第13話 シンガポール〜ペナン 1934年1月10日

 1月10日、水曜日。朝、覚めると細雨が降っている。約束の午前8時迄には朝食を済ます事が出来ないので、トーストと果物を余計にもらって朝食の代りにする。ライサン氏も支度が出来たが迎えの人が来ない。仕方がないのでその間に照国丸に来ていたマレー人の絵ハガキ売りが、日本貨で売ると言っているから買う振りをして冷やかして見る。ブロマイドで1枚日本貨10銭だと言っていた。


 午前8時半に昨夜の方が車を持って迎えに来て下さって、我ら満州組3人で細雨の中を走り、三井のある付近の賑やかな所に出た。私は傘を持って行ったが、これは必要無かった。それは歩道が軒下にあったので雨が降っても平気だったからだ。


 まずは書店に入ってライサン氏が統計書物などを探していた。その間に我々二人はデパートを案内してもらった。2軒のデパートを見たが、どちらもイギリス人の経営で、店内の雰囲気がシックリしていて、日本のデパートの様に豪華に品物を飾り立ててあるのとは大違い。とても上品に品物が並べてある。早朝なのでお客さんはほとんどおらず、見て歩くのが気恥ずかしいほどに静かだった。物価は一番高くて、世界的に見ても高い方から5番目だそうだ。だが英国風のドッシリした雰囲気の品物ばかりで買いたい物が沢山ある。玄関に両替部があるのもこの土地らしい。マレー人の店員が「日本ドル換えますか?」と、日本語で尋ねてくれた。


 ここを出て日本人の多い街へ行く。写真材料の店で8ミリフィルムを買おうとしたら、6ドル半とだと言う。シンガポールドルは今約2円なので一巻13円に相当する。内地では6円で買えるから馬鹿らしくなって買うのをやめた。この港は自由港なのだから安くなければならないだろうに。どうやら私の身なりから日本人の金持ちと見られて値段を吹きかけられたらしい。あとで聞くとバレイ君は同じ物を5ドル、つまり10円で買えたそうだ。


 次に花屋と言う日本人書店に行く。日本の書物、雑誌、沢山置かれていた。地図を買おうと思っていたら、現地政府が出したと言う全島のいい地図があったが、邦貨7円と聞いてやめた。現地の少額貨幣4枚を邦貨と交換してもらう。面白いのはここの銅貨は四角い事である。


 それから市場に行く。海岸通りの一番大きいやつである。暑い所だからと言ってもただ屋根があるだけだった。そこに肉屋、魚屋、野菜屋が店を開いていて、マレー人、支那人が商売をしている。肉屋には豚の首がかかっていて臓物も沢山あった。野菜屋では椰子の実の殻(コブラ)があり、ナントカと大きい果物、ビンロージュの果、バナナ等があって、椰子の実を買ってみたかったのだが、当地の通貨を持っていなかったのでやめにした。ドリアンの果は季節外れで見られなかった。


 次に日本領事館に敬意を表しに行った。そこは大きな建物の4階の一隅にある貸し部屋で、入り口に菊の御紋が掲げられてあった。領事はとてもお話が好きだったので、ライサン氏が出した2つの質問に1時間もかけて答えて頂いた。豊富な話題を雄弁に聞かせて頂いたので、すっかり当地の事情を理解する事が出来た。こんな事なら始めからここへ来るべきだったと思う。


  下記にお話のあらましを書いておく。


〇 この地方は日本人が海外へ投資している物の、その規模は最大でもゴム園が約1億円。

〇 ストーンと言う人がマレー半島に鉄山を持っていて、自分の船で鉱石を八幡に運んでいる。

〇 イギリスがシンガポールに対する態度に付いて。イギリスは最初はここを自由港としてインドシナ、南洋に対する貿易の中継港にしようとしていたのだが、最近の傾向として各地とは直接の貿易が盛んになって来たので、中継港としてのシンガポールの立地的価値は薄まり、イギリスの背後地としては、僅かにマレイ半島に過ぎないので(シャム、スマトラはその勢力範囲である)、そこで政治方針を変えて、マレイ半島の一体化に努力して関税は統一され、郵便も近く統一しようとしている。

〇 イギリスの現地在住支那人に対する態度について。全住民を分けて、ヨーロッパ人とアジア人と決めつけ、前者は統治者、後者は統治される者として扱われる。後者には高等文官になる資格を与えず、従って教育らしき物も一ケ所の医専と師範学校の他は中等教育で終了させる。高等教育を与えて高等の地位を与えないのは、不平の元となるからこのの様な態度であるので、決して異人種も母国に同化させようと強いないのである。アジア人の内では支那人が最も多く勢力がある。これらも先祖から当地に住んで英国の籍を持っている者や広東、福建より渡来した者たちも含まれる。イギリス人は支那人の勢力を押える為に、マレー人を持ち上げようとして、最近では教育現場でもマレー語を標準語と決めた。

〇 支那政府が定義している華僑と言うのは人種的に言うのであって、国籍がどこであるかは問わない。最近の統計で見ると華僑の第一位は台湾にいる支那人である。


 この様に領事は一人で喋り始めて話題は尽きなかった。私たちは三井物産の人を待たせているので、早く切り上げ様としたがその機会はなかった。それでもようやく午前11時頃にやっと解放された。


 もう余り出港まで時間がなかったので、少しだけ郊外の方までドライブしてもらいながら気持良さそうな住宅を見た。三井物産の氏が言うには「当地の日本人はほとんど歩きません。自動車だけに乗りますので、歩くのは苦手になります」との事だった。まったくこんなに道が整備されていて、しかも広くて庭のある家ばかりだから、いちいち歩いていては時間がもったいないだろう。


 市内繁華の所で客待ち自動車は道の中央に白線を引いた場所に駐車している。日本の様に歩道の近く止めておけないので、路肩駐車が無くてとても交通の流れが整理されている。


 午前11時20分頃に照国丸に帰った。12時に出港。時々小雨が降っていた。最後のドラが鳴って梯子を外そうと言う時に、自由学園の女史先生が駆け込んで来た。なんでも約束の車が来なかったので遅れたのだそうだが、皆が揃って彼女を大袈裟に冷やかしていた。


 照国丸が岸壁を離れると、例の現地人の丸木舟が沢山集って来て船について走っている。そこにまた乗客たちが銀貨を沢山に投げんでいた。プロペラで水が濁っていたので、銀貨を拾い損ねていた者もいた。


 出港と同時に昼食になったので港の景色はよく見られなかった。港を出てからはマラッカ海峡内なので瀬戸内海を行く様に波は静かだった。この地方の名物のスコールが時々降って来ては海面を曇らしていた。


 最初の内はマラッカ半島に近く沿って北上したので、スマトラの方は遠くて見えなかった。海峡とは言葉のあやで、それくらい広い物だ。遠くの水平線の近くに夏らしい夕立雲が沢山見られ、これがほとんど平面と言っていい位の静かな海面に美しい影を反射していた。飛び魚が時々海から飛び出していた。船首ではイルカの群が見えたそうだ。シンガポールの手紙を明日ペナンで投函しようとして手紙を書いている人が多かった。


 夜食後にライサン氏がシンガポールの知人から送られた果物籠を開けたので、私とマウント氏、二等船室のアッド氏とフラッグ氏とで事務長室で試食会を開いた。一部の果物はまだ熟していないからとゆっくりと頂いた。食べた物は、


〇 ランターンと言う名前の栗位の大きさで鮮紅色でイガのある物。この上皮がクルリとむけて内部は牛皮の様な白くて甘い肉がある。その中心に芯があった。

〇 ウォーターレモン。イチジク位の大きさで黄色。二つに切ると皮が1cm位で中に種が沢山あった。これを食べるのだが少しすっぱくてレモンの匂いがした。

〇パパイヤ


 日本茶が出されて皆と話をする。午後8時過ぎに船長も事務長室に来て、例の調子でよく喋るので、カトンのトキワ花壇の話や若い時のいたずら話は尽きなかった。


 移動徒歩3300歩。

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