第4話 上海〜香港 1934年1月2日〜1月4日

 1月2日火曜日。昨夜、四女が安産との電報を受取ったので返電を出そうと思ったが、船の無線は出港しないと打てないと言うので、出港したらすぐに打ってもらう様に手配した。


 大連病院宛 「アンザンデヨロコブ アトダイジニ」


 午前8時半出港の予定だったので、岸壁にある待合所内の売店で上海風景のブロマイド写真とカラーの絵葉書を買った。それに10銭銀貨、紙幣等も両替してもらった。気温は摂氏3度で、コートがなくては寒くて甲板に居られないくらいだったが、これでも例年よりは暖かいのだそうだ。


 午前8時半になっても船は出ない。どうしたのかと思ったら、先に荷物だけ持ち込んでまだ来ない一等外人客があるので待っているらしい。しかも午前9時過ぎにやっとこの人が来て、その後いよいよランチ時になっても照国丸は岸から離れない。何故かと船員に尋ねたら、今は潮はとても引いていて、照国丸には荷物が一杯に載せられており、喫水線が荷物の重さで沈んで船底が川底にくっ付いて離れないのだそうだ。これでは潮が満ちて来るのを待つしかなさそうだ。


 その時間を過ごす間に上海遠望の風景を二枚、そして岸壁の待合所の絵を描いた。上海のスカイラインは見事で、まるでニューヨークの様だった。大きな建物が空まで突き抜けている。


 やっと午前11時半に潮が満ちて来て照国丸は岸を離れた。イエローオーカーにグリーンを混ぜた様な泥水をかき分けて進む。川には中国の軍艦が数隻いて、ジャンクが沢山浮いており、その間を縫う様に照国丸は進んで行く。両岸には工場など立っていて、30分もしてからやっと一昨日に見物した上海市政府庁舎の青い屋根が遠くに見えた。


 午後1時頃にやっと呉松(ウースン)砲台までやって来た。戦争遺跡らしいものは全く見えないが、高い土手が見えて来て、いよいよ揚子江の本流に入る訳である。本流の幅はとても広いから、向う岸は見えないが、ここには島があるので、それがちょっと向う岸の様な形に感じる。それでも幅は二里(約8km)位もありそうだ。この島では盛んに野菜を作って上海へ売り出すらしい。


 本流に入って1時間位行ったところで停船した。下流の浅瀬を越すのに潮が満ちて来るのを今夜午後9時まで待つとの事。その為に香港着は今日の夕方の筈だったたのが、3日後の5日朝までに延期された。


 おりから天気は良くて日はカンカンに照っている。濁流中に照国丸は停船している。退屈しのぎにマウント氏とバリイ君と甲板で雑談をした。台湾の林学専門部教授、タイル氏とも会う。他に文部省からの留学生は数人いたが、みな二等室で本当に気の毒の様な感じがする。だが、おかげで知り合いが出来て話も弾んだ。午後3時からデッキゴルフの仲間に入れてもらった。もう2、3人は話友達が出来た。その一人はスティーブンソン氏で、鉄道省と郵船の顧問を25年もしているそうであり、日本語がとても上手い。私もそのうちドイツ人ともドイツ語で話してみたい物だ。


 夜はバリイ君の二等室に行った。同室の四人に紹介してもらって、果物など一緒に食べた。

 

 午後9時、照国丸が動き出した。月明かりで川のさざ波が綺麗に光っている。


 さて、生まれたばかりの四女はどんな顔なのだろうか? 留守宅はどうしているだろうか? 次女の病気はもうよくなったのだろうか? など考えながら眠りに付いた。


 移動歩数4100歩(約2.87km)


 1月3日水曜日。昨夜はよく寝られた。今日はどんより曇っているが、波は静かだ。照国丸は大きく横に揺れているが、もうそんなに気にならなくなっていて、食欲も旺盛になって来た。朝はスティーブンソン氏の仲間に入って輪投げにチャレンジした。


 午前10時には汽笛が鳴って非常救難訓練が始まった。私たちの一等室は5号ボートに乗る事となっているので、左舷に集まって点呼を受ける。全員が救命胴着を身に付けたのだが、その姿があまりに滑稽だったので写真をたくさん撮影した。

                             

 午後にはデッキゴルフにチャレンジし、船室内で静物画を一枚を描いた。

                             

 そして昨年の30日以来、水が濁っていた為に入れなかった風呂がようやく直ったので、久しぶりに湯船に浸かってさっぱりした。ワイシャツ、カラー、クツ下を洗濯に出した。シャツとズボン下は一週間目に出す事にしょう。

                             

 夜になって少し咳が出始めたので、ビックスを喉元に塗って早めに寝た。今日は終日曇りだった。


 上海からの移動距離240海里 (444km)。風向、北。風速4m/秒。気圧768.6ミリ(1024ヘクトパスカル)。気温12℃。水温13℃。移動歩数6700歩(約4.7km)。


 1月4日木曜日。朝、目が覚めると風が強くて激しく揺れ、船体がミシミシと音を立てている。このまま起きないで寝ていようかとも考えたが、元気を出して立って見ると足元がおぼつかない位に揺れている。しかし少しも気分が悪くならない。朝食のトーストは少なめにして茶を飲み、部屋に帰って身支度をする。


 照国丸にはツーリストビューロー主催の横浜から香港までの観光団体(一等船室)がいた。全部で11人で、ビューローの人が一人添乗員として案内に付いている。その面々の中に西洋装の40歳くらいの元気な女性がいたので、他の人に聞いてみると大分県臼杵市にあるアヅキアラヒ粉(洗顔粉)の本舗との事だった。朝食を取り終わった後にその女性に話しかけてみた。2時間もお話が弾んだのだが、その方は12年前に旦那様を失い、その後に父母と共にこのアヅキアラヒ粉の工場を作って一生懸命に働いたので、最近ではあちらこちらによく売れているそうだ。その原料は満州産の小豆で、1日にトラック一杯分を処理すると言う。今は満州のみならず、ヨーロッパへも輸出しようと言う事になっているそうで、私も四缶い頂いた。「ヨーロッパにいらした時には是非宣伝して下さいね」との頼みを受けた。この商売を女の一人腕でやっているのだからたいそうに感心な方だ。「明日は香港で下り、すぐまた内地へ引き返します。この夏には娘を連れてアメリカからヨーロッパへも行くかも知れません」とおっしゃっていた。そのご婦人は17歳で嫁入りしたので、娘さんはもう20才になるとの事だった。


 船はとにかく揺れる。船窓から見ると、水平線が一メートルも上下している様である。しかし、その割合に不愉快ではない。食事も相当に食べられる。スープ皿の中に汁がこぼれそうになる位に傾いていた。


 午後は二等船室に行き、神戸の商人をしているインド人と話す。インドの独立に関してを論議し、インドの風俗を話してくれた。牛乳は飲むが、牛肉は食べないそうだ。乳をくれる母親だから、殺されないのだそうだ。


 デッキゴルフ一回やった。大手化粧品会社の派遣員の人と一緒になる。とある汽船会社の社長のお嬢さん新婚御夫婦も仲間入りして来た。そのお嬢さんと言うのは仏様の様な柔和な顔つきをしておられ、それが京言葉で話されると、なるほど京都育ちと言う感がする。


 夜に入っても波は収まらない。


 明日は朝早く香港に到着し、夕方には出港だそうだから、見物は忙しい。香港を出てからはシンガポールまで5日かかる。


 この手紙は日本経由で出すから、大連には15、16日でないと着かないかと思う。


 もう大分暑くなって来た。冬服も今日限り、もう2、3日すると甲板にプールが出来るそうだ。おかげで元気である。シンガポールでいろいろ果物を食べたいと思う。


 昨日からの移動距離352海里 (651km)。風向、北北東。風速7m/秒。気圧768.1ミリ(1023ヘクトパスカル)。気温13℃。水温16℃。移動歩数1200歩。

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