第14話 ペナン滞在 その1 1934年1月11日

 1月11日、木曜日。晴れ。今日から前甲板にプールが出来た。太い木の枠を組み立ててここにズックの袋が付けられている。大きさは縦7m、横5m。深さは2m位。使える時刻は次の様に掲示された。


 午前7:00――7:45 一等男女

 午前7:45――8:30 二等男女

 午後4:00――4:30 婦人のみ

 午後7:00――8:00 一等男女

 

  飛び込みと潜水は禁止。


 私が事務長に「婦人専用の時間がありますが、男子専用の時間はないのですか?」と尋ねたら、笑って「御婦人と一所に入るのが嫌いな男などいないでしょうからね」との事だった。

 

 そこで今日はは起床と同時に、いや昨夜から準備よく海水着を着て寝た。

 

 午前7時過ぎにマウント氏と一緒にプールに行った。西洋人1人が泳ぎ終って上がって来ただけで他に人はいなかった。気温は25℃位で、海水がポンプで絶えずに送り込まれ、プールの上の方から溢れている。マウント氏が足をつけてみて、「水は冷たくなさそうだ」と言ったので、早速ガウンを脱ぎすてて飛び込んだ。大空には朝の雲が浮かんでいて、日光はそれほど当たっていない。青く澄んだ水に浮かんで空を眺め、ブリッジを眺め、マラッカ半島を望み見た。あまりにも気持ちが良過ぎたので、ここで一句詠めそうだった。


 水から出ると時速15マイルで走る風が吹いて急に涼しく感じた。湯上りタオルで身体を拭いて、ガウンをまたひっかけて部屋に帰った。ペナンで手紙を出そうと思っていたので手紙書きが忙しい。照国丸では航海中(入港の2時間前迄)は日本郵便の扱いをしてくれるので、郵税は安い。しかしペナンだけは、その扱いが出来ないのだそうだ。しかたがないので、その地の外国郵便として出す事に決めて手続きをした。


 午前11時頃になると右手に大きな山が見えて来て、これがペナン島である。大きさはシンガポールの島と大体同じ位だが、ここは島の中央に山脈がある。高さは1000m位もあるだろうか。木が茂っている。ペナン港は島とマラッカ半島との間の海峡にあるのだから、南から入ったら良さそうなのに、船は大回りして北口から入る。南口は海底が浅くて本船では入れない為だそうだ。

(因みに照国丸の今回の航海には荷物とても多くて、これまでの記録を更新して吃水7mだとか。赤塗りの喫水線部分が8mだから、もはやギリギリでとても船が沈んでいた)


 島の北端を巡ると市街がボツボツ見えて来た。黄色に塗った大きな建物は熱帯らしくて暑い印象を与える。しかも今日は青空で陽がカンカンに照りつけている。照国丸が寄航しかけると、これまで吹いていた走行中の風がやんで余計に暑くなって来た。


 昼食が終ってから午後1時半頃に錨が下された。ペナンでは岸壁も少しはあるが、照国丸は沖泊りなので上陸船で通わなければいけない。現地人のいかだが漕ぎ寄って来た。船頭は船の中心に前向きに立って、両手にオールを持って漕いでいる。船は赤や青で彩色してあって船首に目玉が描き入れてある。


 色が黒くて人相の悪い現地人が上って来て絵ハガキを売りつけたり、両替をしたりして「マネーチェンジ」と叫んでいる。西洋人の客はこんな連中に金を換えてもらっている。我々は今日の上陸見物は全て照国丸のコック長に任せたから両替はしなかった。

 

 午後2時半頃のランチ船で上陸する。桟橋を出るとすぐタクシーの乗場があって、ガヤガヤ大騒ぎをしていた。皆どんどん車を雇って客が出かけて行く。私とマウント氏、ライサン氏、それから ゲイト氏(兵庫の工場主)、シービ氏(海軍機関少佐)の5人が一組となって、コック長の雇ってくれたタクシーに乗る。シービ氏は運転手と並んで助手席に座った。


 運転手はマレー人の痩せ男で今年19才。運転しながら英語で説明してくれる。ホテル、市役所、学校などの前を通った。この車はオープンカーで、初めは屋根の幌がしてあったが、外の風景を眺めるのに不便だから畳ませて本当のオープンカーになった。おかげで景色はよく見える様になったが、炎天に照らされて皆すごく日に焼けた。スピードを出して走っている内はとても涼しいのだが、運転手の解説の声がどっかへ飛んでしまって、助手席のシービ氏にだけ聞えていて後部席の我々には少しも聞えて来なかった。


 市街には大型の無軌道電車(トロリーバス)が通っている。背面に蒔絵を描いた人力車も沢山いた。すぐに町を外れて、かなり立派な郊外住宅の並んだ場所を走る。ペナンはどこもシンガポールより椰子の木が多い。マンゴスチンの木も沢山見かけたが、季節外れだったので実は無かった。


 次第にペナン ・ヒル山に近づいて行く。ここらは支那人の店が多いが、マレー人の店も少しはあった。椰子の木が規則正しく配列植林されてある。貧弱なレールの電車が走っている。ここに沿って行った終点が、支那寺と呼ばれる名所になっていた。山に迫って来ると小川を見かけたので、橋のたもとで車を降りて橋を渡る。川には家鴨が泳いでいた。道の両側に支那料理屋が2〜3軒あった。支那風の山門をくぐると、右にには山に向かって長々と石段が続いている。屋根は褐色のペンキが塗られていて、廊下の様な作りになっていた。所々に手足を失った物乞いがいてオジギをしている。階段を数百歩登って、ホッと息を付いた所に寺院がある。我々満州の住人にとってはそれほど珍しくない。マレー人が来て英語で、中々要領を得た説明してくれる。 「This is a god of happiness.(これは幸せの神様です)」と言う調子である。


 ここで終りかと思ったらすぐ裏に庭があって、また石段を登らなければならなかった。池があって沢山の亀が飼われていて、大きさ40cm位のもいた。上の方の池は、人が水を干して泥を出しながら掃除していた。この庭を昇り切った所にまた寺があって、ホテイの様な物が祀ってあり、ラカンも沢山に居た。土産売りが「これはかつて東郷、乃木大将も渡欧の時に見物された場所である」として、その署名の写真複写を売り付けようとしていた。ここは涼しそうな所で、坊主が散髪をしていた。本当の魚の様に2mも長い木魚もあった。


 この寺で終りかと思ったら、まだ一仕事があった。それは目の前にそびえ立つパゴダ(五重の塔)に昇ろうと言うのである。しかも昇るには別に喜捨してくれと言われた。シービ氏が若干銭を出して、一同がゾロゾロ昇る。各階には仏様が祀ってあり、それが真っ白な蝋石で作ってある。大きいのは座高2m位、小さいのは50cmくらいの物だった。


 125段の階段をやっとの思いで登り終って最上階に達した。ずっと船に乗っていて足を使っていなかった為か、この昇りには一同が閉口して汗ビッショリになった。階から見下すと遥かにペナンの港が見えて、それから手前の方はすべて椰子の林であり、その間にチラホラと住宅が見える。足元の支那寺院、亀の池、左右には迫って来た山々。この急な山腹でさえも椰子の植林が規則正しく出来ているので、我々には珍しい眺めだった。ここで写真を二枚撮った。8ミリフィルムの方は残りが少なくなって来たので今日は撮影するのを控えた。後にはエジプトのカイロと言う大物が控えているからだ。

 

 元の石段を下って車の所に帰る。あの自分から勝手に案内を申し出たマレー青年からは、お客一人について20仙を下さいと言ってうるさく付きまとわれた。シービ氏がまた有り金を若干やったが、まだうるさく言って来る。これにはさすがに根負けして邦貨50銭をやったら、渋々とした顔をしながら帰って行った。


 ここは石材が豊富らしく、石段や石垣も花崗岩で出来ている。ちょっと珍しい蝶が飛んでいるのを見つけたが、採る事は出来なかった。要するに支那寺と言う所は、それほど見ものでは無かったと言う事だ。

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