第10話 香港〜シンガポール その3 1934年1月8日

1月8日、月曜日。霧。まだ喉が痛むので、うがいをして守妙も飲んだ。朝食後の午前9時に、以前から約束していた首席電機士のエチゴ氏を訪ねて、照国丸船内の電気設備の案内をしてもらう事になった。私は見学の気分を出す為に機関士からカーキー色の作業服を借りてハンチング帽を被り、懐中電灯を片手に出かける。後から考えてみたら、この船は石炭船では無いのだからこんな意気込みは必要無かったのだと気が付いて、我ながら少しはしゃぎ過ぎていた様だ。エチゴ氏に案内されながら上甲板から機関室までエレベーターを使って下りる。


 照国丸の主機関はSulzer製のディーゼルエンジンで、補助機もすべて電動機であった。(主な機関は別紙に系統図を描いておく)。これを一つ一つ見学して歩いた。それぞれのエンジニアの作品が集っていて、まるで展覧会に来ている様な、ちょっと不思議な感覚を覚えてしまった。電動機にはドイツのシーメンス社製、スイスのブラウン・ボベリ社製、それに日本製があって、言うなれば世界のトップ製品が集っている。電機士にその理由を説明してもらうと、「郵船は三菱系なので、新しく造船する時は世界各地のトップ技術者を集めて三菱造船所で勉強会をする」との事だった。道理でだと思った。あまり詳しく尋ねるのは運転中に良くないと思ったのでその辺にしておいた。2時間も見学していたら、汗でビッショリになってしまった。機関士さんから労をねぎらって冷たいビールを呑ませられ、「ヨーロッパへ行ったら呑まないとだめですよ」と教えられた。カーキー作業服のまま郵船の制帽を借りて、甲板上で記念撮影をしてもらった。


 午後2時からはまた約束があったのでブリッジに昇り、二等運転士から航海技術について説明を受けた。ジャイロコンパス(回転磁気式方位針)はドイツのアンシュッツ社製で高級品だが、この船には上等過ぎる気がした。これは一台につき3万円くらいするのだが、これをスペリー製にすれば1万円くらいで済むので、これを三隻につけた方が良いだろう。舵取りの前にあるジャイロコンパスの追随度は鋭い動きだった。10分の1度まで良く読み取れる。ところで船と言う物は真直ぐに走る訳では無い。波や海流や風の影響を受けてすぐ横に進路がずれるから、常に舵を取って進路修正しなければならない。照国丸では軌跡が記録される様になっているが、それを見たら今日の様にうねりが高いと幅が10度くらいの範囲で揺れており、まるで千鳥足の様な線を描いていた。舵取りは1時間の交代制だそうだ。船室や船倉の空気をいつも吸い出して異常が無い事を確かめたり、火事があればすぐに消火用炭酸ガスを送り込む装置もあった。また火災時の信号装置や海図の見方、それに航路をトレースする方法なども説明された。ヨーロッパに着くまでには精密な各地の海図が400枚も必要になるとの事だった。それから標準のクロノメーター(天文台で精度検定を受けた精密時計)、ラジオコンパス(ビーコン電波受信式無線方向探知機)等も見せてもらった。また、船の位置を天体観測で決定する測定は毎日朝と正午に行うそうだから、そのうちに測定している所を見せてもらう約束をした。


 午後3時半にはお茶をし、その後はデッキゴルフを一勝負やった。もう風邪も良くなったらしいので、風呂にも入った。午後は暑くて、普通のワイシャツでも着てはいられないくらいだ。室内は華氏82度(摂氏28度)にもなっていたので、ノンタイシャツを引っ張り出して出して着たが、これは快適だった。


 お茶をしている時には、ドイツ人のフレンケル氏と会話を交わした。氏の会社が満鉄のカーダンパー(貨物車用の傾斜式荷下ろし機)を納入したとの事だった。満州問題に興味を持っているだろうと思ったので、満鉄の広報係から預かって来た英文のパンフレットを差し上げた。これで晴れて満鉄代表の役を果たしたつもりになった。


 夜は甲板で映画の上映会があった。最初の一巻はシンガポールとペナンの町の風景と風俗の紹介内容だったので、明日の午後には上陸するから役に立つだろう。続いて上映されたアメリカのコメディは数巻で腹を抱えて笑った。字幕に出ていた英語の分からなかった所をスペルで覚えて、後で辞書で意味を調べた。なんでも勉強の種になる物だ。


 昨日からの移動距離387海里 (716km)。曇り。風向、北東。風速4m/秒。気圧762.7ミリ(1016.5ヘクトパスカル)。気温25℃。水温25℃。移動歩数3200歩。

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