第9話 香港〜シンガポール その2 1934年1月7日

 1月7日、日曜日。朝起きると、喉が痛んで鼻もつまっている。午前中に船医の所に行ってルゴールを喉に塗ってもらい、うがい薬も頂く。それから持参した漢方薬「守妙」のティーバックをカップに入れてお湯を注いで飲んだ。その日は一日中ベッドで横になりながらマンガなどを読みふけった。


 もう今日から暑くなって来たので、白服を着ている人も見かける様になった。また夕食の時にはご婦人方は見事だがまるで裸の様な形のドレスを着ている。それとは対照的に、ご婦人と同席の男性はタキシードを着込んでいる。もちろん西洋人には普段着の連中も多い。テーブルにつく高級船員たちはタキシード姿で、ボーイ達もすっかり白服になっていた。


 この照国丸では扇風機を使わないで、甲板にあるダクトから取り入れた海上の冷風を各部屋の天井から吹き出す仕組みになっている。これも今日から運転し始めたので、つまりは今日から熱帯に入ったと言う訳だろう。


 ここで食堂の様子を少し書いておこう。門司を出た翌日から席が決まって、その後はヨーロッパに着くまで変わる事はない。テーブルは小さいのがあちこちにある。私たちのテーブルは4人がけで、事務長(1)、関東応課長ライサン氏(2)、マウント氏(3)、 私(4)となっているので満州組である。ライサン氏はスープを飲むのにチュウチュウと音立てたりするバンカラ組なので、私たちも気を遣わなくて済むのがいい。


 一等船客は半分以上が西洋人である。これからは日本人は減って西洋人が増えるだけだそうだ。そこで私たちは日本人を代表している様な顔して大いに頑張ろうと思う。英語メニューについては遠慮なくボーイに内容を教わり、食後は辞書を引いて覚えるなどして勉強しているので、ヨーロッパに着くまでには一通り見当が付けられる様になるだろう。西洋人はどんな物を食べるのかと時々横目で覗き見して、同じメニューを頼んでみても、案外不味かったりする事もある。最近では夕食にはエクストラとして日本食が一品くらい付く。おとといの夜はトリメシ、今晩はスキヤキである。こんなメニューがなければ洋食で押し通すつもりだった固い決心が「Extra―Sukiyaki」等と見るとすぐに決意が揺らいでしまい、ボーイに注文してしまうので、初志貫徹は出来そうもない。

 

 夕食後に事務長と話した。アフリカ北東部の見物案内記を作ったからお見せしましょうとの事で部屋へ伺い、1時間ほど講義を聞きながら手記をお借りして帰ろうとした時、急に私が思いついて、「だいぶ南に来ましたので南十字の星はまだ見えないでしょうか?」と尋ねたら、室内電話で船長に問合せて下さった。その調べはどうやら長くかかりそうなので、マウント氏と一緒にブリッジに昇って船長室を訪ねた。船長は「南十字星は地平線近くにもう見える筈ですが、時刻は12時頃でしょう。今晩は曇っているから駄目そうですね。まあ、ゆっくりお話でもしませんか?」と言われたので、そのまま部屋に入り込んで1時間も喋っていると午後10時になっていた。


 船長はオクノさんと言ってイギリス人の父親と日本人の母親を持つ混血の人で、イギリス仕込みだから日本語も英語もペラペラであった。お話に釣り込まれて色々と話が尽きなかった。オクノ船長は実は英国贔屓の人で、私がオランダへ行くと言ったら、それはそれはオランダ人をけなしていたので、ヨーロッパ人同志の島国根性を見せ付けられた様な気がして、思わず苦笑いをしてしまった。私たちは二人とも満鉄と言う訳で、オクノ船長から満州の事や満鉄の事はまるで何でも知っているかの様に質問されてしまったので、我ら満州代表たちもタジタジしてしまった。それなので、これからは満鉄代表の意気込みで勉強して、会話に対応出来る様にならないと格好がつかないだろうと思った。

 

 今日は内地と大連へ電報を打ってみた。安南のカムラン湾沖を通ったので山々がよく見えた。


 昨日からの移動距離385海里 (712km)。晴れ。風向、北東。風速4m/秒。気圧758.9ミリ(1011.5ヘクトパスカル)。気温24℃。水温23℃。移動歩数3600歩。

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