れない。


 なにせ、このスーツ姿の男は人ではないのだからその心情を慮ることが私にはできない。


 だから、今は逃げるしかない。


「逃げないと……」


 私はスーツの男から顔を背けて、真正面を向いた。


 その時だった。


「大丈夫? あらやだ。血が出ているじゃない」


 私の目の前に中年のおばさんが立っていて、心配そうな顔をして、私の顔をのぞき込んでいた。


 いつのまに?


「男に……」


 そう言いつつ、背後の方に顔を向けて、あの背中を常に向け続けているスーツの男をこの女の人にも認識してもらおうとした。


「……男?」


 おばさんは私の視線を追って、さきほどまでスーツの男がいる辺りを見るなり小首を傾げた。


「どこにいるの?」


 振り返った私もおばさんがそういう所作を示したのとほぼ同時に狐につままれたような気分を味わった。


 さっきまでいたスーツの男が視界から消えていたのだ。


 逃げたのかと思って、目と頭をこれでもかとばかりに動かして周囲を見ましたけど、スーツの男の姿を見つける事ができなかった。


「……な、何でもない……です」


 私は誤魔化し笑いを浮かべて、おばさんにこの場を取り繕うように顔を向けた。


「……そうなの? でも、血が出ているわよ。可愛い顔に傷がついたら大変よ。すぐに治療しないといけないわね」


 おばさんは納得できないながらも不承不承といった様子で心配そうに私の目を見つめてくる。


「は、はい。急いで家に帰ります。す、すいませんでした」


 私はさっと立ち上がる。


 辺りをもう一度見回す。


 スーツ姿の男はやはりどこにもない。


「そこに病院があるから行く? 付いていくわよ?」


「だ、大丈夫です! は、早く帰らないといけないので。ありがとうございました」


 早口でまくし立てるように言った後、深々と頭を下げる。


 そして、逃げるようにしておばさんから離れていった。


 家路を急ぐ。


 背後だけではなく、周囲を警戒してはいたけど、足音は聞こえてはこない。


 思い出したように振り返っても、スーツ姿の男はいない。


 なんだったのだろうと考えているうちに自宅の前に来ると、おかしな事にパトカーが数台停まっていて、どこから湧いて出たのか思われるほどの人だかりができていた。


(なんだろう?)


 そう思って自宅に入ろうとする私を人だかりの中にいた警官が私の前に立ちはだかり、


「関係者以外立入禁止です」


 と、言ってきた。


「この家に住んでいる者で……。何があったんですか?」


「あ、そうでしたか。実は……」


 数十分前に仕事から帰ってきた母が、自宅に侵入していた泥棒と鉢合わせをしたそうだ。


 そして、驚いた泥棒がナイフを取り出して、母を刺したのだと説明してくれた。


 母は軽傷で問題ないが救急車で運ばれたとの事で私は安堵した。


 母を刺した泥棒は逃走中でまだ捕まってはいないそうだ。


(私があのスーツ姿の男に追われていなければ、母ではなく私が泥棒と鉢合わせをして刺されていた可能性が高かったのでは? もしかして私を追跡していたスーツの男は私の親類か何かの幽霊で、私を助けようとしてくれていたのではないか?)


 話を聞き終えた私は、刺された母に悪いと思いながらもそんな事を漠然と考えてしまった。


 後日、私の親戚などにあのスーツ姿の男のような親戚がいたりしないかと父や母に質問してみたが『いない』との返答だった。


 故に、あのスーツの男が私が泥棒に刺されるのを回避するために追いかけていたのか分からず終いだ。


 それに、今でも背後で『カツ』という足音がすると背後を確認するようになってしまっているけど、あのスーツ姿の背中を見かける事は二度となかった。


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