短編 女狭穂塚古墳物語

@nobuo77

第1話

目次

髪長姫 海路大和へ

応神天皇 大雀命(後の仁徳天皇)髪長姫

牛諸井の古墳

男狭穂塚古墳の輝き

牛諸井と大原妃の隙間風

木﨑弥平

男狭穂塚古墳と女狭穂塚古墳の対立




髪長姫 海路大和へ


後年、男狭穂塚古墳の陪臣(百七十号墳)から舟形埴輪と子持ち屋根付き埴輪(いずれも国宝、国立博物館所蔵)が出土した。舟型埴輪は髪長媛が同じ型の舟に乗船したのを祈念して、諸県の君牛諸井夫婦が、男狭穂塚、女狭穂塚の完成時につくらせたものであった。


一方、子持ち屋根付き屋敷のほうは、諸県君牛諸井家の住居で、髪長媛が上京するまで、家族で暮らしていた。四方に張り出し屋根をもつ屋敷を発案したのは、諸県の君牛諸井であった。発端となったのは、牛諸井が若い頃に上京して、はじめて大和の家並みを見たときである。道の両側に家々が重なるようにして建ちならんでいる。家々の重なり具合によっては、一棟の屋根の四方にべつの小屋根が張り出しているように見えるときがあった。帰省後、牛諸井に国府から住居用の土地を与えられたときには、すでに牛諸井の頭には、子持ち屋根付きの設計図ができあがっていた。


子持ち屋根付き屋敷は、かって髪長姫も暮らしていた屋敷として人々からあがめられるようになってきた。米良や銀鏡の山中から、巡礼のようないでたちでやってきて、子持ち屋根付きの屋敷を仰ぎみる者まであらわれて、牛諸井夫婦は別邸に移り住んで、子持ち屋根付き屋敷は西都原広場の中央部に移築されて、祭祀用として使用されるようになった。


 月明かりの下、妻の国府内の大半の屋敷や竪坑小屋からは、松明やかがり火の炎がみえた。

 木崎弥平は夜明け前から、高取山の頂上に立って、そんな様子をながめていた。夜のとばりの中で、国府や妻の湊があのように華やいでいる光景を、今まで見たことはなかった。

 髪長媛が日向国の期待を一身に背負って、夜明けとともに、海路、都まではあまりに遠い日向灘、豊後水道、四国の島々をぬうようにしながらながら、都に向けて旅立つ姿を想像し木崎弥平は強い感銘をおぼえていた。


 村々の稲刈り作業が一段落する十月の終わりから、諸県君牛諸井の古墳造りは、本格的に動きはじめた。

 人足たちは高取山の山肌からけずりとった土を、箱型の木馬に積んで古墳場まではこぶ。十本にもなる木馬道を、珠々つなぎの木馬が行き来する様子は、古墳造りが順調に進行している表れであった。

 一ツ瀬川の川原でも、多くの人足たちが働いていた。拾いあげた河原石を、川面に沈めて草カズラで泥をかき落とすと、別の人足たちが、磨き上げられた河原石をモッコにいれて、天秤棒で担ぎあげ、西都原の古墳場まで運んでいく。道中にモッコの切れ間がない。

 西都原の一角では青白い煙が上空にたちのばっている。かけ小屋におおわれた焼き窯では、祭祀用の土器が焼かれている。焼き窯から少し離れたかけ小屋の下では、大勢の農婦たちが、土をこねたり、土器の形を整えている。


 髪長媛が上京して十日あまり経ったあるとき、思わぬ伝令船が早船仕立てで、一ツ瀬川の妻の湊に着岸した。国府の役人たちはなにごとかと、おっとり刀で湊に駆け下りてきた。

 役人たちの頭をよぎったのは、髪長媛の遭難である。一年中でいちばん海がおだやかな七月をえらんで出航しても、気象の急変は予測できない。

 髪長媛の航海には、三人の日和見役が同行している。その日の雲の流れや方向、海面の動きと海水の色具合。風向き、空気の匂いなどを総合的に判断して、航海するか、その日の航海を中止するか決めている。三人の日和見役の一人でも判断がわれたら、その日の航海は中止して、近くの島影や湊で日和待ちをすることにしていた。


 古来より以来全て舟至は少なし。年中五、六の三、四は漂う(岩波講座日本通史第一巻)五世紀〜七世紀(六百三十年~八百九十四年)にかけて、遣唐使船は十八回中国に向けて出航したが、再び日本の湊に帰港できたのは八隻程度といわれている。(日本船主協会)当時はまさに決死の外交であった。 日向灘から豊後水道、瀬戸内海航路は、ほかの海域に比べれば比較的航海しやすい海域であったが、海の気象が一夜にして急変する状況は、昔も今もかわりはなかった。


応神天皇 大雀命(後の仁徳天皇)髪長姫


 伝令船から下船してきた使者の話を聞いて、そばにいた役人たちは、小おどりして喜びの仕草をした。そのうちの二名のものが、あわてて諸県君牛諸井の屋敷にかけだしていった。

 使者の話によれば、髪長媛が大阪の湊に上陸すると、そこにはおおぜいの朝廷人たちを従えて、応神天皇自らが出迎えていた。

 何人もの女官が髪長媛を応神天皇のもとへうやうやしく案内していった。天皇は屋外用の玉座からたちあがって、髪長媛に手をさしのべられた。

「まっていた」

 応神天皇は笑みをくずさず、髪長媛によこの椅子をすすめられた。髪長媛は低頭した。

「船旅の疲れをゆっくりと癒されよ」

 応神天皇は都びともおよばぬ髪長媛の顔かたちや容姿の麗しさに満足して、やさしく声をかけられた。

「ありがたきお言葉」

 髪長媛は感涙をうかべていた。


 役人たちに案内されて諸県君牛諸井のまえに進みでた伝令船の使者の言葉は、牛諸井が耳を疑うほどに衝撃的な内容だった。

 髪長媛が宮廷にあがってまもないある日の宴に参加していると、応神天皇の命を受けた朝廷人が髪長媛に、

「あちらのお方にこの大御酒をおすすめください」

 といいながら、酒杯をさしだした。

 あちらのお方とは、大雀命(後の仁徳天皇)であった。髪長媛も名前だけは両親から聞いた覚えがあったが、もちろん対面するのは初めてであった。

 大雀命は髪長媛が湊に着いた時に、応神天皇につき従っていた。その時、初めて髪長媛をみて、その乙女、姿容の端正さに感動したことを天皇に上奏した。

 応神天皇は大雀命の意を察して、髪長媛を大雀命にめとらせることにした。大雀命といえば皇太子の地位にあり、次期天皇になられるおかたである。


 使者の話を聞いているうちに牛諸井と大原妃は、畏れ多くも、という気持ちがたかぶってきた。我が娘が次期天皇の妃になるということがどれほど偉大なことか、牛諸井も大原妃もまだ実感が湧かなかった。大原妃はいくどとなく目頭をおさえた。


牛諸井の古墳


 木崎弥平が諸県君牛諸井から、墳墓の造営の命を受けてから、すでに三年が経過していた。墳墓のおおかたの形は完成しつつあった。土器碗を伏せた形の後円部は三段の大円墳状の姿をあらわしている。

 これだけで立派な古墳であったが、さらに南の部分から長方形の祭祀用の前方部を張り出させる段取りをはじめている。

 この全体像が完成すると、すでに四百基あまり完成している西都原の古墳で最大のものになる。



 いま西都原の中で一番大切にされている墳墓は、百号墳であった。やや規模の小さな前方後円墳で、いまから二百年前の景行天皇時代に造営され、豊国分君が葬られている。

 景行天皇は九州地方を巡幸された折に、日向国府内に仮宮を建てられて、六年間住まわれた。その時、日向国府の政治を任されたのが豊国分君であった。豊国分君は、農業開拓にすぐれていて、日向国府内の各地に、稲作開墾事業をさかんにおこなわせた実務者であった。



 それまでは縄文時代、弥生時代からつづいていた狩猟や採取を主な収穫物として暮らしていた日向国府の人々の暮らしぶりを、稲作を中心とした食糧生産に転換させたことで、日々の暮らしぶりを飛躍的に安定させた。

 いまでは、豊国分君は人々からは日向国の始祖とあがめたてられている。諸県君牛諸井は自分の古墳が、始祖の墳墓をこえることに心をいためる夜もあったが、いまと二百年前とでは、時代が大きくすすんでいる。西都原ではすでに豊国分君の前方後円墳をこえる墳墓はなん基も造営されていた。

 諸県君牛諸井は娘の髪長媛が次期天皇の妃になることを考えると、媛の父親としてそれにふさわしい墳墓も必要だと自分にいい聞かせながら、木崎弥平に工事をいそがせた。





 造営をはじめてから四年がたっと、後円部はほぼ完成に近い姿に仕あがりはいめていた。三段状に築きあげられた後円部には、一ツ瀬川の河原から運びあげてきたふき石が整然と敷き詰められている。あとは段にそって、埴輪をならべたてるだけであった。

 諸県君牛諸井は、ある夏の夜明け前に、高取山の頂上をめざした。大原妃と木崎弥平も同行している。前夜は西都原の仮宿で一夜をすごした。夜半までは煙るような雨が降っていたが、夜明け前に仮宿の戸をあけてみると、空には満天の星がきらめいていた。

 山道は湿って大原妃は、なんども足を取られそうになってよろめいた。一行が頂上に立つのを見計らったように、日向灘の水平線上に、ほおずき色をした、大輪の太陽が昇りはじめた。空気は夜来の雨で洗い流され、すがすがしかった。水平線上からの光芒は、またたくまに西都原の丘陵地にひろがりはじめた。その瞬間、大原妃が、

「あっ!」

 と、感嘆の声をあげた。


男狭穂塚古墳の輝き


 諸県君牛諸井も同行していた十数人の人々も、大原妃の声にすいこまれるようにしながら、いっせいに眼下の古墳に目をむけた。その姿は、諸県君牛諸井に都で一度だけ見たことのある、先代天皇陵が朝日をあびた姿をおもいおこさせた。都の先代天皇陵は海からとおい内陸部にあり、太陽が昇りはじめて天皇陵に朝日がさしこむまでには、かなりの時間があった。それにくらべて、西都原は目の前に日向灘を抱いているので、太陽が海面から姿をあらわしてすぐに完成間近の古墳全体に朝日を浴びることができた。


 後円部の磨きぬかれたふき石が、朝日に包まれてしまうと、そこだけが黄金色に光りかがやきつづけた。諸県君牛諸井は無言で立ちつくしていた。まわりの側近たちも、動揺したように身を乗り出したり、互いに顔を見合わせてうなずきあっている。

 木崎弥平は、眼下でかがやきつづけている古墳を見おろしながら、自分の想像以上の出来栄えに内心満足した。残りは前方部の墳丘をどのように形づくるか諸県君牛諸井との詰めが残されている。


 前方部の墳丘をつくる予定の南には、まだ可なりの空き地がある。後円部とのバランスを考えれば、前方部の方形状の古墳の長さも、木崎弥平にはほぼ想定できていた。

 やがて夏の太陽は、西都原全体を強烈な光で照らしはじめていた。麓から吹き上がってくる海風までが、蒸気のような熱をおびはじめていた。


 髪長媛が次期大君に見初められて妃に内定したことや、自分の墳墓の工事が順調にすすんでいることで、このところの諸県君牛諸井は機嫌のいい日がつづいている。

「木崎。この工事がおわったら、国富本庄のほうにまわってくれ」

 木崎弥平がすぐには理解しかねて、考えあぐねていると、

「国富本庄は牛諸井家の始祖の地だ。あの地に代々の墳墓を整備しておきたい」

 と、諸県君牛諸井はいった。

 牛諸井の始祖から何代目かあとの世に、国富本庄を十二代景行天皇が行幸され、六年間、仮宮を設けられてた。ここを拠点に南九州一帯の平定につくされた。平定そのものは、薩摩と熊襲の度かさなる反撃をうけて、途中でとん挫したが、二国をある程度弱体化させて、次期の平定に備える目安がたっていた。牛諸井家は地元にあって、その間の大君一行のいっさいの面倒を取り仕切っていた。その居心地のよさに都住まいの大君が、国富本庄のような僻地に六年間も仮宮を設けておられたのだ。


 諸県の君牛諸井の始祖は、名が示すように、諸県の中心地・都城であった。当地にあって、薩摩と熊襲の交易を仲立ちする流通の集積地として栄えた。初代牛諸井は、両国の流通がとどこおらないように、熊襲人に薩摩弁を通訳したり、両国の貨幣価値の違いを調整したりして、両国の信頼はあつかった。初代牛諸井は薩摩王や熊襲王と、時には酒を酌み交わすほどの仲であった。熊襲王は、薩摩王から南海の国々の情報を得、一方、薩摩王は熊襲王から、朝鮮や魏国の近状を聞きだしたりしていた。


 諸県の君牛諸井家の生活様式が一変したのは、第十二代景行天皇が日向国にはいられたときに、当時の日向国府長官・豊国別君を通じてわたされた景行天皇からの勅命であった。その勅命には、諸県の君牛諸井は、都城の館を閉じて、ただちに豊国別君の命に服せよ。というものであった。さらに豊国別君からは、第十二代景行天皇一行の日向国滞在中の日常些事の一切を取り計らえと指示された。初代諸県の君牛諸井の君にとって、薩摩、熊襲両国は捨てがたかったが、大和の大君の命にはさからえなかった。


 諸県の君牛諸井が薩摩、熊襲に背をむける状態で都城を去ったことが、景行天皇が両国の平定をむずかしくした一因でもあった。時代が下った今また、諸県の君牛諸井は大和朝廷と深いつながりを結びつつあったあ。

そのつながりを揺るぎないものにするためにも、自分の墳墓の新造と先祖の墳墓工事を調えておく必要があった。そのことが一人都に旅立っていた髪長媛にも顔が立つと牛諸井は考えている。


牛諸井と大原妃の隙間風


 西都原にも夏が過ぎ、すこし秋めいた空気をおぼえはじめたある夜、牛諸井は久しぶりに大原妃の肌に触れた。このところ墳墓造りが佳境になっており、毎夜のように木崎弥平との話に没頭する夜がつづいていた。寝屋にもぐりこんでも、色めくような気持ちの高まりはおぼえなかった。大原妃の肌にふれるのは、春に西都原の山桜をめでて、まだ酔いの残っていた晩以来のことであった。しばらく肌を抱いていても、大原妃の肌には春の夜のような温もりが感じられない。

「何かあったのか」

 牛諸井は大原妃の顔をのぞきこんだ。

「近頃、私のことをお忘れのようで」

 大原妃の声は冷めていた。

「ご無沙汰をしていた」

 牛諸井は、声音をやわらげて、妃の肌をひきよせた。

「あなた勘違いをされているようで」

 大原妃は牛諸井の手を肌からひきはぐようにした。

「何のことだ」

 牛諸井は姿勢を変えて、胸の膨らみに手を這わせながらきいた。

「私の墳墓はどうなさいます」

 牛諸井は思わず、胸にはわせていた手をひいた。


 牛諸井は大原妃の問いに言葉をつまらせた。いままで大原妃の墳墓を考えてみたことは一度もなかった。牛諸井にとって、大原妃はなくてはならない大切な伴侶である。伴侶以上の存在でもあったが、彼女の死後のことまででは考えがおよばなかった。日本には古来より、配偶者との墓を同じにしないという風習があった。配偶者がなくなれば、里方の墳墓に送られるのが普通であった。妻の死後、夫と同じ墳墓にはいることはありえない。墳墓を同じくするのは血縁関係のある親や兄弟にかぎられていた。死後も男女が枕をともにすることは考えられなかった。


 大原妃は次期天皇の妃となる髪長媛を産んだ。また、日向国府内においての、鬼道は絶大な力を持っている。とくに稲作の吉兆を占う洞察力がすぐれていて、大原妃は農民たちの間では、神がかりにも似た信頼があった。それに、大原妃は応神天皇の流れをくむ大和の女性であった。いままでは自分との身分のちがいを意識したことはなかった諸県の君牛諸井も、髪長姫が都にのぼった頃から、ふとしたはずみに、妻の身分の重さを意識することがあった。


「となりの空き地は、なににお使いで」

 大原妃は、身を寄せながら、小さな声で聞いてきた。大原妃が聞く隣の土地とは、牛諸井の墳墓の前方部を造るための空き地である。

「そうか」

 牛諸井はあの日の朝の情景を思いうかべた。

 夏のある日、一度、大原妃をともなって、高取山の頂上に登ったことがあった。その時、妃は眼下に出来上がりつつあった墳墓を目にして「あっ!」と、声をあげた。

 夏の強烈な朝日に輝く巨大な墳墓に魅せられたように、しばらく、そこから目を離さなかった記憶がある。

「おなじ敷地に、ならんで造ろう」

 と、牛諸井はいった。

 大原妃は、気持を高ぶらせながら、肌をにじりよせてきた。


木﨑弥平


 木崎弥平がその話を諸県君牛諸井から聞かされたのは、西都原一帯に初霜のおりた朝のことだった。黒い火山灰の地表は初雪が舞い降りたように白くおおわれている。

 諸県君牛諸井の墳墓は、まだ完成しているわけではない。後円部の形が出来上がったばかりで、前方部の方形墳の工事が残されている。前方後円墳の全体像が完成すれば、いまある空き地も想像以上にせまくなるはずだ。その狭い空き地にあらたな墳墓を造ることはできない。造ったとしても、小型の円墳が精一杯だろう。

 牛諸井の前方後円墳に隣接して、おなじ規模の大原妃の前方後円墳をあらたにつくることになれば、これから本格的な工事に取り掛かろうとしている牛諸井墳墓の前方部の変更を考えなくてはならない。


 牛諸井、大原妃、木崎弥平は、工事事務所として使っている藁葺き掘っ立て小屋の床に置かれている大きな板描きを覗きこみながら、議論をかさねる日がつづいた。

「いまの世、安定して稲作が続くのは、私の占いがしっかりしているからですよ」

 議論が割れたりすると、大原妃はいらだった表情で、牛諸井に言葉をむけた。

 安定した稲作からうまれ出るコメは、貨幣そのものであった。いま国府内の高倉には、租税として集められたコメが、うずたかく積み上げられている。貨幣としてのコメが豊富にあるいまだからこそ、自分の墳墓もそれにふさわしいものを造り上げたいと、大原妃は主張した。

 木崎弥平は床の板描きを何度も描きなおしながら、二人の様子をうかがっていた。議論が何日もつづき、最後に折れたのは牛諸井だった。

「妃の望むようにするがよかろう」


 床で何度も書き加えられた素描に、目を落としながら牛諸井はつぶやいた。

 西都原は冬になると、北の果てに連なる市房連山から吹き下ろしてくる北風にさらされる日が何日もつづく。西風は高取山が屏風の役目をして風の勢いをやわらげてくれているが、この季節の太陽の光は弱々しくて、すこしも温もりが感じられなかった。

 木崎弥平はそんな冬冷えの日でも、大原妃に古墳現場につれだされたりした。大原妃の構想では、自らの古墳も夫の諸県君牛諸井の古墳とおなじ規模にするように、木崎弥平に命じている。


 現王の応神天皇の血を引いている身分にふさわしい古墳を、この地に残すのは当然だと考えているので、夫の牛諸井や木崎弥平の意見をまったく取りいれようとはしない。まして次期天皇のお妃になる髪長媛を産んだ身分としては、諸県君牛諸井の古墳と肩をならべるのに、少しの畏れも持たなかった。


 現在、工事を進めている牛諸井の古墳は、後円部を北に向けている。前方部の方形墳は南にひきのばす絵図を、すでに引いている。空き地の関係で、大原妃の古墳をならんで造るとなれば、後円部をすこし西にずらすことになる。正確には後円部が北西になり、前方部の方形墳は南東方向になる。土器碗を伏せたような後円部はある程度の空間が保たれる。夫婦がそろって頭を並べたようなすがたになる。

 しかし、木崎弥平が頭を悩ませているのは、前方部の方形墳のながれであった。牛諸井の前方部を絵図通りに造ってしまうと、大原妃の前方部が途中で切れてしまう。大原妃の前方部を絵図とおりにすれば、牛諸井の前方部がのびない。二人のどちらかが折れて、納得しあった結果を待つしかなかった。この部分の工夫は、木崎弥平の立ち入れない領域であった。


 二人の結論が出るあいだ、木崎弥平は埴輪工房で過ごす日が多かった。三ヶ所の小屋掛の工房は、それぞれに焼き窯を備えていて、青白い煙が小屋の屋根をゆっくりとはいまわりまながら、外の冷気に吸い込まれていく。 焼き窯の前に立っていると、北の市房おろしの冷気が、程よく温められて小春日和のようであった。

 埴輪職人たちがいそがしく立ち働いているあいだを、木崎弥平はゆっくりとみてまわった。胴長の飾り壺などの埴輪が、埴輪工房の周りに、野ざらしのまま所狭しと並べられている。雨、風にあてることによって、素焼きの埴輪は粘りを増していく。

 これら一つ一つの埴輪が、二つの巨大古墳に林立する姿を、木崎弥平が思いうかべていると、高取山を背景に、諸県君牛諸井と大原姫の二人が、まぎれもなく日向国府の頂点にたっている姿がかさなりあってみえた。


 三棟ある埴輪工房のひとつでは、古墳の装飾用埴輪とはべつに、子持ち屋根付き屋敷埴輪と準構造船埴輪が造りはじめられていた。二つの埴輪造りの発想は、大原妃が埴輪工房を見学しに来たときにうまれた。子持ち屋根付き屋敷は、髪長姫が都に旅立つ日まで過ごした思い出の屋敷である。準構造船のほうは、髪長姫が乗船して大和にむかった船であった。大原妃は西都原の広場に立ちならぶ埴輪群に圧倒されながら、

「二つの埴輪を造って、自分の墳墓の副葬品にしたい」

 と、木崎弥平に向かって言いはじめた。つねに埴輪職人の人手不足に悩まされている木崎弥平にとって、あらたな頭痛の種がふえた。


 はじめのうちは危惧していた、在所からかき集めてきた農婦たちの埴輪造りも、月日とともに上達しはじめている。その中から、あらたな埴輪造りに人手をさかれると、いままで順調に流れていた前方後円墳向けの埴輪造りが、滞るおそれもあった。

「女たちの手先の器用さは、男にはまねできない」

 埴輪職人の責任者は、木崎弥平に慰めの言葉をいった。


男狭穂塚古墳と女狭穂塚古墳の対立


 諸県の君牛諸井が、風邪をこじらせて床に伏せているのを木崎弥平が知ったのは、ときおり、春先のおだやかな陽射しが、西都原の黒い火山灰の地表をあかるく照らしはじめている頃だった。

 最近、大原妃が供の者二、三名をともなって墳墓造りの現場に頻繁にやってきていたが、彼女の口から牛諸井の病臥の話はでなかった。

「このところ、牛諸井長官のお姿をお見かけしませんが」

 と、木崎弥平は大原妃に目をむけた。

「季節の変わり目で、すこし体調をくずしているようで」

 大原妃はかるく受け流すような口調でいうと、すぐに話題を自分の墳墓に切りかえた。

「これからは私の墳墓を優先するわ」

「長官がそのようなお言葉を」

 大原妃は無言でうなずいた。

 木﨑弥平にとって、それは突然の方針転換であった。まず、現在進行中の牛諸井の墳墓を完成させてから、大原妃の墳墓造営に取りかかる算段を木崎弥平は考えている。二つの墳墓の位置関係も、その間に二人の間でゆっくりと話し合って決めてもおそくはない。

 大原妃は工事が進行中の牛諸井の墳墓の横に立って、

「あそこを頭にして、こちらにむかう」

 大原妃の右腕が力強く指し示した線は、諸県の君薄諸井の墳墓の方形墳を途中で分断するようなかたちでのびている。



 木崎弥平はおどろいた様子で大原妃の顔を見た。

「あちらの仕事は一時やめにして、さっそく、こちらに取りかかってもらうわよ」

「しかし」

 木崎弥平は口ごもった。いまさら、牛諸井の墳墓工事を途中放棄して、あらたに大原妃の墳墓造営に取りかかることなど、諸県の君牛諸井の口から直接そのことを確かめなければ、独断でできることではなかった。

「一度、長官のご意見も聞いておかないと」

 木崎弥平は、大原妃が指し示した方向を、うつろに見つめながらいった。

「長官は床に伏せながら、妃の墳墓を優先したいと、いわれている」

 大原妃は、横にひかえている供の顔を見ながらいった。


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