第6話 香港滞在 その2 1934年1月5日

 ここから峠を越すとレパルス湾と言う名の有名な海水浴場があった。砂浜は白く青い海が広がっていて、その海辺に現地人の掘立て小屋の様に粗末な建物が沢山並んでいる。そこは更衣室で高い使用料をボッタクっていて、いかにも金を持っそうな日本人が目当てらしい。その浜辺の高い所に「レパルス・ベイホテル」があって、入り口は段々になっていて花園があった。赤や黄色の花が咲き乱れていて緑の芝生に囲まれ噴水からは豪華に水しぶきが飛んでいる。私たちはそこへ自動車を横付けし、まず海岸に降りて更衣室を見学した。記念に砂を一握り袋に入れてから花園に行くと珍しい蝶が居たから捕まえようとしたが逃げられてしまった。その代りに虻をつまんでみたら、指を刺されたのでこの生きた記念品の捕獲は諦めた。


 「レパルス・ベイホテル」はとても大きな構えをしていて、後ろには山、前はオーシャン・ビューで遠くに島や半島も見える良い立地だ。これでは星ケ浦のホテルなどはとても足元にも及ばない。ダンス場もある広いベランダで紅茶を頂きながら風景を眺めた。宿泊する方のホテルはその横にあって、連鎖街商店全体くらいの大きさがありそうだ。


 照国丸の乗客連中も同じ所を見るためにやって来ていた。船長は郵船所有のオープンカーで自由学園の美人女教師を乗せていた。私たちのセダンを見て「オープンカーでなくてはだめですよ」などとのたまっていた。まあ、こちらはタダノリなんだから車の種類などに贅沢なことは言えないのだが、案内のリバティさんが苦笑いをしながら「こちらもオープンカーにすればよかったですね」と言って下さった。大抵の一等船客はタダノリでやって来ているらしい。ホテルを背景にして写真や8ミリカメラで忙しく記念撮影をした。


 時間は午前11時半。それから車を少し後戻りしてヴィクトリア・ピーク(太平山)へズンズンと昇った。この場所に行くまでには立派な道が続いていた。この高い山の道々には沢山の洋館があるのには感心した。水道は山の頂上に配水池があってどこも上水道は行き届いていて、電気も通っていて道も舗装が行き届いており住むに不便はないらしい。ただし自動車は重役クラスの人物しか所有出来ず、また日本人も所有が許されていなかった。


 山の背面に出ると島の両側が同時に見えた。この島には雨水を溜めて水道とするのであちこちに小さい貯水池があるのだが、それでも降水量が少ないこの時期には給水量が足りなくなって時々断水してしまうらしい。


 ピークトラム(ケーブルカー)に20分ほど乗ると標高396mの終点である「ザ・ピーク駅」に着いた。ここには「ピークホテル」があった。またそこから徒歩で少し昇ると標高552mの絶頂まで行けるし、車屋も出ていたがそれはやめにした。しばらく港を見下してからザ・ピーク駅にてトイレを使ったのだが不思議なことには手洗い場がなかった。それからピークトラムで下山する事にした。ピークトラムは10分ごとに上下に運行されていて、車両の形式は最近の内地のと同じで新しかったが、レールの軌間が2m位もあるのと、乗車する時に平らな所から乗るのが違っていた。また線路の傾斜の取り方は内地では大抵上は急で下は緩やかになっているのが、香港では途中で波を打っていて乗っていて気持が悪くなって来た。途中には数ヶ所停留場があった。乗車賃は片道30仙(約40銭)だった。


 ピークトラムを下りてから街を少し歩いて再び三井物産の支店に行き、アーリーさんに会ってお話をする。香港の町の公的運営は固定資産税と関税とでまかなわれているので一般の税はとても軽いらしい。イギリス人はこの税収の六割を土木費に投じて必要でも無さそうな所まで道路を敷いて家を建てているのだそうだ。道路と住居を整備する事で住民を落ち着かせようと言う政策だとか。香港大学の事を聞いてみたのだが専門違いであまりよくわからず、せいぜい支那人の学生が多いとの事だった。ある時に三井で「支那人店員を月50ドル(60円、現在の通過感覚で約10万円ほど)で一人雇う」と求人発表をしたら、希望者が100人以上集まって困ったそうだ。大抵の日本人の店はよく給料を出すらしく、普通の支那人の給料は月20~30ドルが相場らしい。


 やがて時刻は午後1時の昼休みになり、アーリーさんに「さあ食事に行きましょう」と誘われたので町の方面へ出かけた。二階付き電車の通っている向う側に大きいビルディングがあって、下層は商店になっているのでちょっと東京の丸の内ビルの様だった。その上層階があの有名な「ホンコンホテル」だ。エレベーターに乗って何階かに上る。大連のヤマトホテルよりは美しく大きくて、内装も豪華だったのでマウント氏と一緒にとても感心した。これでは大連でもう自慢するものはなくなった様だ。星ケ浦はレパルス・ベイには及ばないし、ホンコンホテルはヤマトホテルより立派なのだ。おっと、今からイチイチ感心している様では、この先ヨーロッパへ行くまでに感心の品切れになってしまうかも知れないから控えておこう。


 何階だったかの支那料理店に入る。ダンス場に絨毯を敷いた広い部屋に数個のテーブルがある。気が付けば照国丸に乗り合せた三菱の人も来て食べている。我々四人も一つのテーブルを囲む。広東料理だそうで北京のとは違い、また内地のものとも違っていた。一番上の皿は銀製で二重になっており、そこに熱湯を入れて料理が冷めない様に工夫されていた。料理は味付けが薄かったが、腹が減っていたので美味しく感じた。蒸しタオルの包み方はとても美しく、それにモダンな広東娘が角砂糖をハサミの様なものを使ってつまんで渡してくれるし、ボーイはそれぞれに料理を取り分けてくれるところなど、ここはサービスがとても行き届いている。アーリーさんに「酒を沢山飲めない様では、これからの二年間は持たないでしょうね」と言われたので、せめてビールでもと勧められた。アーリーさんは大酒豪らしくて、ウィスキーをグビグビと飲んでいた。


 それから町に出てアーリーさんと別れたので、そこから先はリバティさんに案内してもらった。まず買いたいものは絵葉書だったので、支那人の店で美しいを見つけた。英語で喋って買ってみると、ちゃんと通じるから心配は要らなかった。日本の通貨は使えなかったのでリバティさんが支払いをしてくれて、「これは餞別代わりなのでお二人に差し上げますよ」と言われた。マウント氏はリバティさんの親戚だから良いかも知れないが、私はただのお付き合いなのだから申し訳なく思ったのだが、「まあこのくらいなら石炭を扱う三井物産から満鉄社員へのワイロにもならないだろう」と有難く頂戴させてもらった。


 とにかく日本通貨を両替しなくては買い物が出来ないので、台湾銀行へ行って10円札を当地の通貨、ホンコンドルに換えてもらう。10円が7.87ドルになった。8ミリフィルムを買いたいので写真店に入って英語で喋ってみる。値段は一本7ドルだと言われた。日本では6円の品だったので、あまりに高いからすぐ隣りの写真店に行って尋ねたら6ドルだった。これでも7円50銭位で内地よりも高い。仕方なく1本だけ買った。写真用のベストフィルムは内地の7割位で大連と同じ程の値段だったから2本買った。これで10円札も残り少くなってしまった。


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