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 夏休み、平日は昼イチから日没ぐらいまで演劇の練習がある。それ以外の時間は暇だった。智子は勉強に、恵子は執筆に向き合っていた。元の世界でもふたりは熱心だったが、それ以上に真剣であるように見えたのは、あのババアに負けた経験が影響したのだろうか。智子と恵子は声をそろえて「ババアに勝つまでは元の世界に戻らない」と主張した。

 ババアはといえば、演劇の練習が終わったあとは家でごはんを食べるが、しばらくすると出かけてしまう。制服から派手な衣装に着替えていたため、風俗に行くのだと思われた。そして朝方にようやく帰ってきて、化粧を落としてラフな恰好に着替えると、また小一時間ぐらい出かける。帰ってくると、演劇の練習まではずっと寝ている。それがババアの生活だった。

 ババアと会話する機会はほとんどなかった。演劇の練習中にその暇はなかったし、強いていえば食事中ぐらいだ。食事はババアが作ってくれた。炊きすぎて黄色くなったごはんとか、味付けの薄い味噌汁とか、ぐずぐずになった肉じゃがとか、昔よくババアが作ってくれたのと同じ料理が食卓に現れて、なつかしかった。智子が英語で翻訳してくれて、ほんの少しだけ会話をした。ババアはやっぱり自分のことを話したがらなくて、そういう話題になると怒りをあらわにしたため、あたしたちはできるだけ無難な話題を選んで話をした。

「朝からよく眠れるね」

 とか、そんな取り止めのない話題だ。ババアが英語で口にした返事のうち、「シャイン」という言葉は聴き取れた。

「明るいほうが眠れるんだってさ」

 智子がそう翻訳してくれた。前の世界にいたとき、ババアは眠るときは必ず電気を点けることにこだわった。それはこの世界で、ババアが「シャイン」のなかでしか眠れないことと関連しているのだろう。そんな些末な、どうでもいいことのなかに、あたしは「ふたつのババア」を繋げるものを見出そうとしていた。

 ババアが風俗に行くまえ、ほんのすこしだけゲームを遊ぶことがあった。対戦型のゲームはマリオカートしかなくて、あたしたちは勝ち抜き戦をした。ババアはやっぱりめちゃくちゃ速くて、あたしがやっても、智子がやっても、恵子がやっても勝てなかった。智子と恵子はやがて諦めてしまうのだが、あたしは「勝つまでやる」と宣言し、何度も何度もババアに挑みかかった。それでもやがてババアは風俗に行ってしまう。あたしは「逃げるのか!」とババアを挑発するのだけれど、ババアはどうしてかそのときだけ悲しそうな顔でわらったから、あたしはそれ以上に何も言えなかった。あたしはババアに行かないでほしかったのかもしれない。それもまた、前の世界と繋がっているのだろうか。例えばあたしは、ババアに「死なないでほしい」と思っていたりしただろうか。


 演劇では、ババアの台詞、つまりマリアの台詞がないよう、恵子が脚本を作り直した。そのぶんだけヤスさんの台詞、つまりあたしの台詞が増えた。あたしとババアの絡みが当初予定よりも増し、ストーリーはあたしの台詞メインで進行するよう書き直された。それでも、要所ではババアの一人舞台が入り、主役の、マリアとしての存在感が発揮された。

 練習を見るかぎり、ババアはマリアとして完璧だと思った。優れた演技に言葉はいらないとするならば、ババアは女優として完全だった。練習にNGはつきものだ。むしろNGを経ることで舞台はシェイプアップされていく。それなのに、ババアの演技にNGが出たことは一度もなかった。にも関わらず、ババアの演技は回を追うごとに研ぎ澄まされていった。

 このまま進めば本番ではババアはいったいどうなってしまうのか、あたしはそれを恐れながら、NGを出されるたび自分の演技を見つめ直し、鏡の前で練習し、ババアに追いつくため必死になった。

 智子や恵子とは違い、あたしはババアに勝とうとは思わなかった。勝てるとは思えなかった。ババアの演技を追うとき、あたしにはある種の憧憬があった。恥ずかしくも、あたしはババアになりたかった。もしかすると、智子や恵子もそう思っていたんだろうか。ただし、あたしだけが携えている矜持のようなものがあるとしたら、あたしはババアに恥をかかせたくないと思った。それはあたしが演劇をするうえでのモチベーションであり、演劇以外でもそうだった。プライドの高いあたしにそう思わせるぐらい、ババアの演技は完璧で、完全で、あたしが知らないうちにずっと持ち続けていた理想像そのものだった。

 最後のシーンの練習はしなかった。これは雷のような光を発生させる必要があるからで、智子が装置の設計に苦心していたし、装置は一度きりで燃え尽きる可能性があったため、本番の一発勝負に賭けることが決まった。この流れは前の世界とも同じだった。ただしあたしは前の世界とは違い、マリア役ではなく、ヤスさん役だったので、事実上のぶっつけ本番にはそれなりに緊張をした。何よりも、ババアが最後にいったいどんな演技を見せるのか、楽しみでもあり、怖くもあった。

 最後の場面はヤスさんの葬式だ。十二使徒がはけた後、しろい聖堂にはヤスさんの眠るくろい棺が残される。聖堂の十字架にはマリアが打ち付けられている。やがてマリアに雷が落下し、聖堂が燃えると同時に、死んだはずのマリアが復活する。真っ赤な炎に包まれる舞台、合奏部による荘厳な聖歌が鳴り響くなか、マリアがヤスさんに祝福のキスをする――。それと同時に幕が落ちるのだ。なお、雷も炎もただの効果であり、キスも実際には、しない。


 「神様の葬式」のテーマは、「輪廻転生によるマリアとヤスさんの役割の交換」だ。だから十字架に打ち付けられて死ぬのはマリアだし、復活するのもマリアだ。そして最後の場面は、復活を契機として広がったその後の宗教が、マリアを主役として反転することを意味しているという。母と子の反転であり、おとことおんなの反転であり、それに示唆される全ての反転だ。「これは今の宗教の否定とか、新しい宗教を作るとか、そんな大それたことを意図していたんじゃなくて、ただ、元の宗教の裏に隠されている、もうひとつの宗教を暴きたかった」と、いつだったか恵子は雑誌の取材で語ったことがある。あの記事をババアは読んだんだろうか。

 あのとき、ババアに見せたかったあの演劇を、ババアと一緒に、役柄を入れ替えて行うというのが不思議であり、因果だと思った。この世界で行うべきことはいくつかあるだろうが、この「神様の葬式」の成功もまた必要条件だろうとあたしは考えていた。あたしはババアと一緒に、かつての「神様の葬式」を越える舞台を完成させたかった。そんなことをババアに言ったりはしなかったし、練習中に話すことはまったくなかったけれど、ふとした演技の仕草のなかにそんな思いを忍ばせた。

 「神様の葬式」が終わったら――、あたしはどうするんだろうか。前の世界では、打ち上げが終わったあとの帰り道、あたしはヤスさん役の女の子と初めてのセックスをした。あたしは、ババアと、それをするんだろうか。今までのセックスには理由なんてひとつもなかったのに、あたしはババアとのセックスにおいて、先だってあるべき理由のようなものを見出そうとしていた。風俗のとき、ババアはどんな声でなくんだろう。そんなこと知りたくなかったのに、知らないでいるためには、あたしはババアを抱かないといけないんじゃないかと思った。

 ふと思う。セックスとは、矛盾だ。セックスとは、ぜったいに貫けない盾を、ぜったいに貫ける槍で突くことだ。

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