ある作家に告ぐ

月平遥灯

ある作家に告ぐ

 私の話す作家は存在するかもしれないし、しないかもしれない。特定することはできない。なぜなら、私がそれを意図しないから。だから、あの人のことを言っているのでしょう、などと訊かないで欲しい。そんなこともあるかもしれない、程度に聞いて欲しい。だけど、これを読んで刺さった作家がいたとすれば、それはきっと君のことに僕は触れている。


 前置きはこの辺にしよう。


 

 ある作家がいたとする。その作家はズタボロになるまで誹謗中傷を受けた。読者を裏切ったからだ。読者の意図しない方向に話が行ってしまったから。あり得ない設定だ、とか、状況的にそんなの無しだ、とか。これはちょっと読む気が失せる、とか。


 私が読んだ限りでは——確かに意表を突かれたことは認める。それに、ストーリーの脈からして、やりすぎてしまった感もある。だが、それは事件だ。事件というイベントの中で行われた残虐な一面を、文字として起こしただけ。キャラクターが行間の中で息づいているとすれば、数多の物語の中では、そういう事件が起こることも結構ある。これは、書籍になればなおさらだ。WEBでは殆ど見ない、もしくは人目に付かないだけなのかもしれない。


 アリストテレスやフロイトは悲劇とカタルシスを紐づけ——学術的なことはここでは語らないし、詳しく述べればそうとも言えない——していることも知って欲しい。悲劇がバッドエンドとイコールで結びつくわけでもなく、ストーリー上の凄惨な事件がそれと飽和するかといえば、それも違う。だが、悲しい出来事で涙をすることは、結果的に心を浄化することに繋がるということもある。よって、最低限の悲劇を私は最低でも数本に一本読むことにしている。


 さて、ここで疑問点が沸く。彼ら哲学者たちの言うカタルシスと、世間一般の言う小説におけるカタルシスは同義なのか。いろいろな人の話を聞けば、カタルシスを浄化と捉えている方は少ないように思える。明らかな悲劇を鑑みて、「ああ、良いカタルシスだった」などとレビューする人はいないだろう——私の主観である故、居る可能性もある。


 つまり、現時点でのカタルシスとは、浄化という部類にカテゴライズされずに、爽快感という一点のみと一致する——本来は同じカテゴリのはず——のではないかという見解に達した。ならば、その爽快感と悲劇は互いに真逆の立場のように感ずる。


 話を戻そう。ある作家の書いた物語は、今、風前の灯火よろしく、消えてしまいそうな憂き目に遭っている。作者自身が消そうとしているからだ。ある作者は、物語の中でキャラクターは生きていると言っていた。じゃあ、消してしまうのは殺人に等しいのか。消してしまえば、殺人行為として立件、逮捕されてしまうのか。そんな馬鹿な話はない。消すも自由。生かすも自由。だが、キャラクターは確実に死に絶え、数年もすれば誰からも思い出されない。



 ——なんたる悲劇。これこそカタルシスと言う名の浄化作用ではないのか。



 ストーリー上で、”あるキャラクター”の魂を殺し、現実でキャラクターを殺す。二度の仕打ちに対して、苦悩に喘ぐキャラクターたちは今、何を想うのか。


 私は否定しているのではない。非難しているのではない。やりたいようにやればいいと思う。考えも分からなくもない。


 だが、一つ言えることは、物語を描く前、そして描いている最中、自分の強い信念の元、貫いてきた想いまで自刃して殺してしまうことにためらいはないのか。


 自刃してしまえば、作家自身はカタルシスどころではない。


 物語が人を傷つけることもある。私自身、何度も傷つき、何度も涙した。だが、心の中でその文脈と行間、それにキャラクターたちの息遣いは今も生きている。


 物語を終わらせるのと、存在の否定は似て非なるもの。



 君が思いとどまることを切に願う。



 ※これは私の主観。間違っている可能性もある。それに誤った見解をしている可能性もある。だから過度の指摘はしないでほしい。ここで指す作者は存在しないということにしておく。だから特定などという行為はしないで欲しい。

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ある作家に告ぐ 月平遥灯 @Tsukihira_Haruhi

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