第23話 ささくれ――人魚の恋の終わり

 入り江に人魚が現れたのは、翌日のことだった。それも三人も。

「あなた、無事だったのね!」

 一人は、以前から湖に住んでいる女性の人魚だった。あとの二人も女性のようで、三人ともどこか似た雰囲気をしている。姉妹だろうか。

 三人の人魚は入り江の少し離れたところから並んで顔を出し、じっと入り江のほうを見ている。いまは、ハナの家の修繕の材料集めと並行して、壊れた小舟に代わる新しい舟を作っているところだった。入り江には舟作りのための作業台が組まれ、村から三人の若者がやって来て丸太を手斧で削る作業をしている。人魚たちはどうやら、若者たちが気にかかるようだ。

「人魚だ!」

 ハナの背後で、若者たちが声を上げた。注目されたことに驚いて、人魚は即座に水の下に顔を隠した。しかし、その直前にハナは彼女らの視線が入り江の左手の岩場を見たような気がした。

「少し前から来ている人魚なの。人を警戒するから、見かけてもあまり大声を出したりしないであげてね」

 ハナは若者たちに作業を続けるように言って、自分はその場を離れて左手の岩場を目指す。水のなかから幾つも大きな岩が突き出ている場所を、ハナは手足で岩を掴んで器用に伝っていく。

 果たして、岩陰に三人の人魚が顔を出して待ち構えているのを見つけた。一方の人魚は、ハナと目が合うと顔を水の下に引っ込める。また逃げるつもりなのかと思ったが、そうではなく水面下でその場に留まっているようだ。

 ハナは彼女たちに近い場所に腰かけるのに丁度良い場所を見つけて、そこに腰を下ろした。水面を覗き込むと、そこに麗しい人魚の顔が三つ並んでいる、不思議な光景だった。

「あなたが、この森の調停者か」

 水のなかで人魚の一人が口を開いた。初めに来ていた人魚に似ているが、それより少し厳格そうな表情をして、ハナを真っ直ぐに見上げている。

「ええ、わたしが森の調停者よ。ハナと呼んで欲しいわ」

「わたしはタラサ。我が同胞はらからを気にかけていただいたようで、感謝申し上げる」

 そう言いながら、タラサは傍らの人魚の腕を掴んだ。初めに来ていた、竪琴を奏でる人魚だ。

「この子はモーリャという。わたしの妹なのだが、どうにも人間の男に恋慕する癖があるようでな。しばらく遠出を禁じていたのだが、いつの間にか逃げ出してしまった。ようやく見つけて連れ戻そうとしていたのだが、最後にあなたに挨拶をしたいとあの入り江に向かったら……」

 タラサはそこで溜め息をついた。「ああー」とハナは納得する。今日から舟を作るために普段はいない村の男たちが浜辺に来ていた。人間の男に惚れっぽいモーリャがそれを見てしまった。

「わたし、帰りたくないわ」

 モーリャはタラサに対してツンケンした声で言って、捕まれた手を振りほどいた。

「ねえハナ、わたしこの湖にいてもいいでしょう?」

「なにを言っているの」

 もう一人の人魚が咎めるように言った。こちらはモーリャよりも少し幼く見えるが、きりっと表情を引き締めている。人前に出て緊張している子供のようだとハナは思った。

「ここは淡水なのよ。長くいては体に毒だわ」

「でも、湖底の洞窟のあたりなら海水も濃く混ざってて大丈夫よ。わたし、帰りたくない」

 モーリャは頑なだ。

「大体、姉さんやアクアはわたしの恋路を邪魔しすぎなのよ。この前も、わたしが屋敷を出るのを禁止してあの人に会わせてくれなかったじゃない」

「人間に恋をしても不幸になるだけよ。住む場所も生き方も違う、そんな相手とどうやって幸せになれるというの?」

 水面下で人魚の姉妹は言い争いを始めてしまった。タラサやアクアの言うことはもっともだが、恋に落ちて盲目状態になっているモーリャにはなにを言っても無駄なのだろう。

「人魚って、水のなかでも話せるんだねぇ」

 ハナは、終わりそうにない言い争いの声が落ち着く一瞬を狙って、水面にそう投げかけた。すっかり怒り心頭のモーリャが、投げやりに答える。

「なに言ってるの? 水のなかでしか話せないのよ。水の外じゃ声が出ないもの。でも、竪琴の音は水の外じゃないと響かないから……」

「そうなんだ。だから会うときにいつも、声をかけても応えてくれなかったのね」

 モーリャに会うのは大体水の外にいるときだ。水のなかを覗き込んでまで探したことはなかった。

「この前の、湖が爆発するみたいだったときは大丈夫だったの? 湖の底まで響いたでしょう?」

「ああ、『流れ星』でしょう? 洞窟の奥の方にいたから大したことはなかったわ。海にもよく落ちてくるの。他人の住処を荒らすなんて、迷惑な話よね」

 虚勢なのか本当に大したことないと思っているのか、モーリャは平然としたものだ。海ではそれだけ『星の子』との遭遇率が高いのかもしれない。

「あなたのこと、心配してたんだよ。そんなに深い湖でもないし、もしも偶然近くにいたら大変だなって」

「あんなに光り出した『流れ星』に近付く馬鹿はいないわよ」

「そっか。逞しいんだねぇ」

 「ねえ、それより」と、モーリャは不機嫌な顔から一転、目を輝かせてハナを見た。妙案でも思い付いたような顔だ。

「あなた、あの人間たちの知り合いなんでしょう? わたしのこと紹介してよ。さっきも、わたしたちのこと気にして見てたみたいだし、わたし、どういうふうに見えてるかな? 綺麗だって言ってた?」

「モーリャ!」

 タラサとアクアが同時に悲鳴を上げるように名を呼んだ。確かに、彼女の頭のなかは恋愛一色のようだ。

「紹介してもいいけど、どうするの? 前にも言ったけど、もうすぐもっと寒くなってこの湖は表面が凍っちゃうし、そうなると会えなくなると思うけど?」

 こうして人と人魚と、水面を介して話をできるならまだコミュニケーションの取りようもあるだろうが、水面が凍ってしまえば次に会えるのは春を待たなければいけない。それでは、せっかく恋人になれたとしても意味がないだろう。

 モーリャは、不思議そうに首を傾げた。

「湖は凍る前に、相手に海へ来て貰えばそれで済むことじゃない?」

 「あれ?」と、今度はハナが首を傾げる番だった。

「ねえ、モーリャ。人が水のなかで生きていけないのは知ってる?」

「え?」

「そのまんまの意味でね、人は水のなかでは息ができなくて、あっという間に死んじゃうよ。湖の底まで行って、さらに海までに長い洞窟を抜けていくなんて、到底できない」

 モーリャはすっかり混乱した様子で「え? え?」と繰り返しながら、二人の姉妹の顔を見た。二人とも呆れた様子で「その通りよ」と頷く。

「泳ぎも下手よ。日本の足をばたばたさせて、下品極まりない」

「海老や魚を捕るのにも変な道具を使わないとできないし。堂々と素手で闘わない卑怯者って感じ」

 タラサとアクアが深刻な顔で人間をこき下ろした。

「それ本当?」

 モーリャが今度はハナを見た。「嘘だと言って」と言外に滲ませるような絶望した美貌に、思わず胸が苦しくなるが、ハナは即座に頷いた。

「残念ながら。人間は人魚のようには生きられない」

 とどめを刺されて、モーリャはがっくりとうなだれた。水面から徐々に水中へ、ゆっくりと沈んでいって見えなくなる。アクアが盛大にため息をついて、「仕方ないなぁ」と呟いてその後を追っていった。

「……諦めてくれるかしら?」

 ハナの言葉に、タラサが首を横に振った。

「まだわからない。が、なんとしてでも連れ帰る。気丈に見えるが、肌や鱗の荒れが酷かった。あんなにささくれた手をしたモーリャなんて初めて見た。あれでは、ここのところ竪琴も満足に奏でられなかっただろう」

「そうだったんだ……」

 地上にいるとき、縋るように竪琴を抱きしめて同じフレーズを奏で続けていたモーリャの後ろ姿を思う。指先の痛みと、恋の痛みがシンクロしていたのかもしれない。しかし、ハナが甘い態度を取ったばかりに痛い思いをさせたなと、少しだけ反省する。

「別に気にすることではない。恋に落ちて、失恋してとことん落ち込むところまでしっかり浸ってるんだから、こっちの気持ちも考えないで気楽なものだ。失恋の感情を引きずるのにも飽きたら、またすぐにケロッとして次の恋の相手を探している」

「た、逞しいんだね……」

「馬鹿なだけだ」

 タラサは頭痛を堪えるような渋い顔した。

「これが、人間ではなく同胞が相手なら、諸手を挙げて歓迎するのだが……わたしたちも彼女の恋愛に口を出し過ぎた……出さざるを得なかったわけだが」

「事情が事情だもの。でも、人間は水のなかで生きられないって、教えなかったわけじゃないんでしょう?」

 会話のなかで、タラサはハナが口にするより先にそのことを言っていた。しかし、モーリャはまるで意に介していなかった。ハナが告げてからの落ち込みようは、知らなかったことの証左のようにも思える。

「わたしたちの言葉に対しては、聞く耳を持たないんだ。だから、ハナから言って貰えて助かった」

「なるほど。……また、姉妹仲良く過ごせると良いね」

 ハナが言うと、タラサは驚いたように目を丸くして、それからはにかんだように笑った。

「わたしたちも、そうしたいと思っている。あなたは良い人間だな。人間は普通、我々を見るともっと奇怪な行動を取るものだが、あなたは友人のように接してくれる。さすがは調停者、といったところか」

「ありがとう。ただ単に、いろんなものを見慣れているだけだよ」

 タラサは目を閉じ、胸に手を当てて謝意を示すと、水のなかへ沈んで水面から姿を消した。

 ハナも岩から立ち上がり、岩場を伝い歩いて入り江に戻る。

 入り江から望む湖に、人魚の影は見えなかった。そういえば、一ヶ月弱の時間を互いに近くで過ごしていたのに、最後にちゃんとした挨拶ができなかったなと、それだけが少し心残りに思えた。夕暮れ時に聞こえてくる悲しげな竪琴の旋律も、もう聴くことはないのだろう。

「さようなら、人魚姫」

 ハナは自分の耳にだけ聞こえる囁き声で、湖に向かって告げた。

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