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 ババアの家の屋上にはおおきな合板が渡されていて、そのうえに錆び果てて赤茶けた物干し台が傾いていた。あたりには木の葉が積もり、腐葉土と化したものから雑草が一面に伸びている。物干し台や草を照らすものは裏山にそびえる聖堂の塔に反射したわずかなひかりだけなので、色合いの薄いモノクロの世界だ。

「美子、ちょっといい?」

 あたしがぼんやりしていると、階下につうじる扉が開き、そこから智子が顔を出した。

「智子か。こういうときに追いかけてくるのは、恵子かと思ってわ」

 あたしは智子の手を引いて屋上まで上げてやった。智子はあたしのとなりに三角座りをして同じ視界を共有したまま、彼女らしい落ち着いた口調で言った。

「恵子ちゃんはあれで姉妹のなかで一番しっかりしてるもんね。わたしはだいぶ自由にさせてもらった」

 あたしは頷く。高校を卒業するとすぐにイギリスに飛んだ智子は、好きなときに好きな場所に移動し、好きなことを勉強し、好きな会社に入り、好きなように働いてきた。実家にもほとんど帰っていないはずだ。でもそれが自由と呼べるかといえば、そうでもないと思う。だってあたしも同じだから。

 女優は自由な仕事だと思われがちだが、人気商売ゆえに言動はかなり制限される。人気は人の気と書くとおり、気まぐれで、ちょっとしたことで簡単に上がり下がりする。むしろ下がることのほうが多いだろう。ファンから反感を買えば、スポンサーからは簡単に首を切られる。そうなるともう次の仕事はない。好きなことを言って好きなことをするのもいいだろう。実際、そういうふうに世を渡っているお騒がせ系のアイドルや芸人もいる。でもそこには「何を言い」「何をしたか」という責任が常につきまとう。自由はよく翼に表現されるが、その翼は片翼だ。実際には、責任というもうひとつの翼があって初めて空を飛べる。自由をもし権利とたとえるなら、責任は義務と言い換えてもいい。

 責任や義務を抱えてこなかった智子は、自由には飛べなかったはずだ。そしてあたしたちにとっての責任や義務というのは、ババアのことだ。恵子だって同じだろう。責任と義務しか抱えてこなかった恵子も、ずっと自由ではなかった。それはあたしも同じだ。

「恵子は? 寝た?」

 あたしが智子に尋ねると、智子はふーっという長い息を吐いた。

「寝てはないけど、だいぶ参ってるみたいだから、ひとりにしといたほうがいいと思う」

 智子の言葉を聴いて、あたしは頷く。恵子は昔からそうだった。しっかりしてるくせ、周りに頼ろうとしない。自分のことは自分のなかでだけ処理しようとする。そのための手段のうちのひとつが、小説だったのだろう。小説で彼女は自分のことを書かない。その代わり、物語を見つめる視点として自分の位置を定めている。恵子の小説はいつも三人称だ。そうして見てきたもの全てを言葉にすることで、物語のなかに視点としての苦しみを溶け込ませようとする。恵子が得意なのは純文学の恋愛小説で、とりわけ人物の心理描写に対する評価が高い。でもあたしは、恵子の小説のなかでは、背景がいちばん好きだ。丁寧に描き込まれたそこからは、背景にしか過ぎないとたぶん彼女自身がそう思っている人生の、描かれていない豊かさが窺い知れるからだ。


「ひかりの園、って覚えてる?」

 しばらく思い悩んだのち、あたしは思い切ってその言葉を尋ねてみた。こんなとき、あたしの身に馴染んでいるはずの演技は何も助けてはくれなくて、ひどい棒読みのセリフになった。仕事やお金というのはそういうものだろう。人生を助けてはくれないのは、それはきっと、人生で得たものではないからだ。だから交換ができない。いったいあたしが人生で得たものはなんだろう。それは分からないけど、あたしが人生で失ったものは分かる。それは、生まれつき持っていたもので、ババアが最初に与えてくれたものだ。

「思い出したくなかったな」

 智子はそう言って、さっきより長く細い息を吐いた。

「恵子ちゃん、たぶんババアを殺したことより、ひかりの園のことで参ってると思う」

 あたしは再び頷く。

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