第28話 霜降り

 朝が遅くなり、庭に霜が降りる日が増えた。霜柱をざくざくと踏み砕くのが楽しみで、冷える朝の起床も苦にならない。

 ジリアンが庭を歩き回り、夜明けの空に輝く明星を満喫し、朝食のスープとスクランブルエッグがすっかり出来上がってから、宵っ張りのノエルが起きてくる。

 その頃にはもう霜柱は溶けているから、かれはいつも悔しがる。明日こそは早起きする、と意気込みを見せるわりに、陽が落ちると決意もまた薄れてしまい、朝になってから頭を抱える、その繰り返しだった。

「そんなにこだわらなくても」

「だって、この歳になるまで霜柱を踏んだことがないんですよ。引っ越し前は都会暮らしでしたし。私だってざくざく踏みたいんです!」

 むきになるノエルとは、昔の話をしてから少しだけ距離が縮まったように思う。ジリアンはかれに、ディディエと植物園に行った話をした。この前とは別のうろを見て、このなかで冬眠するには、というような他愛ない話をして、園内のカフェレストランで軽く食事をして別れました、と。

 不出来な作文めいた起伏のない一日の話を、ノエルはうんうんと頷いて聞いたあと、頬を緩めて眉を下げ、「それは、楽しかったでしょうねえ」と微笑んだ。

 車を借りたのだから、事の顛末を報告する義務があると思って話したのだが、その笑顔を見て考えを改めた。楽しかったから、ノエルに話したかったのだ。「パパ、ママ、今日はこんなことがあったんだよ」と話す子どもの心もちでいたのだ。

「……はい!」

 家事と買い物を終えてから、ジリアンは納屋に籠もる。毛布やストールにくるまって、歌う花の様子を見つつ、魔術書や園芸の本をめくる。年代もののコンポからはショスタコーヴィチの交響曲が流れているが、まじめに聴くと眠くなるので、手元の文字に集中していた。

 書物に答えは記されていない。新しい道を拓くのであれば、正解は工夫と偶然と、もしかすると努力の結果としてしか現れまい。何かのきっかけになればと目は文字を追うが、心は容易に羽ばたいて、ルシアンやディディエの肩に留まる。

 自由に、と笑うルシアン、生まれたての雛を両手で包むように「ジリアン」と囁くディディエ。鷹揚な裏側に細かな傷をいくつも抱えるノエル。

 ジリアンは指揮台に立つノエルの姿を動画で見た。マーラーの交響曲第8番。「第九」のように歌詞がついており、賑やかで荘厳な曲調だった。「千人の交響曲」と題されているだけはある。小柄ながら筋肉質の体を包む燕尾服と金色の尾が、動きに合わせて楽しげに揺れていた。

 今よりもずいぶん若いノエルは、どの動画でも精力的に、真摯に、そして興奮の色を浮かべて指揮を執っていた。音楽の極みへ達すべく駆け続けるかれを思った。まさしく金色のレトリーバー犬となって、音の世界を疾駆するさまを思い描いた。

 その活躍を画面越しに知る家族の気持ちが離れてゆくのも理解できる。同じ家で暮らす家族として、ささやかな幸福を望むのと、才能の果てを追い求めるのはいかにも相性が悪い。理解と献身を拒絶するならば、離別に至る道を選ぶしかない。

 愛息子の喪失を嘆く母と、早々に割り切った父を見たジリアンは、自分が兄の代わりにになれば家族のかたちは保たれると考えた。あの頃はけなげだった。

 お茶の時間になるとノエルが呼びに来てくれる。「ハニーハウス」のシフォンケーキとカフェオレで頭の疲れを癒やしながら、進捗と展望を語り合う。

「あと少しという気はするんですが、何が足りないのかがわからなくて。僕は論理的なタイプじゃないので、言葉でうまく説明できなくてすみません」

「いいえ。頑張ってくれているのは知っていますよ。ありがとう、ジリアン」

 ノエルはふと、マグカップを置いてカフェオレをかき混ぜた。

「……と、家族にも言ってあげるべきだったのでしょうね。かといって、あなたを代わりにしたくはないんですが。まあ、進歩だと思いたいですねえ」

「僕だって同じですよ」

 互いに、うまくいかなかった過去をやり直しているのかもしれないし、記憶の中の家族を見ているのかもしれない。ただ、ノエルは親でも教授でもないし、ジリアンは伴侶でも子どもでもない。

 ノエルも、ジリアンも、かつての家族の代替品ではない。その一線を侵すつもりはなかったが、あやまちを「失敗」と切り捨てるのも違和感がある。穴を抜かれたリングドーナツ、たっぷりのフィリングを詰め込まれたケーキドーナツ。どちらかしか選べないのはあまりに酷だ。

 ならばどちらも選ぶ。自らの気持ちに正直に、欲張りに。

 リングドーナツも欲しいし、ケーキドーナツも好き。コーヒーも紅茶も、はちみつ入りのホットミルクも。ドーナツの魔法、音楽の魔法、双子の魔法。どれもすてきな世界へ続いている、黄色い煉瓦の道だ。

 視線を彷徨わせて物思いに耽るノエルの指が、テーブルにリズムを刻む。それを見るうち、頭の中でヴァイオリンが鳴り響いた。

 長く長く、弓が引かれる。ジリアンはこの曲を知っている。

「……『未完成』」

 呟きに、ノエルがはっとおもてを上げた。

「どうして……わかったんですか」

「わかりません。わかりませんけど……あっ」

 大声に身を竦ませるノエルを置いて、納屋に駆け込む。蕾をつけ、開花を待っていたゼラニウムが一斉に咲いていた。赤、白、ピンク、オレンジ、紫。

 底冷えのする納屋の暗がりで咲くゼラニウムは、シューベルトの交響曲『未完成』第一楽章をうたっていた。

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