故郷の水

山本アヒコ

故郷の水

 男の故郷は北に長大な山脈が東西に横たわり、冬になれば山脈ともども真っ白な雪に覆われる。そして春になれば豊富な雪解け水が故郷と下流の村や町を潤す。決して大きくないこの国では、この雪解け水が国を支えていると言っても過言ではなかった。

 男は産まれたときからこの雪解け水を産湯に使い、飲み浴びながら育っていたので、それを誇りに思っていた。彼だけでなく、故郷の老若男女問わずそうだった。

 なので隣国との戦争が起きると、男は迷わず故郷と雄大な山脈を守るため、自ら望んで兵士となる。真新しい軍服の胸ポケットには両親と弟や妹と一緒に撮影した写真を忍ばせて、何人もの志願兵を乗せた蒸気機関車が引く車両に乗り込む。

 絶対に戻ってくると決意して、写真を入れたポケットに手で触れた。


 森を進軍していた部隊は、待ち伏せていた敵兵による銃撃で散り散りになってしまった。

 その場で頭を抱える者、状況が理解できず棒立ちのまま銃撃される者、悲鳴を上げて逃げようとして味方に体当たりして転ぶ者。指揮官の声も聞こえない。

 結果、男は銃も持たず森の中をさまようことになってしまう。銃だけではなく食料や薬に包帯などを詰めた背嚢も失ってしまった。

 すでに敵の攻撃から五日が経過している。食料をすべて失ってしまったため、何も食べていない胃は空腹を常に訴えていた。だからといって足を止めるわけにはいかない。敵は執拗に男を追いかけていたからだ。

 腰にぶら下げていた水筒のフタを開けるが、中身はすでに飲み干していた。

 森をさまよう男はやがて小さな沼を見つけた。見るからに濁っているが、ずっと待ち望んでいた水だ。転がるように駆け寄ると、両手で掬いむさぼるように飲む。

 背後から近づいてくる複数の足音に気づくこともなく。


 あれほど待ち望んでいた水が、男の顔と全身を濡らす。しかし、そこに喜びは無い。

 頭から袋をかぶせられた男は椅子に拘束され、敵兵はあごを強い力で掴んで口を開けさせて大量の水を袋の上から注ぐ。濡れた袋は男の呼吸を奪い、反射的に動くのどは勝手に水を飲む。飲みたくなくても飲まされる。

 水を入れた容器が三つ空になったところで男は頭から袋を外された。

 正面に立った敵兵が言う。「何か言いたいことはあるか?」

「…………水をくれ」


 泥臭くぬるい濁った水ではなく、透き通り肌が切れそうなほど冷たい故郷の雪解け水を。


 男の頭に、袋が再びかぶせられる。

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故郷の水 山本アヒコ @lostoman916

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