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 朝起きると簡単に化粧をきめ、身バレしないよういつものサングラスをつけて、タクシーで家を出た。フロントガラスの向こうには入道雲を背負う青いそら。とっくに太陽はあがり、蝉がわなないているが、そのちからは弱くなっているし、早朝はいくぶん涼しさを感じるようになった。夏の終わりが近づいているのだ。

 有線のイヤホンを耳につけ、ラメで爪をととのえた指先でアイフォンをタッチし、アトランダムに音楽を流す。ちょうど「夏の魔物」が流れはじめて、気がきいてるなあ、と無性にいらいらした。

 早朝の道路は空いているため、品川駅までおおよそ三十分。タクシーの車内で、あたしは「夏の魔物」だけをオートリピートしながら、ババアのことを考えていた。ババアと過ごした最後の夏のことを考えていた。

 夏休みになんばでスカウトされたことを話すと、名刺をびりびりに裂いて激怒してたっけ。べつに喜んでほしかったわけでもないけど。それにあの夏はスカウトよりも、九月の文化祭に向けて演劇部で練習していた劇の主演に選ばれたことのほうがうれしかった。

 うちは三姉妹とも演劇部に所属していて、脚本は恵子が書いてくれた。恵子の脚本であたしが演技をすることは、お互いがデビューしたあとも三回あるけれど、その最初の機会だったわけだ。劇の数ヶ月後ぐらいに恵子は大手出版社の文学賞をとり、あたしはアイドルオーディションに受かったので、その意味でもあの劇にはハクがついていい思い出になったんだ。なつかしいな。智子はそのころすでに国内外の超難関大学を見据えて受験勉強が忙しかったんだけど、勉強の合間をぬって大がかりな舞台装置を作ってくれて、劇は大成功を収めた。姉妹三人で過ごした最後の夏でもあったわけだ。

 なんだっけあの劇の名前、そうだ、たしか「神様の葬式」だ。最後、聖堂に雷が落ちてヤスさんが燃え尽きるっていう、まあまあバチあたりな脚本だった。あたしはマリアの役だった。しかもその劇が終わったあとの打ち上げで、あたしはヤスさん役の女子と最初のセックスを決めちゃうわけだから、その点でもそうとうバチあたり。

 なによりも恥ずかしいのは、あたしはあのセックスのあと、そのことを泣きながらババアに告白したってことだ。なんであんなことしたんだろう? とうぜんババアはあたしをなぐさめてくれるわけでもなく、むしろそのこともひどく怒られた記憶がある。というかあたしはババアに怒られた記憶しかない。

 だからあたしは、怒ることしか知らない。智子と恵子もきっとそうなんだろう。智子は泣くことしか知らないし、恵子は笑うことしか知らない、のはみんな同じようにそういうふうにババアに馬鹿にされて育ってきたから。

 思い出すと、またおなかの底がムカムカとしてきた。引きちぎるようにイヤホンを耳から外すと、もろん、とアイフォンからもイヤホンが零れ落ちてしまい、その勢いでアイフォンから草食系中年のエモい歌唱が流れ、運転手さんに気まずい思いをさせた。

 夏の魔物になんて、会いたくなんか、ないよ。あたしは、死とセックスのことを考えたりしない。タクシーの揺れ方で気づくのは、人生の意味なんかじゃなく、この道がまるっきり平坦じゃないってことだけだ。捻れよ、とちいさく呟く。

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