5

「差別や! これだけははっきりしとる!」

 帰り道、砂利道の石ころを蹴飛ばしながら、恵子は叫んだ。最終的にあたしがヤスさん役を受け入れる形で、マリア役はババアに落ち着いた。そのことを英語で告げられても、ババアはやはり嬉しそうではなかった。

「韓国人やからや! ババアが、カンチヘが韓国人やから、みんなババアの肩持ってんねや!」

 恵子がそう声を張り上げると、智子も、

「ほんまやで! 死んだらええねん!」

 と同意する声を揃えた。

 一方、あたしの心は不思議と落ち着いていた。

「……あたし、韓国人、嫌いなんだよ」

 誰にともなく、そう呟いてみた。智子も恵子もそのことは知っていただろう。何をいまさら、というきょとんとした表情で、

「知ってんで。韓国人俳優との共演でNG出して、リベラル系のメディアでえらい騒ぎになってたやん」

 と恵子は応え、智子も頷いた。

「恵子は確か、障害者が嫌いなんだよね?」

 それからあたしは恵子にそう確かめた。

 さすがにはっきりと訊かれるのには慣れていないのか、気まずそうな表情で口を尖らせ、

「……そうや。障害者を叩く小説書いて、揉めて、出版社から出入り禁止食らったの、美子も知ってるやろ」

 と恵子は言った。

「そして、智子は女が嫌い。合ってる?」

 続いて智子にそう尋ねる。

「見てのとおりでしょ」

 智子はショートカットの髪に手ぐしを通し、伊達眼鏡を整え、開き直ったような、さっぱりした口調で言った。

 あたしは一度頷き、それから誰かがこの話を聴いていやしないか、周りを慎重に確かめた。これから話すことは、三姉妹だけの秘密で、三姉妹の出自や、存在意義に関わるものだったから。

「あたしたちが嫌いな、韓国人、女、障害者。これってつまり、ババアのことだったんじゃないの?」

 正しいことを口にするのはすごく怖いと思った。それは常に間違っているかもしれない可能性と表裏一体だからだ。ましてやあたしたちの生き様を指針づけているかもしれないそれを言葉にするのは、勇気と、それを背負う覚悟のようなものが必要だった。声をひそめていたぶん、語尾が震えた。あたしがそれを言葉にするとき、あたしはとても弱かった。正しいことはたぶん、弱い。あたしたちがババアと向かい合うことも、たぶんすごく弱い。でもその弱さのなかに、元の世界に帰るための鍵が隠れているはずだ。

「……ババアは障害者ちゃうやんか。死ぬ直前までは足も腰もぴんぴんしとったで」

 ババアと一番長く過ごしていた恵子が呆れたような口調でそう反論した。すこしでも反論されるとあたしのそう確かでもない根拠が失われそうになるが、おなかに力を込め、声を張って、こう尋ねた。

「身体障害以外にもあるじゃん。精神障害とか、知的障害とか。ほら、風俗してるのも、そのへんの弱さが原因かもしれないし」

 恵子はすこし考えたのち、

「でも、手帳なんか持ってへんかったで」

 と再び反論をした。

「あのババアが国に援助求めるとは思えないけどね」

 ずっと黙っていた智子がそう言った。

「わたしは美子が言ってること、ちょっと分かるな。確かにババアは、女って感じがしてた。いや、今までは意識してなかったけど、この世界に来て、風俗をしてるババアを見てからは、もう女にしか見えなくなった。わたしは今でも、この世界のババアと元の世界のババアが繋がってるのか、分かってない。違ってるところもあると思う。ババアがわたしより賢いわけなんかないし。でもわたしは同じぐらい、繋がってるところもあるんじゃないかってそう思う。そのうちのひとつが『女』っていう要素だとしたら、わたしはどうしてババアが嫌いだったのか、自分では納得できるよ」

 智子は時々考え事を整理するように言い淀みながらそう口にした。智子が口にしたそれは、あたしの考えともほとんど等しかった。ただあたしは、この世界のババアと元の世界のババアは完全に一致していると思っていたので、その点についてだけは見解が違った。

 恵子だけは「ふたつのババア」が完全に分離していると思っていたのだろう。あたしたちの考えを理解できない様子で、不服そうに頬をふくらませ、それ以上は何も言わなかった。智子も黙ってしまったし、あたしも口を閉ざした。以降は口を利くことなく、家までの砂利道をゆっくり歩いた。それぞれがそれぞれの答えを探していたのだろう。共通して考えていることは、「前の世界への帰り方」で、そのための鍵として「ふたつのババア」を見据えていることは察せられた。この世界のババアと、前の世界のババアを繋ぐ、あるいは、繋がない、線分のどこかに答えがあるのだろうと、あたしたちはそう考え、それを探ろうとしていた。


「風俗やな」

 家の前に辿り着き、鍵を開けようとしていると、恵子が花街に目線を向けたままそう言った。

「さっきの話を総合すると、そういうことやろ。うちらが嫌いな、韓国人・女・障害者。ババアのなかでこれと風俗とは繋がっとる。なんて分かったようなこというとババアはブチギレるやろうけど、そのキレるのが答えやんか。この世界のババアは風俗をしとる。前の世界のババアも、たぶんしてたんやと思う。やからうちらはババアを嫌いやったんや。風俗はババアの生き方そのものやったんやと思う。なんでババアが風俗してたんかが分かれば、うちらは答えに近づけるんとちゃうか」

 恵子は、答え、というあいまいな言葉を使った。それに先だった問いなんてあるんだろうか。あるとすれば、どんな問いだろうか。誰が尋ねてるんだろうか。ババアだろうか。そもそも、問われてもいないことをあたしたちは答えようとしてるんじゃないだろうか。

「あたし、ババアと仲良くなってみようと思う」

 いろんな考えが頭をかけめぐり、なにひとつ整理できないなか、あたしは自然とその提案をしていた。そうだ、あたしはいつも、考えるよりも前に行動をする。それがいつもババアに怒られた、あたしのやり方だった。

「あたし、智子みたいに英語なんてできないし、恵子みたいにババアのそばにいたわけじゃないから、何ができるかわかんないけど、あたしにしかできないことがあるかもしれないから」

 言いながら考えた。それはなんであろう。三姉妹のなかでは、あたしが一番ババアと折り合いが悪かった。ババアと一番よく喧嘩をした。そんなあたしだから、もしかすると一番ババアのことを理解できるかもしれないと思った。別に理解したかったわけでもないけど。それでも、あたしが一番ババアに近かったかもしれない。そんなある種の義務感と、決して認めたくはないが、ある種の親近感があった。繰り返すけれど、あたしはババアのことなんて別に理解したくなんかない。けれど、ババアのなかにいるあたしのことは、理解してみたかった。

 もしいま「元の世界に戻れますがどうしますか」と訊かれたとする。そのとき、あたしはどう答えるか、そのときになってみないと分からない。でももし「NO」を選ぶとしたら、その理由のうちの一番大きなものは、「ババアからどういうふうにあたしが見えているのか知りたい」に他ならなかったと思う。そのことはそのまま「仲良くなりたい」に言い換えても、そう間違ってはいないかもしれない。

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